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8/10

8 思った以上にチョロかった


 カスミがグループワークに入り、今まで入り浸っていたのが嘘の様に顔を見ない日が続いた。それこそ、エスメラルダだった頃の様に。あいつは俺に文句を言う時くらいしかここには来なかったし、俺も会いにはいかなかったから。

 いや、会いに行っていないのは今もか。行かずとも向こうがここを本の置いてある喫茶店の様に使っていたから。俺の蔵書と、カスミが持ち込んだ快適グッズ達によって完全に巣となっている一角。


「暫く来られないなら、洗濯とかしとくべきか?」

「気になるなら連絡取ったら? 別に音信不通じゃないんだから」

「それはまぁ、そうなんだが」


 当然の様に居座る友人・クリスの姿を見るのは、随分久しぶりだ。エスメラルダと喧嘩になればいつの間にか消えている様な男だが、カスミがくつろいでいる姿を見てからは一度も姿を見せなくなっていた。そういう、言葉にしなくても勝手に行動してくれる所が楽で、いつの間にか長い付き合いになっている。

 そして最近カスミが来ていない事を察知して、戻って来る情報収集能力にも、何度か助けられた。


「にしても、喧嘩して距離が出来たんだとばっかり思ってたけど……その様子じゃぜんっぜん違うみたいだね」

「何でそういう話になる」

「いやいや、ここ最近の方が『何で?』って感じだったからね? 君ら顔を合わせる度に喧嘩してた……っていうか、喧嘩する為に顔を合わせてたみたいな所あったのに」

「そこまでではないだろ。あっちが勝手に怒鳴り込んで来てただけで、俺は応戦してただけだ」

「それが何? 研究室に入り浸るだけじゃなくて、専用のゾーンまで作っちゃって。どんな魔法使ったの、若しくは使われたの」


 魔法と言えば魔法だが、暴発した結果なので別に俺のせいでもカスミのせいでもない。記憶を共有してから早数ヶ月、あまりにも自然にカスミが俺の生活の一部に組み込まれていたと、言われて初めて自覚した。


「別に可笑しな事じゃないだろ。元々カスミは婚約者なんだから」

「それも! 特別な愛称で呼んでるし。ハーヴェ、エスメラルダ様の名前を呼ぶのだって嫌がってたのに」

「カスミを呼ぶのは嫌じゃない、それだけだ」

「ほんとに何があったんだよ……惚れ薬でも盛られたわけ?」

「ハァ? 何を馬鹿な……」


 クリスの言葉に、紙を引っ掻いていた万年筆が止まる。何を馬鹿な事を、そう言い返そうとして、言葉が詰まった。それは言い返す言葉が思い浮かばなかったんじゃなくて……。


「俺は……あいつに惚れている様に見えるのか?」

「は? 自覚なかったの?」

「いや、前よりも話す機会は増えたが」

「こんだけ別格な扱いしといてそれは無理あるってー」

「特別扱いをしているつもりはねぇ」

「嘘付け。ハーヴェが聖域にこんだけ気配残されて平気な時点で、特別越えて唯一でしょ」


 聖域──クリスはこの研究室をそう呼ぶ。俺の聖域。俺が俺の目的の為に必死になって掴んだ、城。確かに聖域と称するに値する。

 エスメラルダがここに足を踏み入れるのが耐えがたかった。俺の目標を無駄だと言い放つ合理性で、荒らされたくなかった。名前を呼ぶのも嫌だし、口をきくのも嫌だった。あの日……エスメラルダがカスミになった日は、特に。実験が上手く進まない苛立ちと、傲慢な正論で俺を否定する声への拒絶。

 それはそれは声高に罵り合っていたはずなのに、気が付けば訳の分からない記憶の濁流に呑み込まれて気が狂うかと思った。

 真っ白で清潔だけど、簡潔で娯楽の無い部屋の、ベッドの上。華奢を越えて病弱な細さの少女が、ページをめくる指先の頼りなさ。咳き込むだけで死んでしまうんじゃないかと思うくらいに痛くて苦しくて、その度に記憶はぶつりと切れる。再開しては苦しみに途切れてを繰り返す記憶は、カスミが思い出した記憶のほんの数時間分でしかない。

 それでも混乱していたのは俺の方で、カスミの方は終始冷静だった。俺の焦りがデカすぎてそう見えていただけかもしれないが。合理的なくせに感情的で、正しさに準じない相手を高圧的に否定するエスメラルダとは、それだけで大きな違いだ。

 

 共に過ごせば過ごす程、あまりにかけ離れた女。エスメラルダが烈火を吐く火山なら、カスミはせせらぎの澄んだ川の様に、感情が緩い波線を描いている。特出して怒る事も無いし、大声で笑う事も無い。発露が乏しく、表情の変化も、ほとんど……いや、一度だけあったか。

 俺の実験の話をした屋上で、拗ねた様に口を尖ららせて。柔く膨らんだ頬が、恥ずかし気に色付いていた。

 それが、可愛く、て……。


「あー……くそ」

「え、ごめん。核心突いた?」

「貫かれたわボケ」

「ごめんねー」


 にやけた面が腹立たしい、が。それよりも今は、自覚した感情の方が重要だ。俺がエスメラルダに向けていたものとは対義にある、あまりにもシンプルで、あまりにも腑に落ちた。

 俺の領域に居場所を作る事を容認した時点で、嫌悪は薄れていた様に思う。シンシアへの対策として、それ以上に有効な手段が思いつかなかったとはいえ、エスメラルダが相手であったら絶対に許さなかった。なんなら、シンシアを積極的に引き入れようとしたかもしれない。

 一緒にいる内に、それが当たり前になった。俺が実験記録を纏めている間に、ソファの上で眠っている事にも、慣れていた。寝顔を眺めて頬が緩む自分に気付いて、何を馬鹿なとかぶり振った事だって。その時点で己の気持ちに気付いても良さそうなもんだが……。


「まぁ、それはおいおい考えるわ。結婚相手のポジションは確保出来てんだし」

「切り替え早いな。置いてかないでよ、僕、ぜんっぜん分かってないんだけど」

「説明責任がない。まぁ、自覚させてくれてありがとよ、とだけ言っとくわ」

「ちょっと、感謝はちゃんと伝えて欲しいんだけど」

「はいはい、その内なんか奢ってやるから」


 止まっていた手を再び動かし、最後の一文を書き終える。こっちは俺の表向きの実験結果。魔力の増幅や回復の関する記録だ。まだ提出期限まで猶予はあるが、俺はこっちをさっさと終わらせて本来の目的に勤しみたい。


「つーかお前も、ンな所で油売ってる場合か? 法学がグループワークに入ったってよ」

「あぁ、やっぱり始まったんだ。って事は、僕らもそろそろかな」

「お前ら四年は進学試験もあんだろ、落ちても知らねぇぞ」

「そんなへまはしないけど、そろそろ戻ろうかな。エスメラルダ様によろしくねー」

「わぁーったから、さっさと行け」


 しっし、と手を払って、視線も上げずに気配が去るのを待った。俺の雑な対応に慣れたクリスの呆れた様な溜息をついた後、視界端でクリスの茶髪が立ち上がるのが見えた。

 一人になって、書き終わった紙面に息を吐く。やっとやりたい事に専念出来るのは良いが、こっちを早く終わらせようと少し無理をした。目の奥が痛くて眉間を揉んでみるが、あまり意味はない。

 コーヒーでも淹れようと立ち上がって、チラリと隅に置かれたソファを見る。

 一人掛けにしては広いが、二人並んでは座れない。元々この部屋に置いてあったボルドーのソファの上で、抜け殻となった灰白色のブランケットが丸まっている。いつもはそこに金髪の高貴な猫が、三角座りでくつろいでいるのに。


(これ、思ったよりヤバいな)


 変わらない表情に反して、瞳だけはいつもキラキラ輝いていたのを思い出す。ここにあるのはどれも専門的なものばかりで、門外漢のカスミが読んで面白い物なのかと、聞いてみた事があった。

 知らない事を知るのが楽しいのだと言った、溢れんばかりの好奇心の証が、ソファの足元に積み上がっている。

 あの顔が見たい。読書に夢中になって、お腹が鳴り出してたり。ココアやおやつを頬張って満足そうにしている所も。眠気に敗けて、ソファの上でみのむしみたいになってる姿とか。

 そういう景色がこの部屋にない事が、いいようもなく寂しかった。


「俺、チョッロ……」


 思わず口元に手を当てて、ひとりごちる。あんなに嫌っていたくせに、違う表情になったからって、向けていた感情までひっくり返るとは。そして何より、そんな自分が嫌ではないのだと、勝手に緩む口元が告げていた。

 ティーセットには、使い捨ての紙コップの束と、カスミのターコイズブルーのマグカップが並んでいる。

 カスミは自分用の物を増やすのが好きだった。衛生面とか捨てる事を考えずに、ただ気に入った物を持つのが好きなのだと。それなのにブランケットは俺が適当に渡した物をずっと使ったり。


「……俺も自分の持って来るか」


 裏返しになっているマグの曲線を撫でる。両手にこれをもって、小さな唇が息を吹きかけている姿を思い出しながら、このカップの隣に俺の選んだ俺のカップが並んでる様を、見たいと思った。

 今日の所は紙コップで我慢しようと、指先を振るう。俺の魔法媒体は指輪で、杖に変換する事も無く、指がその代わりを務めてくれる。楽という理由だけでこの方法を選んだが、杖に手が塞がれないのはやっぱり効率的だ。

 ゆっくり熱を帯びるポットは、カスミが来る前からこの部屋に備わっていた物だが、俺が使うのは数回目。カスミはココアや紅茶を飲むのによく使ってるけど、俺は売店で買ってばかりだったから。


「コーヒー粉、開けてないならいけるか……?」


 賞味期限がどうとか、一応気にすべきなんだろうが、飲むのは俺だし……この一回だけならワンチャンありか。

 新品のまま残っていたコーヒー粉を前に逡巡していた時、研究室の扉から控えめなノックの音がした。クリスが戻ってきたのか、それともヴェナか、若しくは学科の誰かか。どれにしても、ここは俺が管理を任されているだけで、俺の私室ではない。


「どうぞ」


 紙コップにお湯と粉を入れれば出来る、簡単なコーヒー。流石にすぐ口を付けられる温度では無かったが、保温も何もない紙コップだからすぐに冷めるだろう。

 背後で扉の開閉音がした。何の用だ、と問うより先に、向けた視線が相手を捉え、悲し気に下がった眦に焦点が合う。


「ハヴェイナ、様」

「……シンシア・リッツ」


 居留守、使えばよかった。

 

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