第85話偽りの疫病ブラフ
俺とシャングリーが外へ踏み出すと、古い廃屋の息苦しい空気がまだ肌にまとわりついているような気がした。心臓が早鐘を打つ。俺はこの命を神に預け、さっき思いついたばかりのイカれた計画が完璧に機能することだけを祈っていた。
建物の外では、あのクソ野郎のヴィンが立ち塞がっていた。奴は顎の筋肉を怒りで引き攣らせており、ナイバホの令嬢であるプリリーを前にしても微塵も怯む様子がない。
「やっと出てきやがったな、このクソガキが!」
その鋭い眼光が俺たちをねめつける。俺の足が敷居を越えたその瞬間、奴はプリリーの肩を乱暴に払いのけ、真っ直ぐにこちらへ突っ込んできた。
「てめぇがやったことの落とし前、きっちりつけさせ――」
奴の薄汚い手が俺の胸ぐらに届く寸前、その動きがピタリと宙で止まった。ヴィンが恐怖に目を見開く。俺の隣で、シャングリーが突然、真っ赤なドロドロの液体を吐き出したからだ。
この作戦を全く知らされていなかったプリリーは、一瞬にして顔面を蒼白にさせた。つい先ほどヴィンから受けた乱暴な扱いなどすっかり忘れ、パニックも露わに俺たちの元へ駆け寄ってくる。
「シャングリーおじさん、大丈夫!?」
ヴィンの凶悪な顔が、一瞬にして崩れ去った。シャングリーの口から溢れ出た赤い液体が足元の土を濡らしていくのを見て、隠しきれない焦燥感が奴の顔に浮かび上がる。
「プ、プリリー様……ど、どうか私から離れてください……! あ、あなた様の清らかな御手で、決して私に触れてはなりません……!
じ、実は……私は、恐ろしい伝染病を、患っておりまして……」
(よし!)
息も絶え絶えなシャングリーの震える声は、信じられないほど真に迫っていた。これならいける……あのクソ野郎も、絶対に俺たちに触れようとはしないはずだ。
「シャ、シャングリーさんの言う通りだ……ゲホッ! ゴホッ! ゲホッ!」
今度は俺の番だ。この命懸けの芝居を完璧なものにするため、俺は胸をきつく押さえて身を屈め、喉の奥から無理やり咳き込んでみせた。
「み、見てくれ……!」
真っ赤に染まった自分の手のひらを、プリリーとヴィンの前に突き出す。
「お、俺もすでに感染してしまってる……だから、俺たちには絶対に近づかない方がいい……」
◇◇◇
――数十秒前、廃屋の中。
「タ、タカヒロ……お前、何を……?」
シャングリーの老いた瞳に困惑の色が浮かぶ。おそらく彼は、俺が手にした葉を、彼や妻がいつもやっているように細かくすり潰して薬にするのだと思ったのだろう。だが俺はそうする代わりに、彼の目の前で葉の四分の一を勢いよくちぎり取った。
「シャングリーさん、急いでこの葉っぱを食べてくれ」
「た、食べる……?」
「ああ、今すぐ食べてくれ!」
「だが……」
「大丈夫、心配しなくていい! これくらいの量なら、絶対に毒にはならないって百億パーセント保証する!」
(これはクロム様から学んだ戦術だ……!)
天然の素材を巧みに操り、敵を欺いて追跡から逃れるための天才的なトリック。
「これで吐血したように見せかけて、外にいるあのクソ野郎をビビらせるんだ」
正直なところ、この作戦のリスクを考えると胃が捩れそうだった。ヴィンは以前、俺の命令に逆らって、疥癬持ちの部下の皮膚に触れようとしたほど無鉄砲な男だ。このハッタリが成功する確率は、おそらく0・1パーセントにも満たないだろう。
しかも俺は、すでに虫の息であるシャングリーの命を、こんな無謀な賭けのテーブルに載せようとしているのだ。
「わ、わかった……。お前の作戦でこの窮地を切り抜けられるって言うなら、俺はこれを食べる……」
(……頼む、上手くいってくれ!)
外でプリリーが稼いでくれている貴重な時間が、刻一刻と削られていく。ヒリヒリとした緊張感が空気を伝い、急がなければヴィンが扉をぶち破ってくるのは明白だった。貴族の令嬢の威光など、あの男にはこれ以上通用しないだろう。
◇◇◇
――そして、現在。
「た、たぶん……あと三分もすれば、俺は――オエッ!!」
「ア、アキラちゃん!」
俺の口から真っ赤な液体が勢いよく噴き出した。飛沫がヴィンのサンダルに当たるよう、意図的に角度を調整して吐き出す。計算通りだ。吐瀉物のおよそ四・三パーセントが奴の足の甲を赤く汚した。偽りの『死の呪い』の烙印としては、これで十分すぎる。
「ッ……!!」
ヴィンの顔面が激しく引き攣る。奴は声も出せずに口をポカンと開け、自分の足に付着した赤い斑点を凝視していた。理解不能な事態への恐怖と、抑えきれない怒り、そして嫌悪感が入り混じった顔だ。
「あ、ああ……申し訳ありません……あなた様の足を、汚してしまって……ヴィン、様……」
「ア、アキラちゃん、もう喋らないで! 私――」
「私のご心配には、及びません……プリリー様」
パニックに震えるプリリーの肩越しに、俺の視界の端がヴィンの動きを捉えた。汚れた靴が、ジリッと一歩後ずさる。あのクソ野郎の心に、ついに恐怖が毒のように回り始めたのだ。奴が背を向けて逃げ出そうとしたその瞬間、俺の脳裏にさらに悪魔的なアイデアが閃いた。
「まさか……二十九歳になったばかりで、こんな……致死率の高い病気に、罹ってしまうなんて……!
シャングリーさんの話す医者たちによれば……この伝染病の名前は『肺炎』……肺が腐り落ちる、恐ろしい病だと……。
だ、だが……少なくとも……俺の人生の目標は、一つ達成できた……。愛する人と……結婚できたんだから……」
(えっ!?)
俺の唐突な告白に、プリリーが目を丸くして驚愕する。
もとの世界でこんな適当な医学知識をひけらかせば、速攻でボロが出るだろう。だが、まだ医療という概念すら乏しいこの世界では、未知の病名など得体の知れない死の宣告に等しい。奴らの理解を完全に超えており、無条件で信じ込むしかないのだ。
「この、クソ野郎がぁぁっ!!」
俺の偽の呪いは、完璧に機能した。
ヴィンはきびすを返し、脱兎のごとく一目散に逃げ出した。逃げる途中、奴は濁ったドブの水たまりに足を突っ込み、必死になって『死の病』を洗い流そうとしている。すっかりパニックに陥った奴は、もはや報復することすら忘れて逃げ去っていった。
ヴィンの背中が完全に見えなくなると、プリリーは先ほどと変わらないパニック気味のトーンで騒ぎ立てた。
「アキラちゃん、急いで近くの診療所に案内するわ! この村の貴族として、あなたたちがよそ者でも、私が責任を持って助けるから!」
聞いてるこっちがくすぐったくなるほど、彼女は過剰に慌てふためいている。舞台の幕はもう下りたのだ。そろそろこの茶番を終わらせる頃合いだろう。
「お前、何一人で焦ってんだよ?」
服についた埃を払いながら、俺はシャキッと立ち上がった。完全に元通りの声色を聞いて、彼女の心配そうな顔が、ポカンとした間抜けな表情へと変わる。
「だ、だって……」
「見ての通り、ピンピンしてるぜ!」
「じゃあ……さっきのは全部、あなたの作戦だったっていうの!?」
「当たり前だろ! んなわけないじゃん」
「もうっ、バカアキラちゃん! よくもそんな――」
彼女の抗議の声は、途中でピタリと遮られた。
ドサッ!
シャングリーの老いた体が、突然力なく地面へと崩れ落ちたのだ。俺たちの呑気なやり取りは一瞬にしてかき消され、代わりに血の凍るような驚愕が場を支配する。
「シャングリーさん、どうした!?」
返事はない。老人はただ低く呻き声を上げながら、両手で腹をきつく抱え込み、ガタガタと震え続けていた。
「シャングリーさんッ!」
最初はまだ演技を続けているのかと思った。だが、彼の苦しそうな呻き声は一向に収まらない。それどころか、異常な事態が起きていた。彼の口の端から、ドロドロとした粘り気のある唾液が止めどなく流れ落ちているのだ。俺に言われて葉を噛んだせいで、意図的に唾液を吐き出しているのかと一瞬疑った。
しかし……。
「タ、カ、ヒロ……」
冷え切った指先が俺の肩を強く掴む。押し殺すような掠れた声が漏れた。
「腹、が……ッ!」
視線が交差する。シャングリーの顔は死人のように青ざめ、耐え難いほどの激しい吐き気に襲われていた。
腹部の激痛。異常なよだれの分泌。そして、猛烈な吐き気。
ほんのコンマ数秒の間に、散らばっていたピースが巨大なハンマーとなって俺の脳天をカチ割った。
(シュウ酸……!!)
あのソレルの葉っぱこそが、この急変の元凶だったのだ。
心臓が胃の底までストストンと落ちていくような感覚。なんて馬鹿なことをしてしまったんだ。賢ぶったただのハッタリのために。俺は自分のこの手で――ヴェリア村において最も重要な人物の一人を、自ら毒牙にかけ、犠牲にしてしまったのだ。




