第76章:白き塵、命を懸けた大博打
「石灰の……大爆発だァッ!!」
ズバァァァンッ!
宙を舞う巨大な袋の先端が激しく弾けた。吐き出された消石灰の嵐が白い霧となって猛スピードで飛散し、未だ手つかずの麦畑へと均等に降り注いでいく。
上空で白き死神のような粉塵が舞い散る中、眼下の地上ではスシオが時間との戦いを繰り広げていた。一児の父である彼は渾身の力を振り絞り、巨大な袋を引きずっている。それは、タカヒロの絶対的な指示のもとで作られた、枯れ葉を詰め込んだ即席のクッションだった。
スシオの眼光が鋭くなる。イーターの落下地点を測り、位置が完璧だと確信するや否や、彼は袋から手を離して脱兎のごとく駆け出した。間もなく訪れる激突の衝撃から逃れるためだ。
一方、ウェインたち見物人の間には、息が詰まるほどの緊張感が漂っていた。全員の視線が上空に釘付けになり、巨体のイーターが落下してくる様を固唾を呑んで見守っている。重圧に耐えきれなくなったゲビスが、息苦しい沈黙を破った。
「イーターの奴、無事に着地できるとは思えないんだが……」
ウェインがすかさずゲビスを鋭く睨みつける。その表情は、悲観的な言葉を強烈に拒絶していた。
「言葉は祈りとなる。そんな縁起でもないことを言うんじゃない」
だが予想外なことに、この狂気じみた作戦の首謀者であるタカヒロが、刺すような平坦な声で口を挟んだ。
「今回ばかりはゲビスに同意するね」
瞬間、周囲の空気が凍りついた。全員が一斉にタカヒロへと顔を向ける。
「どういう意味だ?」
ウェインがたまらず問い詰めた。
「見なよ」
タカヒロは畑の中央に置かれた巨大な袋を指差した。
「あの袋の中身は、空気と大量の枯れ葉だけだ。イーターが着地した瞬間、十中八九、尾てい骨をやられるだろうね」
「あいつの命に関わる危険だと分かっていて、なぜそんなことをさせたんだ!」
「俺が強制したわけじゃない。あいつ自身がやらせてくれと頼んできたんだ」
ウェインは言葉を失った。タカヒロの鋭い正論に反論できず、奥歯を強く噛み締める。村長である彼は、イーターの性格を誰よりも熟知していた。あの巨漢の青年は、後先考えずに行動する重度のアドレナリン中毒者だ。無謀だが、常に全てを懸けて挑む男なのだ。
「ウェイン様……私たちはどうすれば?」
背後からアロワが不安げに囁いた。
「君たちがすべきことは何もないよ」
微かな囁きを耳ざとく拾ったタカヒロが、即座に言い放つ。
「下手に手を出して何が起きても、俺は責任を取らないからな!」
ゴォォォォッ!
イーターの耳元で強風が猛り狂う。袋の中身が空になるや否や、彼はその空き袋を適当な方向へ投げ捨てた。眼光を鋭く下方へ向ける。そこには、着地目標である手製のクッションが待ち構えていた。
『いいか! 着地の直前で必ず体勢を整えろ。袋に激突する時、絶対に足場を間違えるなよ。命が惜しければ、正しい着地機動を取れ』
風の轟音と共に、タカヒロの冷徹な警告がふと脳裏をよぎる。
「うるせェよ、クソガキが!」
イーターは脳内の声に悪態をつき、不敵な笑みを浮かべた。
だが、彼の肉体は本能に従って動いていた。迫り来る地面。全身の筋肉が張り詰め、衝撃に備える。両膝を僅かに曲げ、顎を胸にぴったりと押し付け、片方の肩を前方へ傾けた。その姿はまるで、大地を穿つ砲弾のようだった。
彼のサンダルの爪先が、スシオの手作りクッションの表面に激突した瞬間……!
ドグゥッ!! バァァァンッ!!
タカヒロの計算通り、袋は瞬時に破裂した。内部の空気が爆発的に押し出され、粉砕された枯れ葉が四方八方へと散乱する。
しかし、イーターは垂直落下による尾てい骨の粉砕を免れるべく、残った勢いに乗った。致死的な落下のエネルギーを、遠心力による回転へと変換したのだ。右肩から地面に転がり込み、巨体を猛スピードで滑らせながら、背中越しに斜め前方へと前転していく。
土煙と枯れ葉の破片が荒々しく舞い上がる。硬い村の地面を二度転がった彼の姿は、分厚い粉塵のベールに包み込まれた。
ザザァァッ……!
「イーター!」
「イーターさん!」
村人たちの心臓が止まりかけた。誰もが葉の残骸と化したクッションの跡地へと駆け寄る。顔には明らかなパニックが浮かんでおり、村の巨漢の安否を己の目で確かめずにはいられなかった。
風がゆっくりと土煙を晴らしていく。その粉塵のカーテンの向こう側から、巨大なシルエットがゆっくりと立ち上がった。
「イーターさん、無事ですか!?」
「どこか怪我は!?」
過剰とも言える心配の声の嵐を受け、イーターは肩や胸に付いた枯れ葉を鬱陶しそうに払い落とした。そして、顔面蒼白になっている二人の青年の間を割り込むように進み、タカヒロに向かって真っ直ぐに歩き出す。
「スシオ、あとは全部片付けとけ!」
遠くから、スシオが一切の疑問を差し挟むことなく力強く応じる。
「はいよっ!」
相変わらずの傲慢な歩き方を見せつけるイーターを見て、タカヒロの口角が満足げに吊り上がる。あの鋼の筋肉を持つ男は、見事に任務を完遂したのだ。
ゲビスやアロワ、そして他の村人たちは、信じられないという顔で顔を見合わせた。あの巨体はまるで鋼鉄でできているかのように、裂傷も骨折もなく、その特徴的な歩き方すら少しも変わっていなかった。
「俺がやるべき仕事は、まだ他にあるか?」
数歩の距離まで近づいたイーターは、タカヒロを見下ろしながら傲慢に尋ねた。
「強がる暇があるなら、とっとと休めよ」
猿も木から落ちる、というやつだ。タカヒロの鷹のような鋭い眼力は、目の前の男の虚勢に誤魔化されはしなかった。
「あァ!? てめぇ、何言ってやがる!」
「俺を誤魔化せるような馬鹿だと思ってるのか? 自分の頭を見てみろ!」
その鋭い指摘が、ウェインたちの意識を叩き起こした。目を凝らしてよく見れば、イーターの頭頂部の端に、先ほどの激突による赤い打撲痕と、うっすらと乾いた血がこびりついているではないか。
「あー、これか?」
イーターは呑気に頭に触れ、軽く擦った。
「こんなのただの擦り傷だ! 大袈裟に騒ぐんじゃねェよ」
タカヒロはその言い訳を完全に無視した。彼の視線はすでにイーターの肩越しを通り抜け、遠くの霧の海へと注がれている。上空から撒かれた消石灰の粉塵が均一に広がり、空気と混ざり合うことで化学反応を起こし、未分解の有毒な酸を中和し始めていた。
「ああ、そうだな。お前のその馬鹿げた英雄ごっこのおかげで、これで俺たちの任務は完了だ!」
「えっ!? ほ、本当ですか!?」
ケイクが反射的に顔を向け、麦畑の広がりを見つめて目を丸くした。
釣られるように、全員が一斉に顔を向けた。イーターの命懸けの代償がもたらした光景に、全員の視線が吸い込まれる。そこでは、奇跡が起きていた。致命的だった濃黄色の煙がゆっくりと薄れ、消石灰のアルカリ性に呑み込まれるようにして、その毒々しい色を失っていく。
喉を焼き、視界を遮っていたガスの塊が、徐々に薄らいでいく。吹く風に溶け込み、やがて跡形もなく蒸発して消え去った。空気が、再び浄化されたのだ。
「や、やった……! 俺たち、やったぞ!!」
震える声でゲビスが歓喜の声を上げた。その叫びを皮切りに、他の者たちからも安堵の歓声が沸き起こる。これまで彼らの頭上に重くのしかかっていた死の重圧が、ついに消え去ったのだ。
少し離れた静かな場所で、サンドラはその安堵の涙に包まれた小さな祝祭を立ち尽くして見つめていた。奇妙な温もりが彼女の胸にじんわりと広がっていく。都会育ちの彼女にとって、これほどまでに純粋な感情の揺らぎを覚えたのは、生まれて初めてのことだった。
(協力こそが成功の鍵……か)
そんな使い古された陳腐な標語が、今、ヴェリア村の住人たちの汗と血によって刻み込まれ、彼女の目にはこれ以上なくリアルで生きた言葉として映っていた。
彼女の観測任務はこれで終わった。タカヒロから受けた、石灰を中和剤の飲料に加工するという指示も同様だ。
サンドラは視線を下に向ける。ナビルの胸が、今は規則正しく安定したリズムで上下していた。彼は安らかに眠りについている。先ほど彼女がこっそりと右腕に注射した麻酔薬が効いているのだ。
「……そろそろ潮時ね」
彼女は自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。
しゃがんでいた姿勢から立ち上がり、置き土産としてジュマントのボトルをナビルの傍らにそっと置く。そして、まだ歓声に包まれている人だかりの方へ、一瞬だけ視線を向けた。
「タカヒロ……大切なことを一つ教えてくれて、ありがとう」
綿毛のように軽い足取りで、サンドラは後ずさりをする。感動のあまり抱き合っている四人の村の女たちの背中に隠れるようにして身を翻し、暗がりへと姿を消そうとした。
しかし……わずか二歩足を踏み出したところで、背後から冷たく力強い手が彼女の右手首をガッチリと掴んだ。
サンドラの足がピタリと止まる。心臓が大きく跳ねた。
いつの間にか輪の中から姿を消していたクトリが、今、彼女の背後にぴったりと立っていたのだ。
「待って! あなた、どこへ行くつもり?」




