第6話 代理戦闘
瞳に剣呑な色を浮かべている白い獣……否、瞳だけでなく、殺意の衣を全身に纏った白獣の悪意の含んだ眼光が妖しく光る。
イラハのいる世界……イラハの住む国では名前は知らなくても、子供から老人まで見たことがない人はいないのではないかというほど、皆が一度はお世話になったことがある視力検査の定番ランドルト環。
その視力検査の主役を模した紋様を額に刻んだ、それは――
「アル」
「…………」
イラハの口から発せられたアルという名は、イラハが名前の無かったアルに便宜上付けた名だ。
名前を付けたと言えば、新しいペットを家にお迎えした時に名前を付けてあげたみたいで、微笑ましいものを思い浮かべるかもしれない。
――が、イラハとアルの出会いは決してそんな良いものではなかった。
むしろ最悪――
顔を合わしてすぐ殺し合いを始めたほどだ。
ペット扱いしようものなら、怒りの激情を躊躇いもなくイラハに向けてきただろう。
――安易にその想像に至ったイラハの黒瞳には、今、思い浮かべたアルの姿が映っている。
「アル、いきなりどうしたって言うんだ?」
アルとは殺し合いをした仲だが、別れ際にはそれなりに良好な関係に……とはいかなかったかもしれないが、突然襲われるようなマイナス的なものではなくなったはずだとイラハは記憶している。
なのに突然現れて、理不尽に殺意を向けられている。
不本意ながらイラハの気持ちとは裏腹な結果だ。
それともイラハの一方通行な思い込みだったのだろうか?
だったなら、なかなかにショックかもしれないが――
「そういうことなのか!?」
考えれば考えるほど不安が募っていく。
そんなイラハの前を遮るように白くて細い腕が伸びた。
シーンだ。
姫もアルの様子がおかしいことを察したようで、白い頬を強張らせているのがイラハにも一目でわかった。
「イラハ待って下さい。アルが用があるのはきっと私でしょうから」
「けど、俺も殺すって言ってたぜ?」
殺意の出所は謎だが、イラハが無関係というのはアルの態度からして考えにくいだろう。
ここに至ってもイラハに心当たりがないのがもどかしいが。
「あなたも意外としつこいですね……首都にまで追ってくるなんて」
「――え」
今のシーンの言葉にイラハは自分の耳を疑った。
なぜなら、シーンは察したんじゃない……知っていたことになる。
事前にアルが敵意を持って現れることを。
「……人間なんかとグダグダ話を続けるつもりはねぇ。さっさと儂様に喰われちまいな。そうすりゃ、少しは感謝してやる」
「私に任せて下がっていて下さい、イラハ」
そう言うとシーンは、自分の腰に吊り下げている小さな鞄の中から、瞬く間に数枚の呪符を取り出した。
結界魔術師のシーンが殺気溢れる相手を前に呪符を用意――
それは戦闘態勢を意味する。
「そういや、姫様がちゃんと戦うのは初めて見るな」
鬼化したシーンが戦う姿は見たことがある。
というか、イラハ自身が実際に戦った。
自分を失い、ただただ目の前の敵を殺すことのみに活動する殺戮マシーン――
模擬戦で訓練を受けていた時は、イラハに限らず大の男たちが――それも国に仕える鍛え上げられているはずの騎士たちが、あろうことか魔術師であるシーンに肉弾戦で捩じ伏せられていく姿を見た。
どちらもシーンの本当の戦闘スタイルとは程遠い……はずだ。
なぜならヴェルカリナの七姫と称されるに至った彼女の実力の所以は結界魔術師としてなのだから。
言い換えると、本来の力を見せなければならないほどの相手が、今、シーンの目の前にいるという現状――
「……なんか、こっちまで緊張してきた。姫様が負けるところは想像つかないけど、アルのやつも、かなり強いしな。人間じゃない分、予想外の動きもするだろうし……俺がやった時がそうだったっけ」
忘れもしないアルとの最悪の出会い……その時の戦いでは途中で止めたわけだがイラハはアルと引き分けている。
一方、模擬戦ではイラハはシーンに手も足も出なかった。
赤子を相手にするように。
役不足に。
鎧袖一触に。
とにかくボロ負けの日々を一週間。
「単純に考えれば、圧勝なんだろうけど」
言わずもがな、シーンが――だ。
しかし、そう単純に推し量れるものではないかもしれない。
「戦いには相性がある。タイミングや時の運だって。そう考えたらまだわからない」
ピリつく気配の中、いつ戦いが始まってもおかしくない。
だというのにイラハは場違いにも、これから起こりうる戦いを予感し興奮を覚えていた。
「まぁ、なんだかんだ言って、勝つのはシーンだろうけどな」
そこは信じて疑わない。
それでも緊張感漂う空気にイラハは無意識に自分の乾いた上唇を舌でなぞった。
「……いくぜぇ!!」
怒声のような大声を響かせて、戦闘開始の合図を先に放ったのはアルだ。
声に合わすように、シーンが重心を低くして身構える。
シーンからイラハとの模擬戦の時のような余裕の表情は鳴りを潜めている。
そのことがこの戦いへの真剣さをイラハに知らせることとなった。
ヴェルカリナの七姫――シーン・ファム・エルブライド。
昔は【白亜の嵐鳴】やら【白風の魔獣】などと呼ばれていた白獣アル。
両者の戦いがついに始まる――
「…………え?」
――――始まらなかった。
正確には違う。
始まらなかったわけではなく……
想像していたことと違うことが起きたのだ。
「嘘だろ、おい!?」
「やっぱり儂様の邪魔をするかよ! イラハァァァっっっ!!」
「したくてしたんじゃねぇっ!!」
アルの怒鳴りに、間髪入れず言い返すイラハの目の前にはアルがいて――
まるで最初からそうしていたかのように、シーンを守るが如くイラハの背後にはシーンがいて――
美女と野獣に挟まれる形となったイラハの視界の外から、無理矢理に存在を示さんとするように蛍光色に似た緑光がイラハの視界を掠める。
視線を下に移すと、そこには右腕、前腕部に浮かぶ紋様から目映い発光が認められ――
――制約が発動していた。
誓約を必ず守らせるために制約を結ぶ古代魔法――制約。
もし誓いを破れば、身を切り裂くような激しい痛みが誓約者を襲う。
今では失われた魔法である。
イラハの誓約内容は姫であるシーンを守ること。
そのことからもわかるがイラハに制約を刻んだのはシーンだ。
だが当の本人には覚えがないし、イラハもそうとは知らずに宣誓したものだから、イラハ自身も未だによく解っていないという。
誓約した者も制約をかけた者もどちらも制約のことをよく解っていないのだから、振り回されるなというのが無理という話で……
「さすがです、イラハ! 私を守ろうと進んで前へ出るなんて!」
「わかってて言ってるよな!? 言っとくけど、これ、姫のせいだからな!?」
ついさっきまでのシリアスをシーンの場違い発言がぶっ壊す。
だが、緊張を壊されたのはイラハとシーンだけだったようだ。
アルだけは戦闘モードを継続したまま先手必勝と前傾姿勢で動き出す。
「言ったはずだぜ、さっさと喰われろってなぁ!! こっちはおめぇたちと遊んでる暇なんかねぇんだよっ!!」
「くそっ! どうにでもなりやが――ぐぶっ……!?」
目の前からアルの姿が消えた――
と思った瞬間には再びイラハの瞳にアルが映る……が、それが致命的な間となったことにイラハが気付いた時には、足元から伸びてきたアルの右腕によって、顎を掴まれ塞がれてしまった後だった。
思考が状況に追い付くやそれを整理する暇もなく、新たな混乱の波がイラハに押し寄せる。
足が地面から離れてしまう浮遊感。
それはアルの怪力によってもたらされたものだった。
アルの鋭く刃物のような爪が、イラハの皮膚に食い込み血が滴り落ちる。
痛みに顔を歪めるイラハだが、今、イラハの思考は驚きで埋め尽くされていた。
片腕で自分を持ち上げた怪力にも驚いたが、アルが今見せた速さ――それは新しい驚きで古い驚きを上塗りできないほどの衝撃があったのだ。
度肝を抜かれた形だが、イラハの予想外はこれだけでは終わらない。
「くたばりやがれぇっ!!」
「――!!」
現在進行形でイラハの皮膚に意図も容易く刺さっている爪と同様のものが、明らかな殺意を乗せて、イラハの首目掛けて突き出してきたのだ。
イラハに迫る左爪。
だがイラハには、生命の危機に際して身を守ることができる、とっておきの技がある。
――【幻視の衣】
魔法で身に纏った幻影が、術者がピンチの際に受動的に身代わりになってくれる。使用中はマナが駄々漏れで何かと燃費が悪いが、使い所を限定すれば、その弱点を補って余りある成果を期待できる優秀なスキルだ。
不意に掴まれた時に反射的に使ってしまうほど、イラハにとって依存性が高く信頼している困った時の神頼みスキル。
そういうわけで例によって今回も発動させたわけだ。
イラハに代わり幻影の喉元にアルの左爪が深々と突き刺さる。
勝負がついたと確信すれば、誰でも緊張も解けるし安心もする。それが一瞬か長時間かの差違は状況や人によって違うかもしれないが、共通して隙はできるものだ。
この【幻視の衣】の真髄はむしろそこにあるとイラハは考えている。
これでアルにも隙が生まれる――――そうイラハはいつものように思っていた。
イラハだったものが形を崩し始める。
「それは前に見たなぁ……。儂様に同じ技が通用すると思ってんのか?」
「――!!」
崩れていく幻影イラハの顎から手を離したアルが、さっきまで誰もいなかったはずの場所へその手を大きく振るう。
しかし、そこにイラハはいた。
「がっ……!!」
アルが放った突風の如く乱れた風の刃がイラハの胸を切り裂いた。
「イラハっ!!」
叫ぶシーンに、イラハは咄嗟に応えることができない。
痛みで思わず片膝をついてしまったイラハは、そこで赤い滴がポタポタと落ち、床を赤色に染め上げていく様を見た。
赤い滴の出元に視線を動かすと、すぐに自分から流れていることがわかる。
まるで爪跡のような傷が服に残っており、その切り裂かれた隙間から血が流れ落ちている。床と同じように胸部を赤く染め上げていく。
「痛ぇと思ったら……これ、ヤバいやつだ……」
「わかったなら、さっさと死にやがれっ! てめぇが死ねば、この馬鹿げた儀式も終ぇだろうよっ!!」
凶悪な顔をイラハに向けて走り出すアル。その表情には傷付き動けないイラハよりもどこか余裕がないように見え――
「余裕云々で言えば、俺も人のこと言える状況じゃないな……」
「――あなたも人のことは言えないでしょう?」
透き通るような澄んだ声――
一瞬、自分のことを問い詰められているのかと内心ヒヤリとしたイラハだが、そうではない。
まだ付き合いが短くたって、そんなこと彼女の顔を見ればわかること。
奥底から噴き上がる怒りを隠しきれていなくて――
それが誰の為に生まれたものかを知れば簡単なことで――
「私も言ったはずですよ? イラハにもしものことがあれば、貴方を殺すと」
威風堂々とアルへの怒りを抑えられずに宣戦布告をしたのは――
姫であり、
公女でもある――
シーン・ファム・エルブライト――――その人であった。




