11 すき
ぱちりと目を開けて、飛び込んできたのは黒い布。規則正しく前後するそれがヴェナのお腹だったと気付いたのは、頭上から聞こえた呼吸音のおかげだった。ぼやける視界と起き切っていない脳で判断した所、私だけでなくヴェナも寝入ってしまったらしい。窓の外は日が落ちて空が暗くなっているし、室内も月と外の灯りで照らされているだけ。
ゆっくり体を起こすと腕の中からぬいぐるみが床に零れ落ちる。緩慢な動きで視線を上げていくと、背もたれに首を引っ掛けているヴェナの姿があった。あれでは倒れはしないだろうけど首を痛めてしまう。
「ヴェナ……起きて、もう夜です」
「…………」
肩を揺さぶっても、起きるどころか反応すら示さない。私が来た時と同じ体制で、小さな呼吸音がするだけ。時折眉間に皺を寄せはするが、起きる気配は無い。
元々ここで徹夜をする事もあると聞いているから、寝かしておいても問題は無いのかもしれない。鍵の問題は私がかけて、明日の朝一で渡せばいい。置き手紙があれば状況は把握してくれる。
「……綺麗な人」
そう、分かっているのに。ついついその姿を眺めてしまうのは、美しいと思うから。空の広さに心惹かれる様に、彼の姿をぼんやり眺めているだけで満たされるものがあった。すだれの様に長い睫毛、通った鼻筋、薄い唇。黒い髪が良く映える白い肌。急所を差し出す様に眠っている姿でさえ、獅子が玉座で仮眠を取っている様な風合いがあった。
でも私は、彼の一等美しい姿を知っている。
研究に没頭して、険しくなった表情だったり。真剣にレポートへ向き合っている横顔だったり。挫折を繰り返して尚、歯を食い縛って前を見据える瞳だったり。そしてその美しさを知れば、それ以外を愛らしいと思う様になった。
私にココアを渡す時に目尻が下がる所とか。私の突拍子も無い発言に呆れて笑う時に見える犬歯とか。時々、ビックリするほど優しい顔をしている所、とか。
この感情が何なのか、私は知るべきなんだと思う。そして多分、名前を付けたらすぐに理解出来る、とてもありふれた感情なんだとも、思う。知らずにいればこのまま、心地良い空間を変えずにいられるんじゃないかと、思う。
沢山の感情があって、どれも私が正解だと主張するから、選べずに後回しにしてばかりだ。私は一人なのに、どうして幾つもの異なる想いが湧き出るのか。私はもう、空に零すだけでは満足出来ないのに。ヴェナに聞いて欲しいけど、こんなぐちゃぐちゃな感情を、どう説明すれば良いのか分からない。
「ヴェナは、答えを知ってたりするの?」
こうして、その頬に触れたいという衝動の名前を。知っているから、私の髪を撫でていたの?
いつも顔を隠している前髪はなく、少し血色の悪い肌が窓からの淡い明かりに晒されている。眠る時にはあった香りが消えて、ヴェナ本人に染み付いた煙草と、コーヒーの匂いがする。夜の森を連想する深みは消えて、万年筆片手に書面に向き合っている男の輪郭が見えた。
「ぅ……重ぉ、っ」
ヴェナの頭を抱き込むようにして、ゆっくり私の方へ傾ける。そのまま隣に座り、肩を貸した。肩と言うか、ほぼ頭。膝枕でも良かったけど、ヴェナの体制からだと今度は腰を痛めかねない。
(疲れてたんだろうなぁ)
私も学業に勤しんでいたが、それはヴェナだって同じ。むしろ彼の本当にしたい事は授業とはまた別の所にある。ここを好きに使えるのだって、彼の力が認められているからで、全ては彼が真に目指す物の為。ワーカーホリックの気があるとは前々から思っていたけれど、私が見ている姿なんてほんの一面でしかない。
支えるなんて偉そうな事は言えないが、せめて負担にならない様にしたい。
「ってなると、シンシアの事どうにかしなきゃだよねぇ……」
ヴェナに対するシンシアの態度に関しては、許嫁としてデカい顔をするくらいしか役に立てないけど。ヴェナの心労を減らすという意味でも、まずは私とシンシアの衝突を解決しなければ。説得を聞き入れて貰える可能性は一度捨てて、いっそ身を任せるという手も視野に入れた方が良いのだろうか。しかし私はまがりなりにも法の制定人・アネイア家の娘。私の意見で法が左右されるとは思えないが、次代の法律家への影響は大きい。
「やっぱ最終手段を取るしか……」
「……物騒な発言すんな」
「あ、起きました? おはようございます」
「おはよ……つっても、真っ暗になっちまったけど」
やっぱり体制に無理があったのか、首を揺らし肩を回すヴェナの顔色は、さっきより少し良くなった……かもしれない。暗くて正確には分からないが。乱れた髪を整えていた手が不意に止まって、長い前髪を掻き上げる。
「なぁ」
「はい」
「俺の顔、どう思う?」
「……はい?」
帰るだろうと、ブランケットを畳んで定位置に戻そう立ち上がった手首を、弱い力が引き留める。振り返ると感情の読み取れないヴェナの顔が、座っているせいで私よりも低い位置にあった。月明かりを浴びて淡く輝く美貌。艶のある少し硬い髪。高く通った鼻筋に薄い唇。左目を覆う、火傷の痕。
さっきまで閉じられて見えなかった、金色の瞳。
「……月に似てますよね」
「月?」
「瞳。綺麗だなって思います」
「…………ハッ、はは」
ぽかんとしたと思ったら笑い出して、説明責任を問いたい所だったが、私は困惑しただけで何も言えなかった。だって、泣くと思ったから。泣きそうな顔だって。妙な所に刺さった様で、けらけらと笑っている所を見ると、私の勘違いな気もしてくるが。
「うん、やっぱ……お前好きだわ」
「え……」
一頻り笑って、笑って。呼吸が落ち付いたら、溶けるみたいな、顔。さっきまでの馬鹿笑いとは違う。生クリームとか、蜂蜜とか、そういう甘さを連想させる、笑みで。
「暗いし、送ってく。家の人に連絡とか入れるか?」
「ぁ、いえ、それはだいじょうぶ……」
「了解。俺はこれだけ提出して来るから、ちょっと待ってな」
「は、い……」
机に放ってあったレポートを揺らして、部屋を出て行く背を見送った。まるで何もなかったかの様に、足取りには欠片の動揺も見えなかった。
私の聞き間違いだったのか? あの距離で? だとしたら私は耳鼻科に行った方が良い。
「好き、って……言った?」
自分で言葉にすると、急に現実味が増して来る。じわじわと体温が上がっているのが分かって、手のひらがペタペタしてきた。頬が触らなくても分かるくらいに熱くて、多分、真っ赤になってるんだろうなって。他人事みたいに思わないと、胸から何か飛び出してしまいそうで。
音の無い一人切りの空間で、私の鼓動だけが煩い。
「いや、ちがう、これは……ちがう、から」
誰に言い訳をしているのか、多分自制の念からくる防衛本能だった。ヴェナの気持ちを、好きの一言だけで期待して、外れたらきっと立ち直れないから。そうであったら良いと弾みそうになる心を、ゆっくりと窘める。その全てが無駄な事は、私が一番分かっているくせに。好きの一言で胸が躍り、その好きが、どういう意味であって欲しいのか。期待している時点で、私の気持ちもそこにあるんだと、耳元で声がする。
私も好きだよって応えられないくらい大きくなった感情は、ヴェナと同じ物なのだろうか。




