第1話 追う姫と追われる獣
車軸を流すような豪雨が、獣の白い披毛を通して地肌を流れる。
白獣の釣り上がった目の先には、崖の上に飾り気なく突き刺さっただけの石碑が一つ。
石碑には文字が刻まれているが、白獣にはこの文字が読めなかった。
なのに、この場を離れずにいる。
石碑を眺めたまま、ただただ時間が過ぎていく。
激しい雨音が静寂を許さない中、音と言うにはあまりにも極小の後ろから忍び寄る足音に、白獣の狐のような細長い耳がピクリと動いた。
「――何か用かよ?」
振り返ることなく、白獣は後ろから近付いてくる何者かに眉を顰めた。
人里離れた崖の上――、そのうえ豪雨が降り続く中でぬかるんだ土を歩いてまで、ここに来る用事など白獣以外にはないはず。
その考えが白獣に警鐘を鳴らさせたのだ。
「エルブライト公国の姫としては、あなたに用が無い方が不思議ではないかしら? アル」
上下を白で統一した衣装に身を包む、肩まで伸びた金髪の少女が、アルと呼んだ白獣にゆっくりと歩み寄る。
服も髪も雨で濡れて肌にべったりと張り付いているところを見れば、一目で濡れていない部分が無いことがわかる。この悪天候の中、雨を凌ぎもしなかったのだろうことも。
少女の言う通り、用も無しにこんな誰も住んでいない辺鄙な所にわざわざ来る者などいない。
ならば、なぜ公女であり、姫であるシーン・ファム・エルブライトがここまで来たのか?
決まりきったことだ。
アルは先日まで、エルブライト公国の首都ラングルズの城の地下牢に200年もの間、厳重に幽閉されていたのだ。
それが脱獄したとなれば、追手が差し向けられるのも当然。
普通ではないことがあるとすれば、『姫』と呼ばれる各公国で最強と認められたシーンが一人でやって来たことだろうか?
いや、違う――。
アルの脱獄はシーン姫も周知しているし、そもそも目の前の少女によって見逃してもらったものとアルは所存している。
伏せられた顔から表情は読み取れないが、殺気にも似た重い空気が辺りに張り詰めているのが窺い知れた。
「けっ。おめぇまでその名で呼ぶかよ。儂様をまた捕まえに来たってことかよ?」
「イラハが貴方をそう呼ぶうちは私もそうしますよ、アル。別に昔の呼び名に固着する貴方ではないでしょ?」
アルの背中越しに話し掛ける少女は、まるでお互いの心の距離を表すように、一定の距離を空けて立ち止まった。
「人間の決めた名なんぞに興味はねぇ……好きにしな。だが、まぁ『白亜の嵐鳴』や『白風の魔獣』なんて堅ったらしく呼ばれるよりは、今の方がマシかもな。……で、やるのかよ?」
愉快そうに口の端を耳の近くまで上げてアルが邪悪に笑むが、その背後から声を掛けているシーンには、アルの表情が見えてはいない。
だから言うわけではないだろうが――
「……その石碑の前にいる貴方を見た後にそんな気になんてなれませんよ……」
「……ふん、くだらねぇ」
体よくアルの誘いを躱したシーンに、肩透かしを食らったアルが鼻を鳴らす。
「それに私が傷ついたら、この場にイラハがいないとはいえ、イラハに掛けられた制約が発動しかねないし。将来のお婿様に怪我はさせられないもの」
「てめぇにしてはあんな小僧に随分と御執心じゃねぇか」
「意外でした? 私だって女の子なんですよ。恋だってしたいです。やっと見つけた私の未来の旦那様なのです、イラハは。誰からも認められるように、びっしり鍛えてみせます。……だから――」
一度、言葉を切り、姫の顔が上がる。
「――彼にもしものことがあれば、貴方を殺しますよ……。私たちの結婚の邪魔をしないでもらえると助かります」
アルの性格を踏まえれば、宣戦布告とも取れる殺意の篭ったシーンの言葉は、まるで呪いの言霊だ。そして呪言以上にシーンの表情には、瞋恚に相手を射殺さんとする殺気を瞳はもちろん、身体全体に宿していた。
だが、凍てつくような視線を姫に向けられてもアルは縮こまるでもなし、怖じ気つくでもなく――
「……けっ、良い顔するじゃねぇかよ」
場に似つかわしくない、口を歪めて笑みを見せるのだった。




