第88話ヤギの乳と誤解、そして色彩の変化
「シャングリーさんをそこに寝かせて。私は薬を取ってくるから」
シャキールとサンデーは素早く動いた。ほぼ完全に力を失っているシャングリーの体を抱え上げ、削り出した竹で作られた長椅子の上にゆっくりと横たえる。ぐったりとした体の重みを受け止め、竹がギシッと小さな軋み音を立てた。
「私、手伝うわ」
クトリが一歩前に出て、手伝いを申し出た。
しかし、サンドラはピクリとも振り返ることなく、淡々とした声でその申し出を退けた。
「必要ないわ。これくらい私一人でできるから」
反論する隙すらなかった。シャングリーの体勢が安定したことを確認するや否や、サンドラは必要なものを調合するために、足早に奥の部屋へと引っ込んでいった。
その慌ただしい空気の中、俺はただ戸口で立ち尽くすことしかできなかった。医療の知識なんて、俺にはこれっぽっちもない。だが、俺の足を縫い止めていたのは、そんな自分の無力さだけではなかった。思考が激しく渦巻き、今この状況で最も必要としている『ある人物』の居場所を、必死に頭の中で探っていたのだ。
顔にはくっきりと焦りが出ていたらしい。部屋の隅にいたウェインが、落ち着きのない俺の様子に気づいて声をかけてきた。
「タカヒロくん、どうしたんだい?」
俺は平静を装った。新たなパニックを引き起こさないためにも、ここは嘘で誤魔化しておいた方がいい。
「いや、何でもない……」
だが、その言葉はどうにも喉の奥に引っかかった。俺がこのまま黙っていれば、シャングリーの問題は永遠に解決しない。時間は刻一刻と過ぎており、この男の命は俺の判断に懸かっているのだ。
(……やっぱり、正直に話した方がいいか)
「ただ、ナオミのことが気になってな。あいつ、今はどこにいる?」
「ああ、なるほどな! どうりでさっきから黙りこくってると思ったぜ。あのガキのこと考えてたのかよ」
その声はウェインではなかった。振り返ると、シャングリーを寝かせ終えて壁に寄りかかっているサンデーの姿があった。どうやら、さっきからずっと俺の挙動を観察していたらしい。
「ナオミがどこにいるか知ってるのか、サンデー?」
俺はすかさず食いついた。
「今朝は自分の畑にいるのを見たが……今はどこにいるか分からねえな」
(クソッ、くだらねえ情報だ!)
てっきり正確な居場所を知っているのかと思いきや、問題解決には到底繋がらない中途半端な目撃談だった。
「ナオミくんに何か用かい?」
今度は、ウェインが真剣な表情で問いかけてきた。
「大した用じゃない。ただ、あいつからヤギの乳を一本もらいたいだけだ」
俺の背後で、空気が急変した。夫の好みを熟知しているクトリにとって、俺の今の発言は、彼女の頭の中でけたたましい警報を鳴らしたに違いない。
「タカヒロくん、ヤギのお乳なんて嫌いだったはずよね?」
案の定だ。クトリが俺の嗜好について問い詰めてくることは目に見えていた。
「ああ、嫌いだ。だが、俺が飲むわけじゃない」
「じゃあ、嫌いだって分かってるのに、どうして――」
「俺のためじゃないって言ってるだろ! シャングリーさんのためだ! シャングリーさんの体内で起きている『炎症』を抑えるために、ヤギの乳が必要なんだよ」
その一言が、小屋の空気を一変させた。
『炎症』という言葉を聞いた瞬間、さっきまで黙って様子を見ていたシャキールの顔色が変わる。
「お前、冗談じゃないだろうな?」
(頭の血管がブチ切れそうだ……)
こんな一刻を争う事態に、目の前の男はどうしてすぐに行動せず、時間を無駄にするようなお決まりの質問を投げてくるんだ?
幸いなことに、俺がシャキールに向かって怒りを爆発させる前に、ウェインが間に入って会話の主導権を握った。
「詳しく話してくれないか。一体何があって、シャングリーがあんな状態になってしまったんだ?」
これ以上勿体ぶっても意味はない。微かなうめき声を漏らすシャングリーに視線を向けたまま、俺はすべてを打ち明けた。
「トラブルから逃げる方法を探していた時、シャングリーさんが顧客から注文されていた売り物の葉っぱを二枚、俺に分けてくれたんだ。
他の手段がなかったから、俺はその葉っぱの四分の一をシャングリーさんに渡して、ごく少量だけ食べるように言った。
……でも、どうやら俺が思っていたよりも多く食べちまったらしい。だから今、口と胃の中に炎症が起きてるんだ」
俺の言葉が終わると同時に、後ろから足音が聞こえた。医療器具を手にしたサンドラが戻ってきたのだ。彼女はすぐにシャングリーの傍らにしゃがみ込み、俺の方を見向きもせずに会話に加わった。
「そもそも、二人は何の葉っぱを食べたの?」
「赤紫蘇とソレルだ」
シャングリーの痣だらけの顔に消毒液を塗ろうとしていたサンドラの手が、空中でピタリと止まった。二つの植物の名前を聞いて、彼女は少しの間沈黙する。
「……もし本当に少ししか食べていないなら、ここまで状態が悪化するはずがないわ」
「どういう意味だ、サンドラちゃん?」
シャキールが身を乗り出した。どうやら、彼の頭ではサンドラの分析をまだ消化しきれていないらしい。
「手短に説明するわ。赤紫蘇とソレルの葉は、生で食べると確かに炎症を引き起こすことがある。でも、ほんの少しなら……ここまで酷い影響は出ないはずよ」
俺はハッと息を呑んだ。サンドラの論理は百パーセント理にかなっている! あの時、俺は残りの葉っぱをシャングリーが横たわっている場所にそのまま置いてきてしまったのだ。
「ってことは……兄貴は、タカヒロが分けた残りの葉っぱを全部食っちまったってことか?」
「おおよそ、そういう解釈になるわね」
サンドラは止まっていた消毒液の塗布を再び再開した。
「タカヒロの話から推測するに、シャングリーさんはタカヒロの見ていない隙に全部食べてしまったんでしょう」
(馬鹿か俺は! 不注意すぎる!)
葉を残した直後、俺はプリリーの動きを監視するために窓へ注意を向けてしまった。完全に油断していたのだ。
「ナオミを探してくる!」
踵を返し、外へ駆け出そうとしたその時。がっしりとした手が俺の肩を掴んだ。
「待ちなさい、タカヒロくん」
足を止められ、俺は横目で鋭く睨みつけた。ウェインは肩から手を離し、俺の目の前に立つように一歩前へ出た。
「どこへ行くつもりだい?」
「さっき言っただろ。ナオミを探しに行くんだ」
「それなら、私とサンデー、シャキール、そして……ジョナンディでナオミくんを探す。君はサンドラさんと一緒にここに残りなさい」
俺は少し目を見張った。いつもとは違う。ウェインが自分から直接動こうとするなんて珍しいことだ。普段なら村人に指示を出すだけで済ませる彼が、今回は自ら最前線に立とうとしている。
「どうして俺がここに残らなきゃならないんだ? これは俺のミスだ。俺が――」
「いや、君のミスじゃないよ、タカヒロくん。望んだ結果にはならなかったかもしれないが、君は最善を尽くした。
――三人とも、今すぐ出発するぞ」
その命令は絶対だった。多くを語ることなく、ウェインたちは急いで小屋を後にした。そして、この騒動の元凶である俺は、ただ立ち尽くして彼らの背中が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった。
残された静寂の中、さっきから少し離れた場所に立っていたあの『異常な女』が、突然距離を詰めてきた。彼女は顔を近づけ、俺の耳元で小さく囁いた。
「ねえ、アキラちゃん……いつになったら私に魔法を教えてくれるの?」
風の吹き抜けるような微かな声だったにもかかわらず、サンドラの聴覚ははるかに鋭かったようだ。最初は無視して傷口の処置に集中していたサンドラだったが、プリリーがそのふざけた囁きを二度繰り返した時、彼女の手の動きがピタリと止まった。
カツンッ、と大きな音を立てて、医療器具が机の上に置かれる。
「タカヒロ。あんた、少しは奥さんの気持ちを考えなさいよ! 結婚して子供もいるってのに、どうして村にこんな『厄介な寄生虫』を連れ帰ってきているの?」
俺はこめかみを揉んだ。地球にいた頃から、時折このことについて考えていた。どうして女という生き物は、物事の核心を尋ねようともせず、こうも簡単にネガティブな妄想を膨らませて疑心暗鬼に陥るのだろうか?
(ホント、ウンザリするような誤解だぜ!)
「あのな……その話は後にしてくれないか? 今はそんな問題を長引かせてる場合じゃないんだ。
それから、このクソポンコツのプリリー! 前にも言っただろ、俺は魔法使いなんかじゃねぇ! だから、魔法を教わろうなんて無駄な期待をするのはやめろ!」
広間を仕切る観葉植物の棚の向こうで、サンドラは魔法の概念についてプリリーに怒りを爆発させる俺の反応をじっと観察していたようだ。
しばしの沈黙。サンドラは目を細め、そして――この世界の自然法則について明らかに無知なプリリーを黙らせるためか、あるいは単に見せつけるためか――彼女の頭にあるアイデアが閃いたようだった。
「魔法? こういうことかしら!?」
サンドラは棚の裏から歩み出て、俺たちの元へ近づいてきた。その右手には、濃い暗青色の液体が入った小さなガラス瓶が握られている。そして左手には、カットされたライムが一つ。
彼女は何も口にせず、どんな呪文を唱えることもなく、指先でそのライムをギュッと搾った。数滴の酸っぱい果汁が、瓶の中の青い液体の表面へと滴り落ちる。
ほんの数秒のことだった。暗青色の液体が激しく反応した。色はあっという間に薄まり、泡立ち、そして鮮やかに発光するような赤紫色へと瞬時に変成を遂げたのだ――まるで、純粋な魔力がそのガラス瓶の中に吹き込まれたかのように。




