第78話ゲームのリスタートから人生のリスタートへ
順調か、だって? そんなわけがない。
日を追うごとに、俺の肩にのしかかる人生の重圧は増していくばかりだ。ボロ小屋での生活のやり繰りだけじゃない。村の問題が次から次へと舞い込んできては、俺に解決策を求めてくる。
この見知らぬ世界に漂着してから、すでに二年が経過した。
最初は右も左も分からない異世界で、一日たりとも生き延びられる気がしなかった。だが皮肉なことに、ここでの俺の人生は、元の世界にいた頃よりもずっと上手くいっている。
クトリと夫婦になってから一年半。俺たちの間には、それはもう可愛くて綺麗な娘が生まれた。顔立ちは、本当に母親そっくりだ。
とまあ……現状をざっと説明すると、こんな感じである。
◇◇◇
土の道を、荷車の車輪がギシギシと鈍い音を立てて進む。
俺とシャングリーは今、村で収穫された小麦と米を売るため、ナイバホ村へと向かっているところだった。ウェインによれば、今回の収穫は極めて価値が高いらしい。なんでも、粒の質が例年を遥かに上回っているのだとか。
「なあ、タカヒロ。もしお前が元の世界に帰れるとしたら、何がしたい?」
沈黙を破ったのはシャングリーだった。
「そりゃもちろん、ゲームして、漫画読んで、あとは便利な最新機器をいじり倒すね」
「うわー……いいなあ! 羨ましいぜ」
「そうでもないさ。どんなに技術が発達して便利な道具があったって、結局は同じ。退屈なもんさ」
「本当か?」
「ああ。もし選べるなら、俺は昔ながらのオモチャで遊ぶ方がマシだな。単純だけど、思い出の価値は何物にも代えがたいからな」
再び二人の間に沈黙が下りた。
豊かな森の奥で交差する野鳥たちのさえずりと、葉が擦れる音だけが響く。ススキの穂先から朝露がゆっくりと滴り落ちて柔らかい土を濡らし、俺たちの靴を泥で汚していった。
「目的地まであとどのくらいだ?」
「たぶん、十五分……いや、一時間後には着くかもな」
「マジかよ!?」
「ああ。だって……さっきから俺たちの歩くスピード、かなり遅いからな」
黒髪の男の冗談混じりの言葉に、俺は思わず荷車の持ち手から手を離した。荷車の前部がズシンと重い音を立てて地面に叩きつけられる。
俺は振り返り、後方に視線を投げた。
シャングリーの言う通りだった。俺たちの村の屋根が、まだはっきりと見えている。正門から這うように進んで、せいぜい三十メートルといったところだろうか。
「もう限界だ!」
息が上がり、胸が苦しい。重労働に慣れていない身体は限界を迎え、汚れた土の上に崩れ落ちるように膝をついた。そんな子どものような俺の愚痴を見て、目の前のシャングリーはクスクスと笑っている。
「いいさ。もうきついんなら、俺が代わりに引いてやるよ」
シャングリーが木の持ち手を握りしめると、車軸が激しく軋む音を立てた。
六十五キロもの重さを、彼は誰の助けも借りず、いとも簡単に持ち上げてみせた。
不意に感嘆の念が湧き上がり、村にいるもう一人の、規格外の筋力を持った男の姿が脳裏をよぎる。
「イーターを連れてきていれば、こんなに苦労しなかったかもしれないな」
俺は無理やり立ち上がるとシャングリーの後を追い、少しでも負担を減らそうと荷車の後ろを押した。
「ああ……イーターか! あいつが一緒だったら、楽になるどころか逆効果だったと思うぜ」
「どういう意味だよ、シャングリーさん?」
「イーターの性格や態度は、お前もよく知ってるだろ。あいつがついて来たら、俺たち、大トラブルに巻き込まれちまうよ!」
恐ろしい光景が突如として脳内を駆け巡り、シャングリーの懸念を裏付けた。
あの狂暴な大男がナイバホ村の市場を荒らし回り、地元の爺さんに喧嘩を売り、悪びれもせずに村の女たちをからかう姿が、ありありと目に浮かんだ。
「どうだ? あいつが一緒だとどれだけヤバいか、容易に想像できただろ?」
「ああ。次からは、行動する前によく考えることにするよ」
「ははっ! そこまで深刻になる必要はないさ。でも……確かに今のお前の意見には同意するよ。ははは!」
「シャングリーさん……あんた、言うことがコロコロ変わるな!」
「悪い、悪い! 今のつまんねぇ冗談は忘れてくれ。聞き流してくれよ」
不思議なことに、身体を蝕んでいた疲労感はゆっくりと薄れていった。
シャングリーとの他愛のない会話と彼の温かい気遣いが、この過酷な道中をいつの間にか短いものにしてくれたのだ。
気がつけば、目的地の影がうっすらと視界に入り始めていた。
「そうだ、タカヒロ。一つ聞き忘れてたことがあったんだ」
「なんだ? 言ってみろよ」
「お前の噂は色々聞いてるぜ。どんな無理難題でも解決しちまう、天才なんだってな」
「はあ? 誰から聞いたんだ、そんなこと」
「レオさ。あいつが全部教えてくれたんだ」
(あのレオの馬鹿野郎、デタラメを吹き込みやがって……!)
俺がすべての問題を解決できるなんて、一体いつからの話だ? 俺が天才? 冗談じゃない。
俺は運悪くこの世界に放り出されただけの、ただの一般人だ。学校で学んだ知識を応用して、村の人たちの役に立とうとしているだけなのに。
「ってことは、シャングリーさんも相当なバカだな」
冷ややかな響きを持った棘のある言葉が、思わず口を突いて出た。
シャングリーの足がピタリと止まる。横顔から、彼の口元が引きつったような不自然な笑みを浮かべたのが見えた。
「ああ、お前の言う通りだよ。俺は本当にバカだからな、その証拠に――」
彼の言葉の矛先が変な方向へ向かい始めているのに気づき、空気がさらに悪くなる前に、俺は慌てて遮った。
「そういう意味で言ったんじゃない。俺が言いたいのは……レオの作り話を鵜呑みにするなんてバカだなってことだ。
確かに小麦畑の件は俺がなんとかした。でも、あれはただの偶然だ。俺は、あんたや他の皆が思ってるような天才なんかじゃない。俺も皆と同じさ。問題が起きればオロオロするだけの、無力でちっぽけな人間なんだ。
だから頼む……もう俺を天才扱いするのはやめてくれ!」
シャングリーは押し黙った。
横目でちらりと俺を見た彼の目には、どう解釈していいのか分からない、奇妙な感嘆の光が隠されていた。
「で、結局何が聞きたかったんだよ?」
「いや、もういい。大して重要なことじゃないからな」
再び足音だけが沈黙に吸い込まれていく。
規則的な歩みの中で、俺の思考は二つに引き裂かれていた。
心の半分は未だ元の世界に囚われ、俺を産み育ててくれた母親の姿を恋しく思っている。しかしもう半分は、現実の問題――ウェインから貰った家畜のことで頭がいっぱいだった。
二羽の鶏と二頭のヤギを、一体どうやって世話すればいいんだ?
ヤギや鶏はおろか、インコ一羽の世話すらまともにやったことがないっていうのに!
「ああ、そうだ! この村の重要なルールを教えるのを忘れてた」
シャングリーの声に、俺は強制的に現実に引き戻された。
「向こうに着いて、もし何か怪しいことを見かけても、絶対に軽率な行動はするなよ!」
「なんでだよ?」
「ナイバホはかなり荒っぽい連中が多いんだ! 自分たちの邪魔をする奴には、容赦なく拳を飛ばしてくるぞ」
「マジかよ!?」
「ああ、俺もこの目で見たことがあるんだ! 息の根が止まるまで、ボコボコに殴り殺すのを……」
シャングリーの言葉が宙に浮く。
俺がさらに問い詰めるより早く、遠くから聞こえてきた喧噪がすぐにその答えを提示した。
荒々しい値切りの怒声と、荷車の車輪が乱暴に擦れる音が鼓膜を打つ。
ナイバホ村の境界線は、すでに目の前まで迫っていた。
「気ィ引き締めろよ」
シャングリーは声を潜め、警戒しろと鋭い視線で合図を送ってきた。




