第4話 妖精の国
「何よ、これ!? こんなのさっきはなかったはずよ?」
知らない間に、部屋の中に生まれていた不気味な黒い渦にマシロは驚愕した。
初めて見る身に迫る異常――
それと無関係とは思えない、こちらもまた存在が異常と言える喋るぬいぐるみが中性的な声でマシロに話し出した。
「王国へ行き来できる扉……。ボクたちの王国に来なよ。そこに入るだけで行けるよ」
「イヤよ! 断じてイ~ヤ!」
「どうして?」
マシロの拒絶は、ぬいぐるみにとって心底、不思議なものだったのだろう。
大きめの頭を右に倒して、不思議アピールしてる姿はなかなかに可愛いと不覚にもマシロは思った。
いや、違った。
口から覗いている鮫みたいな牙はかなりの減点だ。
「……見るからに怖いじゃない、これ……」
「怖くないよ」
「……その根拠は?」
「…………」
……何もないらしい。
「もうっ……、どうして私をあなたの……あなたたちの王国に連れて行きたいの?」
「行かないの?」
「私を連れて行きたい理由を聞いてるの!」
動きが一切止まる。
ぬいぐるみなので、目の焦点もどこを向いているかわからない。
沈黙が続く。
「急に黙って何よ……?」
こういう時の沈黙がマシロはあまり好きではなかった。
良いことであれば、すぐ答えられるだろう。
言葉がなかなか出てこないということは、言うか否か思案するような何かがあるのかもしれない。
そう単純な話ではないかもしれないが、ついつい肩に力が入ってしまってしまうマシロもまた、待ち時間に次に出るぬいぐるみの言葉をあれこれ想像してしまっていた。
「――キミを助けたいんだよ」
「…………え? 私を助けたい……?」
まさか、ぬいぐるみが自分を助けたいなんて言うとは、マシロにとっては完全に思考の外のことだった。
これまでの会話から、ろくでもないことを言われると思っていたら、まともなことをぬいぐるみが言い出したので、マシロは驚きを隠しもせず表情に出した。
なんとも失礼な話かもしれないが、今までが今までなのだ。
だから、どうしても疑問が生まれる。
「どうして私を助けてくれるの?」
――当然だ。
会ってばかりの老婆を少し言葉を交わしただけで信用し、
食事を御馳走してもらえると、家に付いていけば部屋に閉じ込められ、
挙げ句の果てに、明くる日には人買いに売られるという――
これではまるで警戒心のない子供だ。
今、マシロの懐疑心は頂点に達している――。
「理由、ないよ」
「ないのに、わざわざ助けに来てくれたの?」
「理由、ないとダメ?」
「――――」
猫のぬいぐるみの言葉……決して深く考えて発したわけではなかっただろうことはマシロにもわかった。
けれど、そんなことはどうでも良いと思えるぐらいに、ぬいぐるみの言葉はマシロの凝り固まった暗くなってしまっていた心に衝撃を与えた。
人が人を助けるのにどうして理由なぞ必要か――
それを人ではない、猫に似てるが猫でもない、生物でもないぬいぐるみが口にしたわけだ。
銀色に輝く青い披毛に覆われたぬいぐるみの言ったことは、マシロの理想とするもので――
黒い靄の掛かっていたマシロの心に、一つ二つと光条が差していく。
「そうね。理由なんて別にいいわ。それに今より悪くなることもないしね」
「行く?」
「行くわ」
今度こそ、ぬいぐるみの誘いをマシロは受けた。
気が変わったマシロの瞳をぬいぐるみがしばし見詰めた後、ぬいぐるみの口角がこれまで見た中で一番――耳朶の近くにまで釣り上がった。
ギザギザの鮫牙が遠慮なしに口内から覗かせている。
「言っとくけど、それマイナスだからね」
「?」
当の猫擬きは、マシロの言っている意味に無理解を示す。
ぬいぐるみにとっての笑顔は、他から見れば不気味というか……怖いのだ。
「……まぁ、いいわ。それでどうやって行くの? まさか……というより、やっぱり、その黒い渦の中に飛び込めって言うんじゃ……」
「そうだよ」
ぬいぐるみの得意の言葉がマシロの鼓膜を優しく震わす。
先程のぬいぐるみとは違った意味で、今度はマシロの口角が引き釣りながらも上がった。
「ついてきて」
渦の中に何の躊躇もなく進むぬいぐるみ。
黒く漂う部分に触れたところから、ぬいぐるみの姿が消えていく。すぐに全身が渦の奥へと消えた。
「よ、よし。私も……」
そーっと右腕を上げて、マシロは今も揺らめいている黒渦を人差し指で突いて安全を確かめる。
マシロは物怖じする気持ちを奮い立たせて、猫のぬいぐるみに倣って渦に飛び込んだ。
感触は水のようで水でない。冷たくも温かくもなく、空気にとろみがついたような粘りをマシロは感じていた。
だが、それも一瞬のこと――
足を一歩進めると、肌に張り付いていた空気から粘稠性が失われたことに気付いた。
眼鏡を通して視界に広がっているのは森の入り口――
いや、違う。
「ここは……村の――奇跡の木があったところ? え? ワープしたの?」
奇跡の木……マシロからすれば、奇跡の光景広がるキャベツやトマトの成る木が集まっていたエイヴァ村の森林地帯。
キャベツのような重いものが、自重で一つも枝から落ちていないのが何度見てもマシロには不思議だった。
現実離れし過ぎていて胸が躍る。
そんな不思議な木が集まっている一帯に、老婆の家から一瞬で辿り着いた。
これもまた現実離れしていることに、マシロの開いた口が塞がらない。
「ついてきて」
一足先に着いていた猫のぬいぐるみがマシロを促し、奇跡の木の群集の中に歩みを始める。
「ま、待って――」
我に返り慌てたマシロが、赤い髪を上下に揺らして、ぬいぐるみの後に続いた。
奇跡の木を横目に通り過ぎて行くマシロとぬいぐるみ。
キャベツやトマトの成る木はいつまでも色鮮やかに続いている。
割合としてはキャベツの方が大きさで目立つせいか、圧倒的に多く思える。
「ねえ、お婆さん追って来ないかしら? この場所を知ってるわけだし、お婆さんの家と続いているんでしょ?」
「この森は普段は閉じられているから大丈夫だよ。たまに入り口に紛れ込んでしまう人もいるけど、その時は森が追い出してくれる。森は生きているからね。認められた人しか通してくれないんだよ」
「あっ――、森に入ったら行方不明になることがあるって、お婆さんが言ってたのはそういうことね。じゃあ、あの黒い渦は? お婆さんの家に残ったままにはならない?」
「ならない。ボクが消したからね」
「そう……。なら、大丈夫そうね……。って、え……空が……」
ファンタジーな光景と現状に目と思考を奪われていて、今更ながら空の異変にマシロは気付いた。
青空だったはずが、青でもなければ曇り空でもなく、夕焼けが見えるでもない――
空が虹色に覆われていた。
「凄い……」
草原で目を覚ましてから、驚いてばかりだったマシロだが、この空には一段と圧倒されてしまう。
虹色の空は、それぞれの色が止まることをせず、時間と共にゆっくりと流れていく。
それだけではない。
膝の辺りまで霧が出てきており、先の方は霧で遠くが見えにくく、幻想的な光景に拍車を掛けている。
現実離れした光景を紅の瞳が捉えて離さない。
とても綺麗だと率直に思った。
「妖精の国……」
ふと、老婆と話していた時のことを回想する。
『キャベツやトマトが変わった実り方をしてるのは、この不思議な樹々の先には妖精の国があって、その影響を受けたのが証拠だと、村では昔から云われ続けてきたのよ』
『妖精の国ですか? へぇ~、なんだか素敵』
『ふふ。ただの昔話だけどねぇ。実際にそんなものありやしないし、見た者もいやしないさ。けど、まぁ、たまに森に入った人が行方不明になることがあるもんだから、この手の噂話が尽きないのよ。妖精の国に迷い込んだんじゃないかって』
「本当にあったのね」
夢のような出来事が様々と起きて、マシロを夢中にさせる。
その為、マシロは背後の存在に気付かずに――
「ねえ」
「きゃっ――」
瞳に映る何もかもが初めてのものばかりで、心奪われていたマシロの後ろから声を掛けたのは、道案内で先頭を歩いていたはずのぬいぐるみだった。
前にいたはずの者が、不意に背後から現れれば驚くのも無理はなく、マシロもその例に漏れなかった。
「いつの間に後ろにいたのよ!」
「着いたよ」
「あなた相変わらず、人の言うこと聞いてないわね……まぁ、いいわ。で、何……!?」
霧で覆い隠せないほどの巨大な建造物。
色は白亜に包まれた、まさにお伽噺に出てきそうな霧を纏う洋風の城。
そこへと通じる出入口――、つまりは城門がマシロの目の前に立ちはだかっていた。
「女王様が呼んでる。ついてきて」




