第82話悪臭の中の甘い香り
「私が払っておくわ」
女は、すっと俺の左側に滑り込んできた。その瞬間、柔らかく甘い香りが鼻腔をくすぐり、周囲のゴミ山が放つ悪臭を一瞬にしてかき消してくれた。しなやかな指先に紙幣を挟んだ彼女は、俺の買い物の支払いを勝手に代わってしまったのだ。
「キュイクおじさん、いくらだったかしら?」
灰売りの爺さんは、突如として満面の笑みを浮かべた。
俺は反射的に、隣に立つその姿を観察した。驚くのも無理はない。透き通るような白い肌、艶やかに流れる黒髪、そして一切の汚れがない仕立ての良い衣服。このスラム街とはあまりにもかけ離れた、異質すぎる存在感だ。案の定、その美貌は闇市場にたむろするすべての男たちの視線を釘付けにしていた。
「おおっ! プリリー・プリシラ様、おかえりなさいませ!」
「ええ、温かい歓迎をありがとう、キュイクおじさん。それで、この彼が買う灰はいくら?」
「プリリー様のお連れ様でしたら、もちろん無料で差し上げますよ!」
(ちょっと待て!)
頭がクラクラしてきた。この女、一体何者だ? なんであのケチそうな爺さんが、百八十度態度を変えてペコペコしてるんだ?
状況はさらにカオスな方向へ転がっていく。
ものの数秒で、凶悪なツラをした他の商人やならず者たちが、俺たちの背後に群がり始めたのだ。俺の背筋を凍らせたのは、奴らが口々に安っぽい口説き文句を叫び始めたことだ。
「プリリー様、俺の嫁になってくれ!」だの、「プリリー様、特別なプレゼントを用意したぜ……それはこの俺さ!」だの、吐き気がするほど使い古された、寒すぎるセリフのオンパレードだった。
「ごめんなさい、みんな! せっかくのお誘いだけど……私、もう婚約者がいるの」
その瞬間、背後の集団から殺気立ったざわめきがどっと湧き上がった。彼女の断り文句が、野郎どもの強烈な不満の波を引き起こしたのだ。
「誰だ!?」
「プリリー様の婚約者って、どこのどいつだ!」
「俺の女神を奪いやがったクソ野郎、絶対ぶっ殺してやる!」
だが、奴らが息巻いていた時間はそう長くは続かなかった。その荒れ狂う混乱に対して、隣の彼女が決定的な一撃を放ったからだ。
「私の婚約者は、この人よ!」
彼女の唇に、可愛らしい笑みが浮かぶ。
何の合図も悪びれる様子もなく、彼女はごく自然な動作で俺の腕に両腕を絡ませ、抱きついてきた。上質な服の柔らかい感触が腕に伝わり、俺は危うく呼吸を忘れそうになった。
反射的に、俺の口からは間抜けな声が漏れていた。
「えっ……俺!?」
隠しきれなかったその動揺は、致命的だった。
プリリーの言葉と俺の間の抜けた反応のズレを察知し、十数人の男たちの眼光が鋭く光る。奴らの顔がみるみるうちに凶悪なものへと変わり、もしこれが冗談なら今すぐ俺を八つ裂きにしかねないほどの威圧感を放ち始めた。
俺の軽率な失言が招いた危機を察し、プリリーは即座に嘘を上塗りした。
「あ、ごめんなさい! 私の婚約者、ちょっとボケてるから……大目に見てあげてね、ふふっ!」
(……頼むぜ、おい)
今はもう、彼女のクレイジーな脚本に大人しく従うしかない。それに、中和剤の灰をタダで手に入れてくれた恩もある。ここから生きて帰るためには、彼女の判断に乗るのが絶対条件だった。
色ボケ野郎どもが渋々散開し、それぞれの店へと戻っていく中、まだ微かに不満げな唸り声が聞こえていた。
一方の俺はといえば、一体どんな嵐が通り過ぎたのか、そしてなぜこの女がわざわざ俺を盾にしたのかを理解しようと、未だにその場で硬直していた。
「プリリー様、ご注文のお品はご用意できております。婚約者様を『お連れ様』などと呼んでしまい、大変失礼いたしました」
「いいのよ、気にしてないわ。婚約者だって、ある意味ではパートナーという名の友達みたいなものだもの」
「おお、左様でございますな、プリリー様。そのような事を取り違えるとは、私もなんと愚かな……」
キュイクは顔を綻ばせ、満面の笑みを浮かべた。その輝くような目を見れば分かる。この爺さんは今、彼女のような――ナイバホの姫君か、あるいはそれに匹敵する重要人物――と気さくに言葉を交わせていることに、狂喜乱舞するほどの誇りを感じているのだ。
やがて満足したのか、プリリーと名乗ったその女性はくるりと背を向けた。彼女は躊躇なく俺の手を引き、その場から歩き出す。
「それじゃあ、私たちはこれで。またね、キュイクおじさん……商売繁盛を祈ってるわ!」
プリリーのペースに引きずられるようにして、俺は半ば足をもつれさせながら歩いた。彼女が俺をどこへ連れていくつもりなのか、皆目見当もつかない。
市場から遠ざかる道すがら、俺は空いている方の手でこっそり灰の袋を探り、硫黄の酸で焼かれるように痛む肌へと急いで擦り込んだ。チリチリとした激痛がゆっくりと引き、後には安堵をもたらすひんやりとした感覚だけが残った。
だが、身体的な安堵とは裏腹に、俺の頭の中は焦りでいっぱいだった。
元の場所では、シャングリーを一人残して、ヴィンとあの疥癬持ちのチンピラどもの相手をさせているのだ。俺が逃げ出してからまだ一分ちょっとしか経っていないだろうが、心臓はずっと不安でバクバクと鳴り続けている。最大の問題は、俺を救ってくれたこの女性に対し、どうやって角が立たないように別れを切り出せばいいのか分からないことだった。
言葉を飲み込み続け、沈黙に身を委ねていた。
そして市場の喧騒が完全に聞こえなくなったちょうどその時、プリリーの声が静寂を破った。
「私の事情に巻き込んじゃってごめんなさいね。正直言うと、ここをお忍びで視察するたびに、あのゴロツキたちの下品なちょっかいが不快でたまらなかったの」
「あなたも見た通り、この村は圧倒的に男が多いわ。母の話によれば、ナイバホは昔、男専用の流刑地……監獄として使われていたそうよ。でも、囚人の数が増えすぎて……お偉いさんや役人たちも手を付けられなくなってしまった。結果として、今みたいな『この世の地獄』が出来上がったというわけ」
(この世の地獄? 男の監獄だと?)
あまりにも突飛な情報に、俺の脳は処理を追いつかせようとフル回転した。
頭の中で交錯する様々な推測を一旦横に置き、俺はこの村の住人から直接情報を引き出すことにした。
「でも、ナイバホって商業が盛んで豊かだって有名じゃないのか?」
「ええ、その通りよ。でも、今の質問の答えとは少し違うわね。ここはナイバホの『第三セクター』であって、商業の中心地ではないの。部外者はこの薄汚い表面しか知らなくて、奥深くまでは見ようとしないわ」
「奥深くって……どういう意味だ?」
「この村に入ってすぐの場所は、確かにただのスラム街よ。でも……この闇市場を抜けてずっと奥まで進めば、ナイバホ村の『楽園』が見えてくるわ」
なるほど、そういうことか。
ウェインがわざわざ俺たちをここに遣わし、収穫物を売らせようとした理由が腑に落ちた。あの人は、この地域の構造と歴史を隅々まで把握していたに違いない。
「そういえば……あなた、ここへは何の目的で来たの? どう見てもこの辺りの人間じゃないわよね」
お約束の質問だ。だがこの状況を考えれば、少しばかり正直に答えても損はないだろう。
「ああ、確かに俺はよそ者だ。村の収穫物を売りに来るように頼まれてね」
「あなたみたいな新顔が、一人でこんな場所に来るなんてあり得ないわね」
正直、プライドを少し逆撫でされる発言だった。もし手についた硫黄が、彼女からタダでもらった灰のおかげで中和されていなかったら、間違いなく強烈な皮肉で言い返していただろう。
「まあな。連れと一緒だ。もし一人だったら……今頃完全に迷子になってたかもしれない」
「そうなのね! あなたの貴重な時間を邪魔しちゃってごめんなさい……」
「いや……気にしてないよ。あんたが助けてくれたおかげで、手の方もだいぶマシになったからな」
俺たちの足並みは、交差点に近づくにつれて自然と揃っていった。
だが唐突に、プリリーの身体がピタリと硬直した。彼女の靴のつま先が、薄暗い光を反射する濁った水たまりの直前で止まっている。俺の腕を掴んでいた力が、ゆっくりと緩んでいく。彼女はずっとうつむいたままその水たまりを見つめ、胸の内に秘めたものを吐き出すべきか、死ぬほど迷っているようだった。
「どうしたんだ?」
やがて彼女がこちらを振り向いた時、その瞳は微かに揺れ動いていた。先ほどまでとは打って変わって、ひどく思い詰めたような声で彼女は答えた。
「私……怖い!」
その表情は、到底芝居には見えなかった。微かに寄せられた眉間に明らかな絶望が浮かんでおり、俺の好奇心を一気に跳ね上げた。
「怖いって……何が?」
「お父様が……怖いの。父は、私に早く結婚しろってずっと強要してきてる。もし私がすぐに自分で相手を見つけなければ、父が決めた相手と無理やり結婚させられてしまうわ」




