第75章:日暮れとの競争
「急いでこの袋を全部運べ! 日が暮れる前に、この大惨事にケリをつけるぞ!」
「おう!」
三人の若者は一秒の猶予も惜しむように麻袋を担ぎ上げ、薄く立ち込める煙を切り裂きながらサンドラのもとへ走った。その後ろを、タカヒロが大股で追いかける。彼の視線は有毒なガスを鋭く睨みつけ、その唇は目に見えない化学式を高速で弾き出していた。
「もし消石灰を水に溶かした濃度が高すぎれば、結果は Ca(OH)₂ (s) + Ca(OH)₂ (aq)となる……。残留する腐食性が高すぎて、ナビルに飲ませるには危険すぎるな」
その横で、ウェインの歩みがわずかに鈍る。老村長は、自身の脳では到底処理しきれない呪文のような化学用語の羅列を聞かされ、深く眉間を寄せて沈黙するしかなかった。
「となれば……」
タカヒロはサンドラの目の前でピタリと足を止め、呟きを断ち切った。
「サンドラさん、この石灰で飲み薬を作ってくれ。塩基の濃度を正確に調整し、ナビルが安全に飲めるようにCa²⁺イオンと OH⁻イオンだけが残るまで完全に濾過しろ」
「要するに、水が完全に透明になるまで濾過しろってことね?」
「ああ、その通りだ! この作業はお前に任せる。残りの処理は鉱石たちがやる」
タカヒロは即座に踵を返し、最前線へと戻っていった。サンドラも指示を反芻する時間すら惜しみ、頭の中で瞬時に作業手順を組み立てる。だが、麻袋から石灰の粉を掬い出そうとしたその時、彼女の動きが止まった。水を量り、受け止めるための決定的な道具が手元になかったのだ。
「ちょっと……そこに突っ立ってるあんた」
「えっ、私?」ネイビーブルーの髪をした少女が、不思議そうに瞬きをして自分の顔を指差す。
「そう、あんたよ……。バナナの葉っぱとコップが必要なの。探してきてくれない?」
「コップなら、一度家に戻らないと……」
「いいわ、コップがないなら他のものでも構わない。とにかく水が漏れない容器を急いで!」
彼女たちから数歩離れた場所で、ジュマントは身動き一つできずにいた。倒れたナビルを必死に介抱していた彼の耳に、二人の会話が偶然飛び込んできたのだ。
今すぐ立ち上がって道具探しを手伝いたいと心が叫ぶ。だが、ナビルの服の袖をきつく握りしめる右手が、彼をその場に縫い付けていた。膝の上で苦しむ弟の容態は刻一刻と悪化しており、一秒でも目を離せば致命的な結果を招きかねない。自分がひどく無力に思えた。
一方、残りの村人たちは時間との過酷なレースに身を投じていた。タカヒロやウェインたち男衆は畑に立ち込める致死性の蒸気を鎮めるために奔走し、サンドラと女たちは解毒剤の調合へと取り掛かっている。
ジュマントを窒息させんばかりの絶望の中、彼の左手が密かに腰のあたりへと滑り込んだ。その指先が、ある硬い物体をきつく握りしめる――それは彼にとって、これまで何よりも大切にしてきた品だった。
突然、彼の膝に寄りかかっていたナビルが苦しげに身をよじった。虫の息となった青年は、限界を迎えた気力を振り絞って声帯を震わせる。
「あ……にき……行っ……てくれ……。お、俺のことは……気にする……な……」
「ナビル……」
「あ、あの……ボトルのこと……なら……。あ、兄貴が……サンドラさんに……渡しても……俺は……構わねぇ、から……」
「本当に、あれを渡しちまっていいのか?」
「あ、ああ……。ボトルなんて……また作ればいい……。けど、命……は――」
『命』という言葉は、最後まで紡がれなかった。ナビルの喉に煮えたぎる溶岩を流し込まれたかのように、胸を切り裂くような強烈な痒みと痛みが限界を突破したのだ。
「ゴホッ! ガハッ! ゲホォォッ!」
「ナビル!」
「早……く!」
弟の苦痛に満ちた呻き声が、ジュマントの胸にあった最後の躊躇いを粉々に打ち砕いた。たかが物一つ。弟の命に比べれば、そんなものは路傍の石ころと同義だ。
ジュマントは立ち上がった。焦燥とパニックが入り混じった足取りで、地面を蹴りつけるように急ぐ。彼の頭の中では、ただ一つの思いだけが絶叫のように響き渡っていた。
(ナビル……もう少しだけ持ちこたえてくれ! 兄ちゃんが絶対に助けてやる!)
サンドラの背中へと距離を詰めるや否や、ジュマントは声を張り上げていた。
「サンドラさん!」
バナナの葉を裂く作業に没頭していたサンドラが、反射的に振り返る。目の前に立つジュマントの顔は、絶望と決意、そして名状しがたい喪失感が複雑に絡み合い、ひどく思い詰めた表情をしていた。
「どうしたの?」サンドラは体を完全に振り向け、落ち着いた声で尋ねる。
「これを使ってくれ!」
ジュマントは乱暴な手つきで、一つの素焼きのボトルを彼女の前に突き出した。
サンドラの視線が、小刻みに震える彼の手と、そこに握られた年季の入ったボトルへと注がれる。
「ほ、本当にこのボトルを使ってもいいの?」
男の瞳からは、隠しきれない未練が溢れ出ていた。顎の筋肉が強張る。それを手放すことがどれほど身を切るような思いであるか、痛いほど伝わってきた。
「本当は……渡したくない。こいつには、大事な思い出が詰まってるんだ。だが、ナビルがどうしてもって言うから……俺には他に選択肢がない」
「迷いがあるなら、そのボトルはしまっておいた方がいいわ。心配しなくても、アンナたちがきっと――」
サンドラの穏やかな気遣いは、強制的に断ち切られた。ジュマントが一歩踏み出し、サンドラの右腕を掴むと、有無を言わさずその掌にボトルを押し付けたのだ。
「ナビルの命がかかってるんだ! 頼む、これを使ってくれ! あいつを助けてやってくれ! これ以上、苦しむ姿は見たくないんだ!」
サンドラは言葉を失った。押し付けられたボトルと、涙ながらに懇願するジュマントの目を交互に見つめる。数秒間、時間がゆっくりと流れる感覚に陥った後、彼女は深く息を吐き出し、心を決めた。
「……分かったわ! あなたのその覚悟、無駄にはしない」
「本当に……ありがとう!」
サンドラはすぐに振り返り、視線を切った。必要な容器は手に入った。これで消石灰の調合とバナナの葉を使った濾過プロセスを始められる。だがその前に、彼女は迷いのない動作で、ジュマントの素焼きのボトルの首を近くの硬い岩の角に勢いよく叩きつけた。
ガシャンッ!
ボトルの先端が砕け散り、急造の漏斗のような広い口が出来上がった。命を救う石灰の粉末を、一粒たりとも土にこぼさないためには、どうしても必要な措置だった。
「私の後ろで突っ立ってる暇があるなら、早くタカヒロたちの手伝いに行きなさい。少しでも早く作業を終わらせるためにね」
その冷静な指摘が、ジュマントをハッと我に返らせた。畑の方へと目を向ける。有毒ガスの中で決死の覚悟で石灰を撒き散らしているウェインやタカヒロ、そして村人たちのシルエットが、彼の胸に苦味と熱い闘志を同時に呼び起こした。
彼は無言のまま、慎重に白い粉末を掬い始めているサンドラの横を通り抜けた。有毒なエリアへと小走りで向かいながら、その目は鋭く周囲の状況を分析し始めていた。
◇◇◇
時間は泥の中を這うようにゆっくりと流れていった。数分が何時間にも感じられるような焦燥の果てに、ようやく一つの区切りが訪れる。畑の半分が消石灰の白い粉末で完全に覆い尽くされ、酸性の煙の名残だけが空中で空しく身をよじらせていた。
「ウェイン様、俺たちはやり遂げたんでしょうか?」
老村長の傍らに立つゲビスが尋ねた。顔の半分を濡れた布で覆っているため、その声はひどくくぐもっている。
「わしにも分からん……。ただ、我々の努力が実を結ぶことを祈るばかりじゃ」
彼らからわずか三メートルしか離れていない場所で、タカヒロの耳がその不安げな会話を的確に拾い上げた。
「心配する必要はねぇよ」タカヒロは手についた粉をパンパンと払いながら、飄々と言い放つ。「消石灰の塩基性が、ほんの数秒で酸を完全に中和する」
「ほ、本当か!?」ゲビスが目を見開き、食い気味に問い詰める。
「ああ。百億パーセント確実だ……鉱石たちの作戦は失敗しねぇ!」
途端に、ウェインやゲビス、そして周囲の村人たちの顔に深く刻まれていた緊張の糸がふっと緩んだ。布の奥で、安堵の笑みが咲きこぼれる。この天才的な頭脳を持つ少年の口から出た確約は、彼らの命がけの賭けが決して無駄ではなかったという何よりの証明だった。
しかし、その束の間の喜びは長くは続かない。
「まだ喜ぶのは早いぞ! やるべき作業は山ほど残ってる。あれを見ろ!」
タカヒロが腕を振り上げ、いまだ中和剤の手が届いていない、残り半分の広大な畑へと鋭く指を突きつける。
村人たちの熱狂は一瞬にして霧散した。限界まで酷使された筋肉が、悲鳴を上げて抗議を始める。限界を迎えた男たちの列から、鬱憤の溜まった罵声が次々と爆発した。
「クソったれ! こっちはもうヘトヘトなんだよ!」
「あっち側は、イーターとスシオの担当だったはずだろ!? あいつら、どこ行きやがった!」
「そうだ! さっきからあの二人の姿が見えねぇぞ!」
「こんなのやってられっか! このふざけた濡れ布のせいで、もう息が詰まりそうなんだよ!」
その怒濤の不平不満を聞き、タカヒロは逆に鼻で笑った。すぐに音を上げる村人たちの姿が、彼にはくだらない三流の喜劇にしか見えなかったのだ。
「てめぇら、ただの馬鹿ってだけじゃねぇな」
「なんだと!?」三色の髪を持つズイエルが、首に青筋を立てて鋭く噛みつく。
「馬鹿なだけじゃないって言ったんだよ」タカヒロは声を一段と張り上げ、冷酷に言い放つ。「目の前のものすら見えねぇ、正真正銘の節穴だってな!」
「節穴だと!? どういう意味だ!」ゲビスも怒りに火をつけられ、食ってかかる。
「自分で見てみろよ」
タカヒロの指先がゆっくりとスライドする。その先が示しているのは地面ではなく――畑の中央に傲慢なほどそびえ立つ、巨大な木の生い茂る枝葉の頂きだった。
「どうだ? 何が見える?」
「何も見えねぇよ!」ゲビスが苛立ち紛れに吐き捨てる。
疲労困憊の連中の視力とこれ以上言い合っても時間の無駄だと悟り、タカヒロは手っ取り早い手段を選んだ。深く息を吸い込む。
「おい、イーターの野郎……! とっととその石灰を落としやがれ!」
一瞬の静寂。直後、遥か頭上の鬱蒼とした葉の奥から、獣のような野太い声が轟いた。
「ご注文通り!」イーターの叫び声が響き渡る。「今すぐお見舞いしてやるぜ!」
バサァァァッ!!
刹那、イーターの巨体が木々の天蓋を突き破った。致死的な高さからの重力など一切無視し、凶暴な大男が真っ逆さまに落下してくる。彼は空中で手にした石灰の袋を渾身の力で振りかぶり、煮えたぎる麦畑の心臓部へと叩きつけた。袋が引き裂かれ、猛烈な純白の嵐が爆発するように舞い上がった。




