第2話 お伽噺
「一時間前の私は何を思って、あんな訳のわからない人の言うことを信じたのかしら……。あ~……人じゃなかったわね……」
部屋に唯一ある扉に、眼鏡の奥から目の焦点を合わして、遠い目をしながらマシロは呟いた。
「うん、猫だったわ……。それもぬいぐるみ…………ぬいぐるみかぁ……」
自分の浅はかさに自分自身が嫌になりかけたマシロだが、そもそもぬいぐるみと会話をしていたなんてことが、既に自分は正気じゃないかもしれないと疑っていいほどに重症だと知る。
きっと疲れているのだ。
だから、年甲斐もなく童話の中にいるような夢を見てしまった。
でないと、こんなリアリティーからかけ離れたことが起きるなんて常識的にありえない。
そう、常識的に――
「……これは夢よ。夢に決まってる」
おまじないのように同じ言葉を繰り返す。
もちろん、実際は違う。
現実逃避の真似事をしているだけ。
自分のこめかみを指で摘まみ、揉み解しているのもそう。
現状、窓もない一室に閉じ込められることになった、謂わば詰み状態となってしまった原因――
一時間前の出来事にマシロは思いを馳せる。
ぬいぐるみが教えてくれた方角へ一時間も歩くと村が見えてきた。
疲れも吹き飛ぶぐらい喜んだマシロはすぐに村へ駆け――、そこで村に住む親切そうな老婆に声を掛けられた。
村の名前はエイヴァ。
林業が主産業だが、畑や農園も広がっており、自給自足が成り立っているらしい。小さな村ながら生活には別段困っている家はないそうだ。
他所の生活事情が把握される辺り、古き善き時代のコミュニティがしっかり出来上がっているのだろうと推察する。
しかし、そんな説明よりももっと説明して欲しいものが、驚きに目を丸くしたマシロの瞳にくっきりと映っていた。
親切に説明してくれる老婆には申し訳ないが、いてもたってもいられない衝動がマシロを突き動かそうとする。
逸る気持ちを抑えるのに必死だった。
さすがに自分に親切にしてくれている人を放っておいてまで離れてしまうほどマシロは失礼ではないつもりなので、辛うじて堪えることができたが。
そこまでマシロの心を揺さぶるそれはマシロの常識を遥かに超えていた。
本当に本気で目を疑うレベルで。
こんなの見たことも聞いたこともない。
いや、お伽噺でならあるかもしれないなと思った。
だが、実物では絶対にないはずだ。
それはマシロが知る知らないの問題ではなく、世間一般の常識的な共通認識から外れたものだと言い切れるほどに。
だというのに――
「あんた余所者らしいけど、随分と珍しい服装をしてんな?」
不意に横から低い声がした。
見ずともわかる。男性の声。
「そうですか? 私と同じぐらいの歳の女子高生はだいたいこんな感じだと思いますよ?」
ゆっくりと話す物腰落ち着いた感じの老婆とは違って、見るからにやんちゃそうな青年だった。
同年代から、はたまた学校の先輩から後輩の男子まで割りと声を掛けられることが多いマシロは、表情はそのままで、けれど内心はうんざりとしながらも、いつものように事務的に応えた。
要するによくナンパされるのだ。
この手の連中は人と話している時に、さも知り合いみたいに無遠慮に会話に入り込む。そういう男の無神経さが大嫌いだった。
この男もマシロに声を掛けてきた男たちと同じ目をしている。
「ジョシ、コウセイ……って、何だ?」
「え? ジョシ、コウセイ?」
目の前の青年がまさか女子高生を知らないとは思わなかったマシロが、青年の可笑しな発音に目を大きくして逆に聞き返してしまう。
この発音だと「女子、公正」
もしくは「女子、更正」
と、言われたみたいで「自分が何か過ちをしてて、それを正さないといけない人間みたいだ」などとマシロは考え、頬を引き攣らせた。
端から見れば、なんとも間抜けに見えるやり取りだろうが、目の前の青年も、側にいる老婆もどうやら本気でマシロの言った言葉がわからないらしい。
「女子高生よ。こちらではそう言わないかしら? 学校に通う十五~十八歳の女子のことですよ」
「学校……学校って、お嬢様なのか!? いや、どうりで見たことのない服を着てると思ったけど」
言うや、男の視線がマシロの足の爪先から順に上がっていく。
その様子はまるで品定めされているようで、とても不快。
しかも、よりによって目の動きが胸のところでピタッと止まろうものだから、とてもわかりやすい下心丸出しの視線。
同年代の女子と比べても、マシロの胸は大きい方だと思う。
女性の象徴として、女性らしいスタイルでいられることを誇りに思っているマシロだが、好きでもない男に自慢の胸を見られるのは不愉快でしかない。
マシロだって、年頃の女の子。
思わず胸を隠して、拒絶の意を示したいところだったが、それは寸前で踏み止まった。
郷に入りては郷に従えではないが、わからないことが多過ぎる。少しでも現状を知るためにも今は情報が欲しかった。
「別にお嬢様じゃなくても、学校へは行けるわ。……違うの?」
さっきとは違う理由で再び頬を引き攣らせながらも、マシロは会話を継続することにした。
「……驚いた。箱入りじゃねぇか。こりゃあ、本物のお嬢様だ。いいか? 俺たちみたいな金のない貧乏な村の者だと、学校なんて一生働いたって無理だね。それよりもソムカ婆、やったじゃねぇか。こいつ、きっと筋金入りの箱入り娘だぜ」
「え……? お金がない? でも今さっき、生活に困っているような家はないって、お婆さんから聞いたばかりなんだけど……」
「ああ、それはだな――」
これまでマシロと乱入者のやり取りを静観していた老婆だったが、足を重たそうに動かして、マシロを庇うように前に立った。
「まったく……失礼ですよ。ほら、お嬢さんが困っているじゃないの。用がないなら、さっさとお行き」
「いや、用ならこれから……」
「さっさとお行き」
「――っ」
老婆の口調や声のトーンは、マシロと話していた時と何ら変わらない。先程、マシロが受けた優しい印象のままだ。
けれど……何かが先程と違う。
マシロからは老婆の背中が見える位置なので、その表情までは窺い知ることができなかった。
それなのに声を聞いただけでも、老婆が酷く怒っている気がした。
ただの直感だったが、押しも押されぬ迫力のようなものを声から感じたからだ。
この手の勘は侮らない方が身のためなことを、マシロはこれまでの短い人生の中で学習済みである。
「……ちっ、わかったよ」
舌打ちを残し、名残惜しそうに乱入者の青年が去っていく。
途中で何度か振り返るところに未練を感じるが、その度に老婆と目が合っているのか、そそくさと逃げるようにマシロの視界から消えていった。
「大丈夫だったかい?」
「あ、その……はい」
老婆が心配しているのは、マシロが男に何かされたからではない。不愉快な思いをしたであろうから、マシロを気遣ってのもの。
実際、不快だったが、老婆が気にするようなことではないし、マシロはこういうのには慣れているので、老婆が心配するほど気にしてはいなかった。
だから、マシロは何てことないと笑顔を見せ、優しい老婆を安心させてあげようとする。
「まったく、ゲルバは若い子を見るといつも、ああなのよ。困ったものだわ」
ゲルバ……それがさっきの乱入者であり、ナンパ青年の名前なのだとマシロは知る。
ただし、覚える価値はなし。
あんな男に自分の記憶容量を1バイトも使ってやるものかと、
「消去、消去」
と、お茶目に記憶の一部削除を試みた。
――まだまだ若い十代の脳が衰えているわけもなく、当然できなかったが。
それよりも――
待ちに待たされた、老婆と話している最中、ずっと気になっていたものに向かって、マシロが目を輝かせて、ついに駆けた。
我慢していた分、はしたないほどに勢いがある。
そのことを老婆に咎められるかもしれないとか、普段のマシロなら考えが及ぶところだが、今のマシロにはそれがない。
故に土剥き出しの地を蹴る足も止まらなかった。
足を止めるとすれば、目標の目の前まで辿り着いた時だ。
そして、その時はすぐに来た。
「…………何て言うか……とにかく凄い……メルヘンだわ」
自分の語彙力の無さを嘆くのも忘れて、マシロは目の前の奇跡の光景に目が奪われてしまった。
キャベツ畑ならぬ、キャベツが生る木がいくつも広がっていたのだ。
それだけではない。
キャベツ同様にトマトが背の高い木の枝にぶら下がっている。
「わかるとは言わないけど、トマトはまだ良いわ……。木の成長具合によってはこういうことがあるらしいしね。……けど、どうしてあんな細い枝にキャベツがぶら下がってて、枝が折れてないのよ。おかしいじゃない。……いえ、それ以前な問題よね……」
そう――。
それ以前の問題だ。
「私が小学生の頃に学校で学んだ知識だと、トマトは低木に、キャベツなんて木に実らない……はず……だったのだけど……。どちらも畑でできるものよね? あれ? 私、間違ってる?」
常識外なキャベツが、マシロの常識を侵食する。
衝撃があり過ぎて、整った唇から漏れる反応は驚きのものだ。
「この一帯だけなのよ。野菜が変わった育ち方をしてるのは」
マシロから漏れた声を拾い上げたのは、先ほど親切に村のことを教えてくれていた老婆だ。
駆けたマシロの後を追ってくれていたらしく、マシロの横に立った。
「キャベツやトマトが変わった実り方をしてるのは、この不思議な樹々の先には妖精の国があって、その影響を受けたのが証拠だと、村では昔から云われ続けてきたのよ」
「妖精の国ですか? へぇ~、なんだか素敵」
「ふふ。ただの昔話だけどねぇ。実際にそんなものありやしないし、見た者もいやしないさ。けど、まぁ、たまに森に入った人が行方不明になることがあるもんだから、この手の噂話が尽きないのよ。妖精の国に迷い込んだんじゃないかって」
ファンタジーの定番と言える妖精のいる国の話に、目を輝かせてマシロは老婆の話を聞いていた。
幼い頃は絵本を読んでいて、自分も不思議な国へ行けないかと夢見たものだと思い出す。
「あっ……けど、絵本って、よくよく考えたら怖い展開が多いのよね。子供の頃は気付かなかったけど」
「あら、あなたの住んでいたところではそうなのかい? ああ、でもこの村でも人隠しの噂があるのだから、そうなのかもしれないねぇ」
などと場を和ませようと語った老婆の言葉だが、その意図は残念ながら外れたと言って良いだろう。
なぜなら創造物ではない、実際にあった話をするものだから、マシロは笑うに笑いにくく、口角を無理に釣り上げることで苦笑いするしかなかったのだから。
「ところで、ここに着てばかりなんでしょ? お腹空いてないかい?」
「!!」
老婆の問いを聞いた途端に、忘れていた空腹感がけたたましく唸った。
生理現象なのだから仕方がないとわかっていながらも、年頃の少女には関係がない。恥ずかしいものは恥ずかしい。
見ず知らずの人の前で自己主張する腹を両手で強く抱えたマシロは、真っ赤になった顔を俯かせた。
「私の家はここからすぐ近くなのよ。つまらないものしかないけど家で何か食べていくかい?」
「行きます!」
先ほどの乙女な態度はどこへやら。
老婆のお誘いを間髪入れずにマシロは応じた。
予想以上のマシロの反応に老婆が驚倒したことで、二度恥をかくことになろうとは――
後になってマシロは後悔する。




