第68章:策士の取引
グルルルルァァァッ!!
枝の折れる音が、死の鐘の音となった。
一秒の猶予もなく、巨大な獅子は巨体を翻し、狂暴な勢いでタカヒロへ一直線に突進してきた。
「くそっ!!」
タカヒロは視線を乱草させ、死を退けるための何かを死に物狂いで探す。無を掴む。視界に映ったのは、指ほどの脆い小枝と、無力に蠢くミミズだけだった。
血に染まった牙を剥き出しにした巨大な顎が、眼前に迫る。全身が完全に凍りついた。足が大地に縫い付けられたように、すべての関節がロックされる。絶望が這い上がり、(……ここまでか)と、迫り来る死の運命を受け入れるように、ただゴクリと唾を飲み込んだ。
だが、捕食者の荒い息遣いが顔を撫でようとしたその刹那、背後から巨大な影が躍り出た。
いつ背中のカゴを下ろしたのか、イーターが前線に躍り出ていた。首の太い血管を隆起させ、筋肉質な大男は空のカゴを獅子の顔面へ強烈に振り下ろしながら、雄叫びを上げた。
「うおおおおおおおおっ!!!」
パンッ……!
鋭い破裂音が空気を裂き、イーターの雄叫びを遮った。不可視の凶弾が放たれ、百獣の王の腹部に正確に突き刺さる。その衝撃は瞬時に捕食者の意識を刈り取った。宙で勢いを失った猛獣は、重い音を立てて乾いた地面に叩きつけられ、完全に沈黙した。
一瞬の静寂。右側の茂みが不自然に揺れる。全身を奇妙な服……落ち葉と枝を重ねたような迷彩服……に包んだ女が、状況を呑み込めず硬直するタカヒロたちに近づいてきた。
「おーい、君たち大丈夫だったー?」
返答はゼロ。口を開く者はいない。男たちの三対の瞳は、その女のあまりにも異様な姿に釘付けになっていた。
「な、なに? な、なんでそんなジロジロ見るのさ? わ、私、なんか変?」
安堵を噛みしめる間もなく、先ほどまで地面でガタガタ震えていたレオが唐突に動いた。この臆病な男は、火をつけられたミミズのような恐ろしい速度で這い進み、女の右ふくらはぎに全力で飛びついた。泣きじゃくりながら顔を押し付ける。
「おお、我が救済の女神よ! この死の淵から命を救っていただき、本当に、本当にありがとうございますぅぅっ!」
女の顔に、嫌悪とパニックが入り混じる。不測の事態に怯え、無理やり足を引っこ抜こうともがく。だが、レオの執着は飢えたヒルのように強烈だった。
「は、離してっ! そ、そこ触ったら、だめ……っ」
遅かった。レオのヤケクソな引っ張りは、致命的な結果を招いた。元々脱げやすい構造だったらしいズボンがあっけなく敗北し、乾いた地面へとズルッとずり落ちたのだ。
「あ、あれ!?」
レオは見上げ、間抜けに瞬きをした。悲しみも感謝も跡形もなく蒸発し、完全なる混乱だけが残る。それは、先ほどの獅子の顎よりも遥かに恐ろしい脅威を引き金とした。
コンマ数秒後、女の羞恥心の堪忍袋が爆発した。耳をつんざくような悲鳴と共に、怒り狂った拳が振り下ろされる。
「きゃあああああっ!! てめぇ、どこ触ってんだブッ殺すぞ!!」
その一撃はレオの顔面にクリーンヒットした。容赦ない。そして超パワー。哀れな男の体は、はるか後方へと無様に転がっていった。
死と隣り合わせだった緊迫の森の空気は、今や息の詰まるような最悪の気まずさへと急降下していた。イーターとタカヒロは、またしても惨劇を招いた仲間の姿に、揃って深いため息をつく。
「……こ、これじゃさっきのライオンよりタチが悪いぞ」タカヒロは、第二の死神を呼ばないよう、意図して声を押し殺して呟いた。
「あ、ああ……。もしかしたら、あいつがライオンの嫁だったのかもしれねぇ……」イーターも負けじと小声で返す。
近くに異性の目が二対残っていることに気づき、女は慌ててズボンを引き上げる。顔を茹でダコのように真っ赤にして、きつく紐を縛り直した。
「ふんぬぅぅぅっ!!」
その不機嫌極まりない鼻息を聞いた瞬間、イーターとタカヒロの動きは完全にシンクロした。クルリと180度回転し、背筋を伸ばして女に背を向ける。レオと同じ悲惨な末路を回避するための、見事な見ざるの構えである。
身だしなみを整えながら、女の視線がふと、先ほどイーターが投げ捨てた空のカゴに止まった。眉をひそめ、彼女の中で一方的な推測が組み上がる。(……どうせ情報弱者の一般人が、何も知らずに迷い込んだんでしょ)と。
推測するより直接聞いた方が早い。彼女は目の前の二つの広い背中を尋問し始めた。
「ところで、あんたたちこんな所で何やってるの? まさか……」
「温泉地へ硫黄石を探しに来ただけだ」タカヒロが短く、的確に遮った。首は絶対に後ろへ向けない。「それに、この森で狩りをするつもりもない」
女の眉がさらに吊り上がる。理由と装備の間に矛盾がある気がしたが、彼女の脳は一つの重要な情報だけを拾い上げていた。
「温泉地、ねぇ?」
女は腕を組み、下唇を突き出して考えるポーズを取った。タカヒロは視線の端で、その仕草を密かに観察していた。
「場所、知ってるのか?」
「んーん!? たぶんイエスかな……。私が覚えていればの話だけどね。だって……私もここで4日間迷子になってるんだもん。えへへっ」女は悪びれる様子もなくヘラッと笑った。
「チッ……。このポンコツババアが!」イーターが小声で毒づく。
「なんか言ったかテメェ!!!」
だが一方で、『4日間迷子』という無邪気な自白は、タカヒロの脳内にピコンと眩い電球を灯した。(……使える)と、強引な手段に出ずとも、即席の計画が勝手に組み上がっていく。彼は必死に邪悪な笑みを押し殺し、ついに女の方へ体を向けた。
「どうだ? 協力しないか?」
「協力ぉ?」女がいぶかしげにオウム返しする。
「ああ。鉱石がお前をこの場所から抜け出せるように手伝ってやる。だが、タダってわけにはいかねぇな!」
「タダじゃない!? ふざけんな、てめぇらの命を救ってやったのは誰だと思ってんだコラ! こっちが見返りを要求したいくらいだぜ!」
「寝言は寝て言え! 鉱石たちは助けてくれなんて一言も頼んでねぇ! てめぇが勝手に麻酔銃でライオンを撃ち抜いただけだろうが! だから、てめぇに命を救われたからって、こっちが一銭たりとも払う義理はねぇんだよ!」
そのあまりにも理不尽なロジックの殴り合いに、イーターは密かに感嘆していた。隣でタカヒロが、残酷なまでに事実をねじ曲げ、なおかつ妙な説得力を持たせている。生死を賭けた交渉事において、ここまで狡猾で頭の回る男を、彼は未だかつて見たことがなかった。
痛いところを突かれ、完封された女のプライドが火を噴いた。
「そ、それならッ! あーしも、てめぇにこの森から出してくれなんて頼まねぇよ! ふんッ!」女はツンと尊大に顔を背けた。
懇願されるどころか、タカヒロの口元の笑みはさらに深く歪んだ。
「ほう……そりゃいい。行くぞお前ら、ここから離れる!」
付け入る隙を一切与えない、絶対的な決定。タカヒロは即座に踵を返し、女のことなど路傍の石ころのように無視して歩き出した。
獲物が本当に遠ざかっていくのを見て、女の鉄壁のプライドは一瞬にして崩壊した。胃袋のきりきりとした痛みと、底をつきかけた食料の記憶が、彼女の理性を締め付ける。このまま彼らを逃がせば、それはこの森のど真ん中で餓死確定の契約書にサインするのと同じだと気づいたのだ。
歩きながら、イーターが体を傾け、タカヒロの耳元で不安げに囁いた。
『本当にあの女をここに置いてっていいのか?』
『気にするな。どうせ気が変わって泣きついてくる』タカヒロは振り返りもせず、飄々と返した。
計算は完璧だった。五歩も歩かないうちに、背後から焦燥に満ちた声が響く。
「待てよぉっ!!」
タカヒロはニヤリと口角を上げ、イーターに『ほらな』という視線を送った。
「な? 聞こえただろ」
彼はピタリと足を止め、一瞬の静寂を支配する。女が自身のプライドを丸呑みにして屈服するのを待つように。
「あーしが道を案内してやる! でもその代わり、村まで連れて帰るって約束、絶対に忘れるんじゃねぇぞ!」
タカヒロは鋭い動作でクルリと振り返り、体を半身に構えた。その視線は女の瞳を真っ直ぐに射抜き、絶対的な最後の一言で、この契約を完了させた。
「ああ……鉱石は約束を守る男だ。嘘をつく心配はしなくていい」




