第83話天使の顔をした独裁者
時々、不思議に思う。愛してもいない男のもとへ娘を嫁がせることができる親の神経が、俺には理解できない。
家庭内暴力の多くは、互いの価値観のズレやすれ違いから始まるものだ。
プリリの身に起きている状況を考えると、頭がどうにかなりそうだった。権力も財産もないただの余所者である俺にできることなんて、精々こうして聞き役に徹することくらい。
だが、彼女を慰める言葉を口にしようとした瞬間、その意図は綺麗さっぱり霧散した。果たせもしない甘い気休めなんて、あまりに気障で無責任すぎる。
「悪い。俺には、その件で力になってやれることはなさそうだ」
口が勝手に、誠実だが残酷な現実を吐き出していた。何の足しにもならないかもしれないが、木偶の坊みたいに黙り込むよりは、現実的な答えを返すほうがマシだろう。
「ううん、大丈夫。力になれないとしても、気にしないで」
正直、彼女の表情の変化を見るのは心が痛んだ。無理に作られた笑顔。ピンと伸びていた背筋は、どこか寂しげに落ち込んでいる。けれど、この村に来て日の浅い俺の立場では、湧き上がりかけた同情を胸の奥底に押し殺すしかなかった。
「こんな風に生まれてきたのが、私の運命なのかもね。愛する人にすら、愛してもらえないなんて」
(……待て待て。この湿っぽくてメロドラマめいた会話のパターン、どこかで聞き覚えがあるぞ!)
嫌な予感が頭をよぎる。このまま会話が明後日の方向へ脱線するなら、今すぐ心の準備をして回避しなければ。
「小さい頃からね、本物のお姫様みたいに生きてみたいってずっと夢見てたの。誰にも強制されない、本当の愛を知りたくて……。毎晩神様に祈ってたわ。言葉では言い表せないくらいの幸せをくださいって」
俺はしばらく口を閉ざすことにした。どんよりと曇った彼女の機嫌をこれ以上害さないよう、沈黙に身を任せる。
「でも、祈るだけじゃ幸せなんて降ってこないのよね」
「……ああ、その通りだ! 神様は慈愛に満ちていて何でも与えてくださる存在かもしれないが、俺たちが何もせず、戦いもせずにただ指をくわえているだけなら……神様だって救いの手を差し伸べちゃくれない!」
(しまっ——!?)
心臓が跳ね上がった。完全に雰囲気に流された! 俺の喉は自動操縦でも始まったかのように、まるで宗教家みたいな説法をぶちまけてしまったのだ。突発的なお説教にこの貴族の嬢様が立腹しないことを祈りつつ、俺は心の中で自分を呪った。
そして案の定、嫌な予感は的中する。プリリがピタリと黙り込んだ。探るような強い視線で俺をじっと見つめてくる。その口元が微かに引きつり、今にも爆発しそうな何かを必死にこらえているように見えた。
「あ、いや、悪い! 別に説教するつもりじゃ——」
「ぷっ……くすっ!」
最初は口元から漏れ出る忍び笑いだった。だが次の瞬間、パニックに陥った俺のマ抜けな顔を見た彼女の笑いのツボが完全に吹き飛んだ。腹を抱えて笑い出す。
「ふふっ、あなたって本当に面白い人ね! こんな人、会ったの初めてだわ」
完全に予想外だった。ビンタか怒声覚悟だった俺に返ってきたのは、まさかの謎の称賛。
「私の名前はプリリ・プリシラ。プリリでもプリシラでも、好きな方で呼んでいいわ」
「俺はタカヒロ・アキラ・プラタマだ。好きに呼んでくれて構わないが……村の奴らは大抵、タカヒロと呼んでる」
「良い名前ね! よろしくね、アキラちゃん!」
(アキラちゃん……!?)
頭の血管がピキッと鳴った気がした。よりによって、俺が一番避けたかったミドルネームを選ぶとは! 意味が悪いわけじゃない。ただ、俺のいた世界じゃその響きはどうしても女の子の愛称を連想させるのだ。
「ああ、こちらこそよろしく、プリリ様」
「あ、様なんて付けなくていいわよ。シンプルにプリリって呼んで」
「だったら、俺の名の後ろの『ちゃん』も外してくれ——」
「やーだ! 私はアキラちゃんって呼ぶの! だって、好きに呼んでいいって言ったのはアキラちゃんでしょ? だから苦情は受け付けませーん!」
くそっ……こちらの外交的配慮の言葉が、見事なまでにブーメランとなって俺の顔面に突き刺さるとは。
「……はぁ、好きにしろよ」
大きなため息を吐き、不毛なやり取りを切り上げる。早く戻らねば。悪党どもの巣窟にシャングリさんを一人放置しておくのは、死神の足元に投げ捨てるようなものだ。
「待って……どこに行くの、アキラちゃん?」
三歩ほど足を踏み出したところで、華奢だが力強い手が右腕を掴んできた。お姫様が目を丸くして俺を見上げている。
「戻らないと。長居して連れに心配かけたくないんだ」
「私も行く! ツアーガイドだと思って一緒に行かせてよ!」
背筋にゾクリと冷たいものが走る。冗談じゃない、そんな余計な役割は一切求めていない。この地獄を歩き回るには、シャングリさん一人で十二分すぎるのだ。
「お気持ちだけ受け取っておく。だが俺は——」
「もう、つべこべ言わないの! 私がいらないと思ってても、この村での私の存在感はすごいんだからね!」
存在感があるかどうかは知らんが、今の俺の隣に彼女がいること自体が災厄の磁石だ! 市場の好色なごろつきどもが、彼女が俺にべったりくっついている姿を見たらどうなるか……嫉妬に狂って俺を八つ裂きにする光景が容易に目に浮かぶ。
「ほら、早く歩いて! お友達のところまで案内してちょうだい」
ただの明るくて社交的な少女ではない。今日、俺は新たな事実を学んだ。プリリ・プリシラという人物は、非常に強引な『天使の顔をした独裁者』なのだと。
◇◇◇
予感は最悪の形で的中した。市場を通り抜け、元の場所——ヴィンとその部下どもが集まる拠点へ戻った瞬間、周囲の空気は一変して窒息しそうなほど重くなった。
周辺の商人やごろつきどもの視線が、目に見えない矢となって全身に突き刺さる。ナイバホ村の花であるプリリと俺が隣同士で平然と歩く姿を見て、奴らの瞳には嫉妬と憎悪の炎が狂おしく燃え上がっていた。
これは単なる不吉な予兆ではない。明日またこの場所に足を踏み入れれば、確実に死が待っているという宣告書そのものだった。
「もう逃げ出したかと思ってたぜ、クソドブネズミが!」
ヴィンのダミ声が鼓膜を苛む。俺は素早く視線を走らせ、廃屋の周囲を探った。心臓が跳ねる。シャングリさんの姿がどこにも見当たらない。
「シャングリさんはどこだ!?」
「心配すんなや」
パチンッ!
「無事だからよぉ」
ヴィンがゴツゴツした指を鳴らす。絶対的な合図に応じ、即座に動く者がいた。
シロアリに喰い荒らされたボロボロの引き戸の奥から、三人の部下が姿を現した。俺は咄嗟に拳を握りしめる。太い麻縄で両手を荒々しく縛られ、無残な姿となったシャングリさんが引きずり出されてきたのだ。
右目は青黒く腫れ上がり、呼吸は途切れ途切れ。だが幸いにも胸は上下しており、まだ息があることを示していた。一瞬の安堵。しかしそれはすぐに、脳頭頂部まで煮えたぎる激怒へと取って代わられた。
「見ろや! てめぇのたった一つのミスのおかげで、この様だぜ!」
(このクソ野郎……人の堪忍袋の緒を切りやがって)
ただじゃ済まさない。派手なお返しをしてやらなければ。だが、どうやって?
周囲を見回すが、絶望的だった。刃物も武器になりそうなものも落ちていない。あるのは、胃液が逆流しそうな悪臭を放つ生ゴミの山だけだ。
(待てよ。……生ゴミの山?)
現代知識を備えた俺の脳細胞が高速回転を始める。密閉された湿潤な環境で腐敗する有機物の山……それは完璧な天然リアクターだ。あの下には高濃度のメタンガスが溜まっているはず!
俺の視線は、ヴィンのすぐ後ろにある生ゴミの山に固定された。盛り上がりが不自然に膨らんでいる。さらに、ポケットの中に残っている硫黄の粉末……これらを合わせれば、殺傷能力十分の爆薬になる!
「あぁ……アンタの言う通りかもしれないな。俺の軽率な行動のせいで、シャングリさんがこんな目に……」
降伏したように声を落としながら、俺はつま先で地面に落ちていた手頃な大きさの枯れ枝をそっと引き寄せた。太さは完璧だ。体を遮蔽にして悟られないよう注意しながらゆっくりとそれを拾い上げ、ポケットの中の硫黄粉末を先端にこすりつける。
簡易松明の完成だ。
あとは火種さえあればいい。
この距離からガスの渦中に直接火をつけるのは無理だ。巻き込まれて俺まで黒こげになってしまう。ここで着火し、あそこへ投げつけるしかない。
俺がかがんで表面の荒い石ころと錆びた金属片を拾い上げると、ヴィンとその部下どもが疑わしげに目を細めた。俺にかけられた嘘の『魔法使い』というハッタリのせいで、何か怪しい魔法陣でも描くか、呪いの儀式でも始めると思っているのだろう。
躊躇している暇はない。路地へ逃げ込めるギリギリの間合いを保ちつつ、左手に簡易松明を構え、石と金属片を硫黄を塗った先端のすぐ近くで激しく打ち擦り合わせる!
一打。火花は散らない。
ごろつきどもは「石遊びかよ」と鼻で笑い始めた。
だが、二打目で黄色い小さな火花が弾けた瞬間、奴らの笑い声がピタリと止まった。ヴィンの顔が引きつる。ハッタリの魔法使いの皮が剥がれ、俺が物理的に『火を起こそうとしている』ことに気づいたのだ。
「てめぇら! あのガキを今すぐ捕まえろぉぉっ!」
ヴィンが怒号を上げ、二人の部下が狂犬のごとく俺目掛けて突進してくる!
(くそっ! 早くつけよ……!)
三打、四打、五打。大粒の冷や汗が額を伝う。迫り来る凶漢への焦りから手元が狂いかける。奴らとの距離は、もう目と鼻の先だ!
息が詰まりそうになったその瞬間、科学の奇跡は裏切らなかった。
渾身の力で擦り合わせた一打。大きな火花が跳び、硫黄の粉末に着火する。青白い炎が、枝の先端で勢いよく燃え上がった!
一秒の躊躇もなく、男の汚い手が俺の首元に届く寸前で左腕を大きく振りかぶり、簡易松明を解き放つ。
空を切り裂き、放物線を描いて飛んでいく火のついた枝。それはヴィンの背後にある生ゴミの山の中心部へと真っ直ぐ突き刺さった。
——ドッカァァァンッ!!
高濃度のメタンガスと炎が激突する。鼓膜を割らんばかりの爆風と熱波が周囲の体を吹き飛ばし、悪臭を放つゴミの雨が空高く舞い散った。




