第69章:原子の囁き
女は内心、ひどく渋っていた。
タカヒロのふざけた提案に同行を決めたのは、単に手持ちの食糧が底を突き、この森での生態観察を延期せざるを得なくなったからに過ぎない。その腹いせとばかりに、彼女は自ら先頭に立ち、およそ道とは呼べないような過酷な獣道を切り拓いて進んでいた。
足元の悪さは、確実に一行の体力を削り取っていく。
切り立った斜面を這い上がるたびにふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ、苔むした下り坂では滑らないよう全身が強張る。それに加えて、森の住人たちが容赦なく襲いかかってきた。
頭上から垂れ下がる毒蛇をすんでのところで躱し、突進してくる獰猛なイノシシから逃げ惑い、凶暴な赤アリの群れに噛まれる激痛に耐え、ぬめりを帯びた猛毒カエルを踏み潰しかけて肝を冷やす。
終わりの見えない拷問のような道のりに、小さな一行は何度も足を止め、荒い息を吐き出すしかなかった。
「どうして止まるの?」
「ま、待って……お、れ……もう……限界……」
「はぁ〜っ! 仕方ないわね」
後ろを歩くレオの掠れた悲鳴を聞き、女はついに歩みを止めた。大きくため息を吐き出すと、すでに倒木に背を預けて足を投げ出しているタカヒロとイーターに倣い、彼女もどっかと腰を下ろした。
「ただ石を探すだけなのに、どうして……こんなにキツいんだ……」
レオの胸は激しく上下していた。呼吸は完全に乱れきっている。
極度の疲労に加え、先ほど女から食らった強烈な一撃の痛みが顔面に残っており、まともに肺をコントロールすることすら困難な状態だった。
「こんなの……まだまだ序の口だ」と、タカヒロが応じる。「俺のいた世界じゃ、科学者たちは求める結果のためなら、自らの命すら投げ出していたんだからな」
「あんたの、世界?」
女が眉をひそめる。彼女だけではない。タカヒロの素性をまったく知らないレオとイーターも、一斉に彼の方を振り向いた。その場に、巨大な疑問符が唐突に浮かび上がった。
「石を探すために命を懸けるってことか?」イーターが怪訝な顔で先を促す。
「ああ……だが、この話をすると長くなるし、どうせお前らには理解できないだろうからな」
「あんたって男は、説明を求められるたびにいつもそうやって誤魔化すわね!」
タカヒロが立ち上がり、次の足場へ足を掛けようとしたその時だった。女の苛立ちを含んだ声が、彼の動きをピタリと止めた。タカヒロはその場で一瞬、彫像のように固まる。
「本当に……全部説明してほしいのか?」
「当たり前でしょ!」
その強気な言葉を受け、タカヒロは掛けていた足をゆっくりと下ろした。振り返り、歩み寄り、元の場所へと戻ってくる。
その眼差しはひどく冷ややかで、目の前の三人の顔を順番にねめつけた。彼は無言のまましゃがみ込み、地面から拳大のありふれた石ころを一つ拾い上げた。
「お前たちには、これがただの石ころにしか見えないだろう」
タカヒロが口を開く。その声のトーンは、ひどく低く、重みを帯びていた。
「俺のいた世界ではな、どんなに硬い物質であっても、その大部分は『虚無の空間』だと解明されている。無数の微小な粒子が互いに結びついて構成されているんだ。俺たちはそれを『原子』と呼んでいる」
「げ、げんし!?」レオが額に深いシワを刻んで反芻する。
「俺の世界には、特定の性質を持った石が存在する。その石は原子の核が極めて不安定でな、常に崩壊を続けているんだ。そしてその崩壊の過程で、目に見えないエネルギーを放出し続ける。俺たちはそれを『電離放射線』と呼ぶ」
イーターと女は、思わず顔を見合わせた。互いの表情から少しでも理解の糸口を掴もうとしたが、無駄だった。未知すぎる単語の羅列に、彼らの頭の中は完全にショートしていた。
「この放射線は、電磁波や亜原子粒子の形態をとって空間を飛び交う」
困惑する彼らを置いてきぼりにしたまま、タカヒロは容赦なく言葉を続ける。
「想像してみろ。光に迫る速度で放たれた『見えない銃弾』が、お前たちが気づかないうちに、その身体を容赦なく貫いていく様を」
「ちょ、ちょっと待って! 石から放たれる光の弾? あんたの世界の科学者ってやつは、魔法を使うっていうの!?」
パニックに陥りかけた女が、声を上擦らせて口を挟む。
「違うっつってんだろ、馬鹿がッ!」
タカヒロの荒々しい怒声が響き、女の言葉を容赦なく叩き斬った。
「こいつは純粋な『物理学』だ。俺の世界の科学者どもは、ただこの放射性物質って呼ばれる石を研究するためだけに命を散らしたんだよ」
タカヒロは込み上げる熱を隠そうともせず、ドスの効いた声で畳み掛ける。
「そいつの原子核を意図的に分裂させる……俺たちはそれを『核分裂』と呼ぶんだが、その過程で、質量のごく一部が消滅し、致死的なエネルギーへと変貌する。
いいか? そのエネルギーは、てめぇらの皮膚を外側から焼き焦がすような生温いもんじゃねぇ。アルファ線、ベータ線、ガンマ線って呼ばれる粒子が石から放たれ、てめぇらの肉体を透過する。その瞬間、身体を構成する最も根源的な構造である『DNA』ってやつを完膚なきまでに破壊するんだよ。染色体の鎖を断ち切り、生命の根源である生物学的な暗号の根っこから、てめぇらを生かしている細胞そのものを直接殺しにかかるんだ」
突如として、息苦しいほどの静寂が森を支配した。
虫の音も、風のざわめきすらも、強制的にミュートされたかのようだ。それは純粋な恐怖からではない。タカヒロの口から機関銃のように放たれたおぞましい語彙の数々に、三人の脳が完全にキャパシティを超え、処理落ちを起こしたからだった。
「傷口を直接見ることはできない」
タカヒロの声がすっと落ちる。だがそれが逆に、背筋を這い上がるような悍ましさを際立たせていた。
「今はまだ、何ともないように感じるかもしれない。だが数週間後、原因も分からず全身の皮膚がただれ落ちる。細胞が分裂できなくなり、内臓はドロドロに溶け出し、免疫系は跡形もなく崩壊する。てめぇらは生きたまま腐っていくんだ。神級の回復魔法だろうが絶対に治せない、地獄のような苦痛を味わいながらな」
タカヒロは自ら作り出した張り詰めた空気を気にも留めず、手の中の石を弄るようにクルクルと回すと、そのまま茂みへと無造作に放り投げた。
「俺の世界に、この原子核の実験をした科学者がいた。実験中、防護用の殻が滑り落ちて、核分裂の連鎖反応が始まっちまったんだ。そいつは逃げて自分の命を助ける代わりに、同じ部屋にいた仲間を生き延びさせるため、素手でその高熱の金属殻をこじ開けた。数百万もの中性子線を、その身に直接浴びながらな。結果、奴の身体は内側からボロボロに崩壊し、たった一つの『石ころ』のために、一週間かけてゆっくりと死んでいった」
女は木彫りの人形のように硬直していた。半開きの唇からは、ただの一音すら紡ぎ出されない。
その横で、レオが自分の頭を両手で抱え込んでいた。今聞いたあまりにも恐ろしい話のせいか、彼のこめかみが嫌なリズムでズキズキと脈打っていた。
「そ、それじゃあ……俺たちが今探してる石も、あんたが話したのと同じくらいヤバい代物ってことかよ……ッ!」
その時、タカヒロはすでにきびすを返し、片足を一段高い足場へと掛けていた。レオの口から絞り出された絶望の言葉を聞き、彼は首だけを回して、流し目で眼下を見下ろした。
「ああ」
短く肯定した彼の口角が、意地悪く三日月型に吊り上がる。
「俺たちが探してる石は、最高に危険だ。……今話したのなんか比じゃないくらいにな!」
その言葉に、身体が勝手に動いた。
後ろにいた三人は、タカヒロの凶悪な笑みに当てられ、無意識のうちに揃って一歩後ずさっていた。それほどまでに、彼の笑みから放たれる威圧感は本物だった。
「お、俺は行かねえぞ! お、俺は……ッ!」
「もし付いて来ないって言うなら、あのライオンさんがそろそろ目を覚ます頃かもな」
タカヒロはレオの泣き言をあっさりと切り捨てた。
「だが、無理について来いとは言わねえよ。帰りたきゃ、好きにしろ。きっとライオン様が首を長くしてお待ちかねだぜ!」
なだめる時間すら惜しいとばかりに、タカヒロはプイッと顔を背けた。そのまま茂みをかき分けて登り始め、残された仲間たちを意図的に馬鹿げたジレンマの中へと放置した。
タカヒロの背中が数メートル遠ざかり始めたのを見て、残された三人の心にじわじわとパニックが忍び寄る。
眼下に取り残されたイーターと女は、再び顔を見合わせた。
(……ここで引き返しても、犬死にするだけだ)
二人は硬い動きで頷き合うと、ゴクリと唾を飲み込み、狂気に満ちた青年の後を慌てて追いかけるしかなかった。
「お前ら……」
「臆病風に吹かれるのはやめろ、レオ!」
イーターが大股で歩みを進めたまま、ピシャリと言い放つ。
「あの男が言った通りだ。今ここを引き返せば、俺たちはあのライオンの極上のディナーになっちまうんだぞ!」




