第87話悪臭と妻の疑念
幸いなことに、厄介なトラブルの連鎖はようやく断ち切られた。俺たちの足は再びヴェリア村の土を踏み、無事に命と、ウェイン様に献上するための売上金を持ち帰ることができたのだ。
(……ウェイン『様』?)
俺の心は突然ビクッと跳ねた。一体いつから俺の舌は、ウェインに対してあんなにも高尚な敬称を口にするようになったんだ?
(まあいい。些細なことを掘り下げてたら頭がパンクしちまう。俺は一刻も早く思考をリセットして、昔の自分に戻らなきゃならないんだ)
そんな無意味な心の独白はさておき、村の外れ——田んぼが広がる境界線のところには、すでに大勢の村人が群がっていた。遠くからでも、彼らの顔に浮かぶ飢えたような熱気が見て取れた。今年の収穫の成果が自分たちの台所の運命を決めるのだから、待ちきれないのも無理はない。
距離が縮まると、一人の人影が人混みを縫って駆け寄ってきた。クトリだ。俺たちの結婚生活はまだ始まったばかりだから、彼女の若い血が人前での愛情表現を求めてしまうのも無理はない。
「タカヒロくん、おかえりなさい!」
彼女は躊躇うことなく俺の胸に飛び込んできた。
だが、その顔に浮かんだ笑顔は長続きしなかった。俺の胸に寄りかかって一秒も経たないうちに、彼女はバッと身を引き離したのだ。そして、指で鼻をきつくつまみながら、思い切り顔をしかめた。
「ねえ、あなた……体、すっごく臭いんだけど!」
クトリの後ろから、いつもの薄い笑みを浮かべたウェインが、残りの人混みをかき分けて前に出てきた。
「ナイバホ村への旅はどうだった? 楽しかったかい?」
「楽しいわけねぇだろ、この野郎! ゴミの山から漂ってくる腐臭を吸い込んで死にかけたし、汚水の水たまりのせいで全身に鳥肌が立ったぜ」
俺のフィルターを通さない言葉は、即座に被害者を出した。ナイバホ村の強烈な汚染空気を吸ったことがないヴェリア村の住人たちにとって、その赤裸々な描写は彼らの全身の毛を総立ちさせるのに十分だった。盗み聞きしていた者たちの顔に、一斉に嫌悪と恐怖が広がる。
「そんな村、絶対に行きたくないな」
ある村人は自分の腕をさすりながら身震いして呟いた。
「飢え死にしたとしても、ここにいた方がマシだ。そんなところに出向くくらいならな」
別の村人が、誓うような口調で同意した。
そんな愚痴が飛び交う中、俺のすぐ後ろ――シャキールが立っている隣で、大げさな咳払いが村人たちのざわめきを切り裂いた。その声には明らかに怒りが込められており、自分の故郷が一般市民にここまでコケにされたことが許せないらしい。
「ちょっと……もう一度言ってもらえるかしら? よく聞こえなかったのだけれど」
この異物が口を開いた途端、風向きがガラリと変わった。群衆の注目が一斉にそちらへ向く。疑問符だらけのひそひそ話が、乾いた藁に火が燃え広がるような速さで伝染し、俺の左側に立つ見知らぬ女の姿に視線が集中した。
「誰だ?」
「あの女の人、誰?」
「すっごく綺麗な服を着てる! もしかして……?」
だが、そんな下世話な噂話は今の俺の最大の懸念ではない。目の前の気温が、急激に下がっていた。クトリの眉が鋭く吊り上がっている。目を細め、俺の帰還についてきた見知らぬ女の存在に対する絶対的な敵意と、詮索するような目で俺を解剖しようとしている。
「タカヒロくん! あの人は誰なの!?」
「あ、いや……説明する前に――」
俺の息は喉の奥で詰まった。クトリの視線のせいじゃない。彼女の隣に立っていたウェインの顔から、突然血の気が引いたからだ。彼は目を見開き、荷車の上にぐったりと横たわる、顔中痣だらけのシャングリーの姿にようやく気づいたのだ。
「シャングリー……どうしたんだ? 一体何があった!?」
村人全員の視線が、一斉に荷車へと突き刺さった。
「だ、大丈夫だ……ただの擦り傷さ。すぐに治る……」
嘘つけ。声が盛大に震えてるじゃねえか。
俺は血眼になって群衆を一人一人スキャンし、この危機的状況で役に立ちそうな人物を探した。だが、空振りだ。俺が探している人物は、ここにはいないらしい。
俺の視線が定まっていないことに気づき、クトリの最後の忍耐がついに底をついた。自分の質問を無視されたことで、彼女の感情に火がついたのだ。彼女は有無を言わさず、俺の腕を乱暴に引っ張った。
「ちょっと、こっちに来なさい!」
抵抗などできるはずがない。忍耐を失った雌ライオンは獲物を丸呑みにする。俺はされるがままに引きずられていった。俺がこれから説明することを彼女が理解してくれなければ、この絡まった糸はさらにややこしい問題に発展するだろう。
群衆から数歩離れたところで、容赦のない尋問の弾丸が乱射された。
「私の質問に答えて。あの人は誰? なんで村に連れてきたの? 私と喧嘩でもしたいわけ? それとも、うちの家族の名誉を傷つけたいの!?」
予想とは大分違っていた。(頭が、痛すぎる……!)
息つく暇もなく降り注ぐ質問の雨が俺の喉の機能を奪い、この女の前では俺は本当に無力なのだと思い知らされる。
「どうして黙ってるの? 私に何か隠し事でもしてるの?」
「隠し事? 俺が何を隠すって言うんだよ! そもそも、俺が村を出てからまだ一日も経ってないんだぞ」
「隠し事がないなら、どうして黙って私の質問に答えないのよ!」
ナイバホ村で完全に消えきっていなかった苛立ちの火種が、ゆっくりと再燃し始めた。今は村人の耳が届かない場所にいることだし、ここらで主導権を握り、クトリに鬱憤を晴らすのも悪くないかもしれない。
「クトリ、お前が何を考えてるか知らないが、俺が他の女を連れてきたことに嫉妬してるのは分かってる。
だが、妻ならこんな風に意味もなくキレるんじゃなくて、まずは愛想よく俺の帰りを迎えるべきじゃないのか!」
「怒ってなんかいないわ、私はただ――」
「怒ってないなら、どうしてそんなに質問攻めにするんだ? 俺は説明しようとしてるのに、お前がその隙を与えてくれないんだろ」
チェックメイトだ。最後に放った言葉が、彼女の顎をきっちりと塞いだ。クトリは言葉を失う。その表情からは、強制的に降伏させられた内なる葛藤が読み取れた。『反論しても無駄だわ。この人はいつも理屈で相手を追い詰めようとするんだから』とでも考えているのだろう。
「説明が聞きたいなら、今すぐ話してやるよ」
気まずい空気を和らげるため、俺は外交的な提案を投げかけ、この緊張がこれ以上続かないことを祈った。
自分が追い詰められていることを悟ったのか、それとも返す言葉がないことに少し罪悪感を覚えたのか、クトリは最終的に、受動的な同意のサインとして小さく一度だけ頷いた。
家庭内の紛争は一時休戦だ。そしてついに、俺たちはウェインたちの元へと戻った。
だが、たった三歩歩いただけで、再び混沌が弾けた。シャキールと二人の初老の男が、慌てた様子でシャングリーの荷車を押していたのだ。
「ジョナンディ、何があった!?」
シャングリーを乗せた荷車が目の前を通り過ぎるのを見て、俺は反射的に尋ねた。
「分からねえ。だが、さっきシャングリー爺さんが吐くのを見た気がするんだ」
(ヤバい!)
心臓が激しく波打つ。シャングリーの体調がまだ全然回復していないことを、なんで俺は忘れていたんだ!? 本当に俺は迂闊すぎる!
「今からどこへ連れて行くんだ?」
「サンドラ姉さんの小屋だよ。そこで治療してもらうんだ」
(サンドラが村にいるだと?)
今朝、医療用の物資を探しにカリエフの森へ行くって言ってたはずじゃなかったか?
まあいい……彼女もクライリーと同じくらい頼りになるのだから、不確かなことを心配する必要はない。俺も後を追って、弱っていくシャングリーの容態をこの目で確かめるべきだ。
「ジョナンディ、俺も一緒に行く――」
「アキラちゃん、ちょっと待って!」
右足を上げたその瞬間、後ろから腕を引っ張られ、引き留められた。あろうことか、この異常な女は、クトリの目の前で俺のミドルネームを親しげに呼んだのだ。
「……アキラ、ちゃん!?」
俺の喉はカラカラに乾いた。予想通り、ついさっきまで和らいでいたクトリの顔が再び強張った。間違いなく、彼女の思考は最悪の方向へ急降下しているはずだ。
「プリリー、クトリ、今は喧嘩してる場合じゃない。お前らの馬鹿げた言い合いに付き合ってる暇はないんだ。
行くぞ、ジョナンディ!」
「タカヒロくん、待ってよ!」
「アキラちゃん、待って!」
◇◇◇
俺たちが小屋の前に到着した時には、皆、息を切らしていた。
だが、辺りの雰囲気はひどく異質だった。生活の気配が全く感じられない。ひっそりとしていて、まるで廃墟のようだ。ただ、サンドラの吊り鉢の観葉植物と、彼女が飼っているラブバードの時折鳴く声だけが存在を主張していた。
「おいサンドラ、このババア。どこにいんだよ?」
返事はない。扉をぶち壊す勢いで叩いても、中からは何の反応も返ってこない。ただ虚ろな反響音が俺に返ってくるだけだった。
「まだ森から帰ってきてないんじゃないのか?」
サンデーが壁に寄りかかりながら、呑気に口を挟む。
「……かもしれないな」
確信を待ちながら、俺は庭を見回した。そこで一つ、俺を驚かせるものがあった。サンドラが手入れしている前庭が、劇的な進化を遂げていたのだ。ここ一年半の間、この女は自分の住処のあらゆる隅々の美しさに対して、異常なほどの執着を見せていた。
「裏庭を見てみましょう。もしかしたらあそこにいるかもしれません」
「ウェイン様の言う通りだ。この時間は大体、サンドラさんは裏庭で作業してるからな」とアルベルトが補足した。
「じゃあ、アルベルト、ちょっと様子を見てきてくれ」
「分かった」
だが、アルベルトが裏庭の角を曲がりきる前に、探していた人物がついに姿を現した。サンドラだ。彼女は被っている帽子と同じくらい派手な、猫柄の茶色いエプロンを着けて歩いてきた。
「あら、アルベルトさん。どうしたの?」
「やっと見つけた! サンドラさん、治療しなきゃいけない患者がいるんだ」
「患者? 誰か怪我でもしたの?」
「気になるなら、今すぐ表に来てくれないか?」
サンドラは答えず、すぐに前を歩き出した。奇妙なことに、彼女が前庭に出たとき、その視線は荷車の上で呻いているシャングリーではなく、真っ直ぐに俺へと向けられ、そしてロックオンされた。
それから間もなく、彼女の視線は人混みを突き抜け、ウェインの背後へと向かった。彼女の頭の中では、ウェインの左にいる見知らぬ女が誰なのか考えていたのかもしれない。
だが、どうやら彼女の医療従事者としての本能の方が勝ったようだ。彼女はその女が誰なのか気にすることなく、好奇心を捨てて視線を逸らし、シャキールが運んできた荷車の方へ早足で向かった。
「ウェイン様、シャングリーさんに何があったんですか?」
「分からない。村に着いた時には、突然こんな状態になっていたんだ」
そんな突発的な避難騒ぎの最中でも、俺の頭の中にはまだ一つの違和感がくすぶっていた。
さっきから、俺が必要としている『あの人物』の姿が、村の隅々にも、農園のどこにも見当たらない気がするのだ。
(あいつ、一体どこへ行っちまったんだ?)
「分かりました、早くシャングリーさんを中へ運んでください。私が手当てします」




