9 触るな
回れ右して今すぐ去ってくれ。
悲し気に佇む女に対して、最低な感想かも知れないが、俺の胸中はそれ以外浮かんでこなかった。つーかマジで何の用だよ。
「何? またお使い押し付けられた?」
俺は彼女の友達ではない、直属の先輩でもない。何故か顔を合わせる頻度が多いだけの顔見知りだと、俺は思っている。カスミの声で『それは無理があると思います』って言葉が聞こえた様な気がしたけど、俺の中でシンシアを顔見知り以上にするつもりは無い。顔と名前が一致して、話した事がある相手。それ以上でも以下でもない。
「あまり別学科の生徒を使わない様に、俺から進言しておくから、あんたも断ってくれて構わない」
「あの、違います。今日は、私……」
「では、何故?」
さっさと話して帰ってくれ。この部屋は俺専用ではないが、だからこそ誰かに見られてあらぬ噂を立てられては迷惑だ。ただでさえ、避けても避けても軌道修正するが如く遭遇させられて、私情を多分に含んだ出禁にしてやろうかと思っていたくらいなのに。
「あの……エスミーの事で」
「……俺の婚約者が、何か?」
「私、今グループワークでエスミーと同じグループなんです」
「彼女から聞いている」
「それで、あの……意見が、分かれていて。私は獣人に対する性風俗法の改定を発表したいんです。改定案、若しくは撤廃し新制定する事も視野に入れた内容にしたいと思っています。それが、その……エスミーには反対されていて」
「それを俺に言ってどうするんだ。俺は研究員であり法の素人、そちらの議論について発言する権利を持っていない。そもそも学科の違う人間に何を」
「エスミーは貴方の研究に口を出してるじゃないですか!」
片手間に対応していた事が仇となって、急に距離を詰めて来たシンシアに反応出来なかった。いや、ウサギ獣人の血を引く相手だ、分かっていても反応出来たか自信はないが。シンシアの手が俺の腕を掴み、二の腕に額が触れた。咄嗟に振り払おうとして、自分が何を持っているかに気が付く。片手にコーヒー、片手に漸く出来上がった報告書。こいつがタイミングを計ったのでなければ、俺は最早こいつを受け入れろと世界に脅迫されている。
「おいッ……!」
「私、知ってます! ハヴェイナ様の研究は、この国の苦しんでる人達を救う為のものだって! それを、成果ばかりに目を向けて批判するなんて……!」
「ッ!!」
驚いたのは、俺の本当の研究内容を知っていたからではない。別に隠している事ではないから、学部が違ったってちょっと研究科と関われば知り得る情報だ。
俺が驚いたのは、中身では無く文章自体に覚えがあったから。
カスミの目を通して、俺はこの言葉を知っていた。小説の中の俺は、この言葉を聞いて感極まり、目の前の女を抱き寄せる。耳障りのいい音に縋る。
「私達はただ、優しい世界を作りたいだけなのに……っ」
声に涙が混ざる。掴まれた袖にシワが寄った。俺の目線からは旋毛しか見えていないが、恐らく泣いているんだろう。そして、小説の中なら、俺はその背を撫でて耳元で愛を囁くのが正解だ。
言いようのない不快感が、胸中を駆け巡る。掴まれた腕でも、縋り付く手でも、泣く女の影にでもない。俺と言う存在への不快感が、口からまろび出そうだった。
ハヴェイナがシンシアに恋をした理由が、分かってしまったから。
華奢な体、細い指、柔らかな髪、どれもこれもが頼りない。小さくか弱く、守られなければすぐに息絶えてしまいそうな儚さがあった。『俺』はその弱さを守らねばと思い、この女の甘い肯定に目が眩んだのだ。
結果の出ない毎日に、高すぎる目標に、否定ばかりの婚約者に、知らず知らずに心をすり減らしていたらしい。貴方は間違ってない。貴方は素晴らしい人、素敵な人。きっと大丈夫、いつかきっと、成功する。私が付いているから、私は、分かっているから。甘く優しいだけの言葉に惑い、浸かり。気付いた時には『恋』となって抜け出せなくなっていた。
まるで麻薬だと、冷静な自分が嘲笑う。中毒性はピカ一、使えば使う程に脳を溶かして思考力を奪う代物。
シンシアに惚れたのは一種のつり橋効果で、恋より依存に近いもの。何故惚れるのか分からないなんて、分かるはずも無かったのだ。ハヴェイナとシンシアの恋には、エスメラルダが必要不可欠だったから。エスメラルダに否定されればされるほど、シンシアの甘言はより甘さを増した。
自分で自分の頬を張り倒したい気分だった。お前の酔っているその酒は、甘さが濃いだけの粗悪品だと。その言葉の中身は空っぽだ。頑張っているから認めてくれという傲慢さと、不必要だから止めろという横暴さの、何が違うというのだろうか。どちらも俺が成功するなんて微塵も信じていないのに。
優しい考え。誰かを想い、誰かの為に行動するのは尊い事だから、成果なんて関係なく称えられるべきだ。私は分かってる、誰に理解されなくても、私は分かっているから。落ち込まないで、悲しまないで。私達の目指す世界は美しい、私達の願いは、素晴らしい。
そんな言葉、そんな称賛、そんな気休め、俺は一つも望んでいない。
俺は結果が欲しい。俺の目的は、誰もが魔力に頼らずとも生きられる世界を作る事で、目指す事ではない。この研究に邁進し、必ず成功させる。それは優しい世界を作りたいからでも、弱きを救いたいからでもない。母の死を止められず、ただ泣くしか出来なかった、幼い自分を慰めたいだけだ。もうあんな悲劇は起こらない、大事な人を護る術は手にしたからと、蹲る背を叩くためだ。
今、俺が、弱った時に欲しいのは。痛みを紛らわす為の過剰な麻酔ではなく、痛みを伴う治療を目を逸らさずに行える人。成功していないだけだ、成功するまでやれば良いと、躊躇いなく突き付けてくる、カスミの様な女がいい。
「ハヴェイナ様……」
「触るな……っ」
後退った俺を追う様にして体を寄せて来る、頬を滑る手の平の感触に鳥肌が立った。前髪の下、俺が隠している傷痕を柔い指の腹が撫でて、シンシアの顔が分かり易い驚愕に染まった。
「これ……」
俺の顔には、継母に付けられた大きな火傷の痕がある。幼い頃の話で、痕が残った以外は生活に支障はない、視力に影響がなかったのは幸いだった。ただ左目をすっぽり覆う場所と大きさがあまりに目立つから、普段は前髪で隠れる様にしているが、ちょっと長く傍に居ればおのずと目に入るだろうくらいには、雑な隠し方だ。
この傷に気が付かないくらいには距離があったはずなのに、何故この近さが許されると思うのか。
「離れろ。不愉快だ」
顔を背けて、頭一個分下にある女を睨み付ける。ビクリと肩を震わせ、漸く離れた体を更に押し退ける様にして距離を取った。手を伸ばしても触れられない距離へ。
報告書とコーヒーをテーブルに置いて、さっきまでシンシアが触れていた頬を拭った。完全に無意識の行動だったが、前髪が乱れて光の下に晒された火傷痕は、か弱い乙女には刺激が強かったらしい。痛ましいと言わんばかりに、表情が歪んでいる。
「その、傷……」
「あんたには関係無い。用件がないならさっさと出てってくれ」
今まである程度礼節を持って対処していたのは、シンシアが誰かの使いとして来ていたから。しかし今回、シンシアは俺に会い、話す為に来たのだ。そして俺の意思を無視して距離を詰め、肌に触れた。充分すぎる拒否の理由だ。
「…………」
「は……?」
ぽろぽろと涙を溢すシンシアに感じたのは、驚きよりも不信の方が強かった。俺に拒絶された事が泣く程辛かったのか、この火傷痕が泣く程恐ろしかったのか。辛いと泣かれても何も出来ないし、恐ろしいならさっさと出て行って欲しい。俺の願いはそのどちらかで、憐れだとか労しいとか、そういう寄り添う気持ちは湧いて来ない。
「可哀想……」
「っ!」
「痛かったですよね、きっと、とても怖かったですよね」
強烈な嫌悪感を抱いた。目の前のシクシクと泣いている女に対して、そして、きっと記憶がなければその言葉に惹かれた己に対して。
「聞こえなかったか」
「え……?」
「出て行け、と、言ったんだが」
自分でも、表情が抜け落ちている自覚はあった。嫌悪、不信、苛立ち。それらが巡り巡ってぶつけるのも面倒になった。とにかく目の前から消えて欲しくて、この部屋から去って欲しくて、それだけだった。
そう言えば前にクリスから、俺は怒った顔よりも無表情の方がずっと恐ろしいと言われた事があったな。それを思い出したのは、真っ青になったシンシアが駆ける様に部屋を出て行った後だ。
「チッ……」
舌打ち一つで、胸の内に溜まった澱は流せない。ぐしゃぐしゃと髪を混ぜて、ソファに座り込み。ぼふんと音を立て、それほど新しくないクッションが沈んだ。背もたれに首まで預けて天井を見る。髪に遮られない視界は広く、美しい。隠す事が平常になり過ぎていて、普段は気にも留めていなかった。
シンシアの発言には吐き気を覚えたが、反応自体はそう珍しいものでもない。歪に引き攣った皮膚は悲劇を連想させるし、恐怖心を抱かれるのも、まぁ自然な流れだ。この傷に気が付いた者が取る反応として、驚き、怯えるか憐れむか。目を瞠る人の顔を、飽きるくらいに見て来た。
「……あいつは、気付いてないのか?」
そう言えば、カスミの驚いた顔は見たことがない。流石に気付いていないはずはないが、それくらいに反応された事がなかった。驚く顔も、怯えた顔も、憐憫の眼差しも、向けられた覚えはない。あいつが俺の傷に気付いていないのか、俺が、あいつの表情に気付かなかっただけなのか。
「失礼します」
「どぅわッ!!!!」
完全に思考の海へ潜っていた。ノックがあったかどうかも分からないが、目をぱちくりさせているカスミの反応を見ると、驚かせるつもりは微塵もなかったんだろう。俺が勝手に無様な姿をさらしただけだ。
「え、っと……なんかすいません」
「……触れてくれるな」




