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曖昧な幼いころの記憶とハッキリした現実

 早く寝たためか、明け方に目が覚めた。真奈美は静かな寝息を立てている。暗闇に目を凝らしていると、決まって同じ光景が脳裏をよぎる。


 私には夢とも現実とも取れない幼い日の記憶があった。

 白い豪奢な家と芝生の広い庭、車庫には大きな黒い車と赤いオープンカー。その他国産のセダンやミニバンが入っていたと思う。


 家のリビングには、豪華なシャンデリアと間接照明の柔らかな明かりが灯り、綺麗なチョコレート色のグランドピアノが置かれていた。

 このリビングには来客が頻繁にあり、大きなソファとテーブル、住込みの家政婦さんが来客をもてなしていた。話の内容は当時住んでいた街の事、職業上の話のようだったが、幼い私は早々に自室に連れていかれて寝かされていた。


 この時代に両親と遊んだ記憶は殆どなく、若い家政婦さんが遊び相手だった。


 時々このグランドピアノを弾いている人がいたと思うがハッキリと思い出すことができない。

 通っていた保育園には白い手袋をした運転手さんが、大きな黒い車で送り迎えしてくれていた。

 保育園では、遊ぶおもちゃは自分が好きなようにできて、争奪戦や喧嘩などない、自分が一番の王様のような待遇。他の子供ともめそうになったら、大人が一番に止めに入ってくれる。


 暑い時期のピークが去って、私は保育園をお休みさせられ、同時に段々と、家の中の雰囲気が変わっていった。あのグランドピアノは弾く人がおらず、埃を被っていたが、いつの間にかリビングから消えていた。父は帰ってこなくなり、家政婦さんがいなくなって、母が相手をしてくれる事が増えた。

 ある朝、私を起こした母は少し乱暴に私を着替えさせ、自らが運転する国産のセダンで、すごく遠い道のりを長い時間かけて、山の上の現在母が住んでいる職員住宅に越して来た。出発の時、車庫には黒い大きな車も、赤いオープンカーも無かった。


 これから先ははっきり覚えがある。


 転校した保育園は麓の町にあり、通園はバスで他の子供達と一緒に通った。

 今までの生活が”特別”だった為に最初は園児の輪に加われず浮いていた。おもちゃの争奪戦でも勝てなかった。喧嘩になっても先生たちは自分の味方になってくれるとは限らなかった。帰っていたずらをすると母と働いているおばさん達や近所のおじさんに怒られた。でも、物の良し悪しは教えてもらい、良いことをしたら思いっきり褒めてもらえた。

 そのうち“普通“がわかるようになると段々と要領が良くなって、周囲に溶け込めるようになった。


 小学生になり、近くの分校に通った。生徒の数は少なく、全校でも30人ほど、高学年と低学年で2クラス、先生も3人だったが皆んな仲が良かった…というより我慢しないと生活できなかった。

 学校から帰ると母の仕事場の診療所で、母に見てもらって宿題や勉強をした。

 医学部から医師の国家試験までストレート合格の実力と、家庭教師のアルバイト経験があった母は下手な教員より教えるのが上手かった。成績は必然的に上位になった。


 中学生になった時、昔うちにあった黒い車がメルセデスベンツ500SEで赤いオープンカーがポルシェ911だった事がわかった。友達に言っても冗談で片付けられた。


 決して惨めな生活では無かったが贅沢でも無かった。ただ母を独占する時間が沢山あって幸せな日々だったと思う。成績は県内でも上位で医学部を狙える順位だった。このくらいになると勉強も面白くなってくる。


 高校生になって少し遠くの進学校に入った。寮に入る程では無かったが公共交通機関も便利が悪かったので50ccのバイクで通った。バイクに乗る子は少なく、乗ってもスクーターを選ぶ子が多かったが、何となくミッション車が欲しかった。しかし新車のスポーツモデルは値段が高く、当時のスーパーカブは地味な色と形で、爺婆の乗り物のイメージだった。そこで、安かった新古車のヤマハYB-1を買った。このバイクは大学時代も使い、エンジンが焼き付いたので、自動二輪免許をとってボアアップして、黄色いナンバーにして、今も母の職員住宅の車庫に置いてある。


 大学から研修医までの間はここを離れて下宿生活を送った。母は自分の宝飾品の大多数と父の何本かの腕時計を売って入学金を作ってくれた。その時私が今使っているメンズのロレックスを1本と、自分用のレディースのロレックスとオメガを一本ずつ残して。


 大学は隣の県の国立大学。決してランクの高い大学ではなかったが、医学を学び医師の素質を身に着けるのには充分な設備と講師陣が揃っていた。生活費は母からの仕送りがあったが足りない分は家庭教師と予備校の講師のアルバイトで稼いだ。何人かの女性と付き合ったが、失恋の経験をする事もさせる事もあった。

 卒業後は、大学の付属病院で研修医として救急外来を何年か経験した後、国家試験に合格し、地方の総合病院に、内科の勤務医として勤めた。

 病棟の看護師として勤めていた真奈美が、外来の看護師に配置転換になり、私の診察室に配属されて来た。彼女は幼い頃、事故で両親を亡くしており、親戚の家を転々として他人の中を生きて来た。

 同年代の女性が多い看護師が集まっても、一歩下がっていつも微笑んでいるイメージが強かった。


 母以外の家族との繋がりが希薄な私は彼女に自分と似た雰囲気を感じた。


 一緒に仕事をするようになると、彼女の洞察力と判断力が飛び抜けている事に気付き、その仕事ぶりは信頼できた。

 空き時間に話をするうち、彼女が本当は話好きで、気を許した人とは楽しい会話ができて、心地よい空間を作り、相手を飽きさせない話術にに私は惹かれた。

 付き合い始めると、実は甘えん坊な所があって、そこがまた可愛かった。


 紹介する相手は母のみだった。もともとは良家の令嬢だった母・郁美が、決して家庭条件の良くない、真奈美との交際を許してくれるか不安だった。

 真奈美が名前を名乗った時、母は一瞬動揺した。しかし、私と彼女の会話のやり取り、真奈美が気が利き、出しゃばらず、時折見せる可愛さから、アッサリと結婚を許してくれた。


 勤務医を結婚後3年続けた時、母が倒れた。最初は過労からと思っていたが精密検査の結果リンパの癌が見つかった。長期の療養と定期的に設備の整った病院での検査が必要だった。


 同期の大学病院の外科医に頼んで応急的に手は打ったものの、いつ再発してもおかしくない病状の為、診療所の勤務は難しくなった。田舎にすぐに来てくれる医師は見つからず、私が真奈美と総合病院を退職して、ここに赴任して来た。

 通って来る患者は子供の頃からの馴染みの顔ぶれで、医師としての勤務はやりやすくもあり、中々言う事を聞かない年寄りに困る事もあった。

 あれからもう2年目の秋が来る。

 

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