第1話 もう一人の転移者
眼鏡のレンズ越しに紅の瞳に映る、いきなり一変した様々な視覚情報に、桐崎真銀は頭がついていけずにいた。
口をポカンと開けて呆けている様は、他の者が見たら、年頃の娘らしからぬものに思えたかもしれない。
幸いと言うべきかはわからないが、そのような者は見当たらなかったが。
「――私、夢でも見ているのかしら」
弟の伊良波の部屋で、イラハがいつものように『ラグマギ』をしていた。そのプレイを見ながらマシロは一緒にいたはずで――
けれど、近くに弟は見当たらない。
それどころか――
「木、木、木、木、林、木、木…………木、ばっかりじゃない!?」
時計回りに360度見回してマシロは驚いた。
ここは平地らしいが、遠くからでもわかるほど大きく太い茎が大地に根付いた大木が見え、それらが周囲に存在していた。遠方には林が見えたりする。
屋内ではない。
家の外であっても近所でもない。
それどころか、自分の住んでいる地域にこんなところは知らない。
陽の位置にも疑問がある。
学校があったので、当然、マシロもイラハも通学した。今日は六時間授業。家に帰ってからゲームを始めたので、今は夕方近い時間のはずだ。
けれど、空を見上げると晴れ渡った青空が広がっていて、太陽の位置からして午前中……正午には至っていないと思われた。
――まったく訳がわからない。
「疲れているのね、きっと……こういう時は寝ましょう! 寝て、覚めたら、きっと元通りよ! だって、夢なんだもの!」
平原に静かに寝そべってみる。
意外とふわふわしていて気持ち良い。
「…………」
風に揺れて、草の先がマシロの頬をつつく。
鼻腔に草と土の匂いが掠める。
「寛いでる場合じゃない!」
一人ツッコミをこなしながら、マシロが上半身を勢いよく起こした。
「ここが何処だかわからないけど、自分の身を守らなくちゃ……。先ずは人が住んでる場所を見つけて、食べ物と水、寝る場所の見通しを立てるところからかしら?」
てきぱきと状況分析と目標を設定し終えたマシロは、早速行動に移そうと立ち上がる。スカートに付いた草をお尻ごと軽く叩いて落とした。
「人がいそうなところって言っても……ここからじゃわからないわね。とりあえず何があるかわからない林のある方角は避けるとして……反対方向にでも行こうかしら」
見渡す限り、人のいそうな様子が見受けられなかったので、マシロは気が重くなり深い溜め息を吐いた。
「もしかしたら長くなるかもね……。こうなったら持ち物のチェックもしておくべきかしら」
家の中……それもイラハの部屋に少し覗きに行っていただけだったので持ち物は少ない。
スカートのポケットの中にハンカチとポケットティッシュ。
白いブラウスの上から羽織っていた上着のポケットにスマホと飴玉が四つ。ソーイングセットが入っているのみ。
「……私、数日後には餓死したりしてないかしら?」
せめて、通学時や外出時なら鞄を持ち歩いていただろうから、ペットボトルやおやつなり、今よりは幾分マシだったろうなぁと考えてしまう。
が、それは現状を打破できる材料にはなり得ないので、すぐに気持ちを切り替えることにした。
「最後の確認もしなくちゃね。……まぁ、こういう場合のこういう状況だとあまり期待できないんだけど。いっくんなら、異世界なんだから使えなくて当然! とか言いそう」
マシロの言う「いっくん」とは、実の弟のイラハのことだ。
スマホの電源を入れる。
予想通り電波が通じていないらしく、インターネットに繋がらない。弟のイラハに電話もしてみたがこちらも繋がらなかった。
友人、警察にも電話を掛けてみる。
――やはり、ダメだ。
こうなるとまるで役に立たないスマホ。
時計が見れるのと、写真が撮れることくらいか。
時間がわかるのは有り難いが、現状絶対に無くてはならないというほどの物ではない。
今後、使い道があるかはわからないが、スマホの充電ができるか怪しい以上、もしものために電源を完全に落とし節電に努めた方が良いだろうとマシロは判断した。
「はぁ……。やっぱり使えない。冗談でさっきは言ったけど、本当に異世界に来ちゃってたりしてね……。ふふ。だとしたら、いっくん羨ましがるかしら」
自分で言うほど異世界に来ちゃった論をマシロは信じてはいない。
だから軽口を叩けた。
けれど理由はそれだけではない。
突然、見知らぬ土地に一人で投げ出され、十分とはお粗末にも言えない程遠い持ち物のラインナップ……
――これで不安にならないわけがない。
マシロはまだ十七歳の高校生。
軽口でも言っておかないと、心が寂しさに締め付けられてしまいそうだった。
「……いっくんに会いたいなぁ……」
「会わしてあげようか?」
「――――ぇ」
突然、中性的な声がマシロの後ろから聞こえ――
マシロが振り返る。
「――っ」
背後を見たマシロの表情が固まり、そして――
「き……き…………きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っっっ!!」
なんと、声は後ろは後ろでも、ぴったり背後からのものだったのだ。
通勤ラッシュ時の満員電車の中でしか、家族以外の者にこんなに近くに立たれたことなどないマシロは大いに驚いた。
何に一番驚いたかと言えば、やはり――、
「ね、猫!?」
目の前でマシロに大声で騒がれておきながら、表情ひとつ変えない猫がいた。
銀色に輝く青く美しい披毛。
特徴的な綺麗な翡翠色の瞳。
そして……笑顔?
口から覗かせる鮫を思わせるギザギザの牙……
「……猫だよね?」
「うん、そうだね」
マシロは一歩後ろに退いてから、改めて目の前の猫らしきものの全身をマジマジと見た。
なぜ、猫らしきなのかというと……
マシロより頭二つは大きい身長で、二足立ちで……
こんな大きな猫をマシロは知らない。
これでは猫というより豹だ。
けれど大きさと口の中に目を背けば、見た目は猫ときた。
「……ぬいぐるみ、よね?」
「うん、そうだね」
猫であり、ぬいぐるみでもあるものから、つい先程とまったく同じ言葉が返ってきた。
そう。マシロの背中にくっつきそうなぐらい近くから声を掛けてきたのは、猫のぬいぐるみだったのだ。
ぬいぐるみ特有の丸みを帯びたシルエットがその証だ。
「……普通、ぬいぐるみってしゃべれないわよね?」
「うん、そうだね」
三度目も同じ返事。
機械仕掛けでしゃべっているんじゃないかと、マシロは恐る恐る猫のぬいぐるみの周りをぐるりと見て回った。
「……スイッチなんてないみたい。着ぐるみの可能性は……中に人でも入っていないかしら?」
ぬいぐるみの披毛に、マシロが手で軽く触れる。
「うわぁ~、ふわふわ! 本物の猫みたい!」
「「うん、そうだね」」
また同じ返しだろうと踏んで、マシロは言葉を被せてみた。「やっぱりね」とマシロがしてやったりな顔をぬいぐるみに向けると――
「――――」
ニヤニヤした笑顔が、驚いたものに変わっていた。
「ふふ。あなたもびっくりしたりするのね。でも、不思議。人が入れるようなチャックとか見当たらないし……、機械的な物もなさそうだし……。ぬいぐるみと思ってたけど、実は本物の猫なんてオチじゃないでしょうね?」
「…………」
「…………」
「もう、言わないよ?」
どうやら、ぬいぐるみは学習したらしい。
「なぁんだ、残念」
本物の猫もぬいぐるみも人の言葉を話さないし、理解することもない。人口ロボットなら、その限りではないかもしれないが、機械が使われている形跡も見当たらない。
なら、目の前の存在は何なのだろうか?
「ねぇ、あなた……名前は?」
「ぬいぐるみ、だよ」
「違うわ。それは総称よ。私が聞いてるのは名前……あなただけの呼び名よ」
困ったのか、ぬいぐるみの動きが固まった。
それに気付いたマシロは、なんだか悪い気分になり、話を変えることに。
「ぬいぐるみが話すなんて不思議。あなたは本当にぬいぐるみなのかしら」
「ぬいぐるみ、だよ」
「…………今度はそれを続ける気じゃないでしょうね?」
「違うよ」
「……そう。なら、良かった」
呆れ気味に、マシロは小さく溜め息を吐いた。
「私の知ってるぬいぐるみとあなたは少し違う……気がする。その辺りのことを聞いても大丈夫?」
また、ぬいぐるみの動きが固まり……と思ったら、今度は割かし早くフリーズが解けたらしく、話し出す。
「付いてきて」
「ちょ、ちょっと!? キャッチボールができてない! 全然できてないわ! 会話と会話の間がいろいろ抜けてない?」
飛んだ会話にマシロが、驚いて抗議。
けれど、ぬいぐるみは応えるどころか、後ろを振り返ることもなく、スタスタと前を歩いていく。
このあからさまに怪しいぬいぐるみに付いて行って良いものかと、マシロは思案を始め――
「来ないの?」
「きゃっ!」
意識を目の前のぬいぐるみから逸らした途端、驚くことに、ぬいぐるみの声がマシロの正面ではなく、予期せぬ背後から聞こえてきた。
「え? いつの間に……というか、心臓に悪い……」
マシロの背後で、ぬいぐるみはまたニヤケ顔でマシロを見ていた。
見た目ポッチャリしたぬいぐるみの割りに身のこなしが素早いらしい。
ますます、怪しさに拍車が懸かったと警戒心を深めたマシロだが、ぬいぐるみはそんなマシロの気を知ってか知らずか、相変わらずニヤニヤしている。
「あ、あの、この近くに人がたくさん住んでるところ知らない? 街とか村とか……ううん、たくさんじゃなくても良いの。とりあえず、人さえ住んでいたら」
「知ってるよ」
「ほんと!?」
無言で頷いたぬいぐるみ。
右手をある方向に指差した。
「そっちに行けば、人のいる場所に行けるの?」
ぬいぐるみは今度は無言だった。ただニヤニヤした表情はそのままだ。
マシロは率直に薄気味悪いと思った。
「……どれぐらい歩けば着くのかしら?」
「1時間」
ぶっきらぼうな言い方。
それでも、まともな答えが返ってくるとは思っていなかったので、マシロは気にしなかった。
思っていたよりも近かったということもある。
だが、やはり一刻も早くこの薄気味悪いぬいぐるみから離れたかったからというのが最もな理由だろう。
「ありがとう。それじゃあ、私行くわね」
「…………」
また無言だったが、黙って行かせてくれるらしい。
もしかしたら、自分も付いていくとか言うかもしれないと、少しは警戒していたマシロだったが、その予想は有り難いことに外れたので気を解すことができた。
教えてくれた方角へ向かって、マシロは一歩を踏み始める。
何事もなく、静かに数歩歩き、
「まさか、こっそり跡を付いてきてないかしら?」
後ろを振り返ってみたが、マシロの心配は杞憂だった。
ぬいぐるみは、さっきまでマシロがいた位置からまったく動いていない。視線だけが、マシロを追ってきていたようだ。
「やっぱり、変わってる……。でも、助かったのは本当よね……。顔はちょっと憎ったらしいし、性格はなんだか触れちゃいけないものを抱えてそうだけど……ぬいぐるみなんだし基本可愛いわよね……多分」
けっこう、酷いこと言ってるなぁとマシロは自分でも思い、苦笑した。
反省ではないが、ぬいぐるみへの評価を改めないといけない。
そう考えたマシロは「気味悪いぬいぐるみ」から「気味可愛いぬいぐるみ」に昇格してあげようと思うのだった。
1時間後、その評価をマシロ自身が元に戻すどころか、最底辺にまで落とすことになるとも知らずに――




