母との別れとその後...
温泉旅行の夜はいつも通りの3人になっていた。笑い声と楽しい話題で過ぎた。
帰って翌日から郁美は疲れたと言い、横になっている時間が増えた。私は主治医に連絡を取り、入院の手はずを整えた。入院予定日は12月3日になった。
朝、郁美の顔を真奈美と見に行き、いつも通りに話をして診療所に向かう。しかし、真奈美は何か感じるものがあったのか郁美の所に残ると言ったが、郁美に”院長命令”で却下され、私と共に出勤した。
午前の診療時間が半分くらい過ぎた10時過ぎ、顔なじみの池田のお爺さんがいつもの腰痛に痛み止めの座薬と湿布をもらいにやってきていた。子供のころからの常連、郁美の調子をいつものように聞いてくる。
その時、スマホが鳴った。郁美からだった。滅多に無いことである。
出ると少しシンドイので手が空いたら来て欲しいと言って電話は切れた。真奈美に目配せして行ってもらうように頼み、池田の爺さんの処置をしようとしたとき、
「総ちゃん、俺の事はいいから早く院長の所にいけ!」と爺さんに怒鳴られた。
私は昔いたずらをして怒られた事を思い出して、一瞬ぶるっと震えたが、冷静になり山本さんに後を頼み郁美の家に向かった。
母の容態は医者の私でなくてもわかるくらい悪かった。顔色が少し紫のチアノーゼ状態になっていた。
真奈美は酸素吸入をしながら救急車の手配と受け入れ先の病院の手配をしていた。
まだ、意識のある母はたどたどしく話し出した。喋るなと制したが、話し続ける。
「マナちゃんが家に来てくれて愛美が帰ってきた気がした...とても幸せだった...愛美にもっと接していれば...あの子も死なずに...お父さんも...だって、私は総がいたから生きてこれた...そして総はこんなに立派になった...」
そこまで言って目を閉じた。まだ脈は弱いながらあり心臓も弱いながら動いていた。
私と真奈美は涙を流しながら蘇生措置を行った。救急車のサイレンが近づくのが聞こえた。
郁美は病院について間もなく息を引き取った。11時37分、私が臨終の時間を告げた。
葬儀は母が暮らしていた職員住宅から出した。ここで30年、彼女の患者たちが涙を流しながら参列してくれた。
遺骨は夫と愛娘、先祖が眠る納骨堂に収めた。
”平成4年9月 …橋本 愛美 行年14才”
”平成4年10月...橋本 悟 行年45才”
”令和5年11月...橋本 郁美 行年76才”
帳簿に名前が並んだ。
献花と焼香、真奈美と手を合わせ、寺院を後にする。
「お袋の見立ては正しかったな。春じゃ駄目だったんだよ。すべてを私たちに伝える必要があったんだ。間に合ったわけだよ。」真奈美に話す。
「私はこの年までお母さんと暮らせて幸せだったわ。いいお母さんで最高のドクターだったもの」
という。
年が改まり元鉱山の町は積雪で白くなった。真奈美と一軒づつ、別居したことにして借り続けようかと冗談も行ってみたが、町から却下され、一月中に明け渡す事になり片づけを始めた。
古い医学書、ぎっしりと母の文字が書き込まれたノートの数々。そして手帳と兼用の日記帳。
一番新しい日記の最初のページに2枚の写真が挟まっていた。
そして薄いベールに包まれていた姉のディテールがはっきりと私の脳裏によみがえる。中学生くらいと思われる愛美は美しく年齢よりはるかに大人びて見えた。
写真の1枚目は悟、郁美、愛美、総一郎の4人が赤いポルシェのオープンカーの前で並んでいる写真。幼い総一郎だけが横を向いているが後の皆は満面の笑顔。もう1枚は、スタンウェイのチョコレート色のグランドピアノの前でほほ笑む愛美の写真だった。今見ると少し寂しい表情に見えなくもない。
おそらく日記が変わるたび、30年間はさみ続けてきたのだろう、色あせすれていた。
宝飾品は高価なものは私の学費に代わっているので大したものはなかったが、着れそうな服と共に真奈美が受け継いだ。日記は読むのに気が引けたので、写真を残して焼却することにした。
母の家の車庫で長いこと眠っていた、ヤマハの原付バイクは当然動かなかったが、近くの自転車屋の親父が整備してくれて復活した。
2月になり、雪が少し解け、院長になった私は、この診療所でなじみの患者を診察をしながら、窓の外を眺める。真奈美がタイミングよくお茶を運んできて、ベテランの山本さんと水田さんが、たまにからかってくる。
診察が終わってからは、職員住宅で真奈美と他愛のない話をしながら、楽しい時間を過ごす。
決して金銭的には裕福ではないが、決して精神的に貧困ではない幸せな日常。
いつまでも続くことを願って...と私は思う。




