第67話:悪ふざけの終わり
鬱蒼と茂る森は、体力をゴリゴリと削り取る過酷な道だった。
頭上の葉の隙間から響く鳥のさえずりだけが、硫黄石を求めるタカヒロたち小隊の道連れだ。
だが、この場所を侮ることはできない。ここは捕食者たちが頂点に君臨する野生の領域であり、常に影の奥に潜む「何か」に警戒しなければならなかった。
最初は順調そのものだった。
しかし、さらに深く、暗く、不気味な密集地帯へと足を踏み入れた途端、状況は一変する。
太陽の光すら枝葉に遮られ、周囲の気温が急激に下がり始めたその時……レオの耳だけが、茂みの奥から響く奇妙な唸り声を捉えた。
「……今、なんか聞こえなかったか?」
レオは血の気を引き、唇を震わせながら呟いた。
だが、タカヒロはその不安を即座に一蹴した。気にするな、無視して進めと指示を出す。
しかし不運なことに、無視すればするほど、そのしゃがれた唸り声はまるで彼らの首筋にピタリと張り付いているかのように、徐々に近づいてくる気がした。
最後尾を呑気に歩いていたイーターが、肝っ玉の小さい仲間の様子に気づき、退屈しのぎの素晴らしいアイデアを思いつく。
「おい、レオ……動物園からライオンが逃げ出したって噂、知ってるか?」
「ラ、ライオンが逃げたって!?」
「あぁ! 昨日の朝、この森で狩りをしてるダチから聞いたんだよ」
先頭を歩くタカヒロは無言のままだった。視線の端でこの茶番劇を捉えつつも、足を止める気配は一切ない。
「お、脅かさないでくれよ……」
「脅かす!? はっ……まさか! なら、後ろの音をよーく聞いてみろよ」
静寂。
虫の羽音だけが響く中、イーターはレオに背後の暗闇へ耳を澄ませるよう合図を送った。
グルルル……。
木々を縫って響くその低い唸り声がはっきりと聞こえた瞬間、レオの脳内の恐怖メーターは一気に限界を突破した。
仲間のパニックを察知し、イーターの悪乗りはさらに加速する。
「ほらな!? 今、聞こえただろ?」
「ほ、本当だ……っ!」
三差路に差し掛かったところで、タカヒロが唐突に足を止めた。
イーターの悪ふざけをしばらく黙認していた青年は、ようやく口を開く。
「馬鹿か! 声を聞けばわかるだろ。あれは他の動物の鳴き真似をするコトドリだ。だがな……! ライオンが逃げ出したって噂は、十中八九……」
タカヒロはわざとそこで言葉を切り、森の静寂に続きを呑み込ませた。
じわじわと這い上がる緊張感。生存本能が警鐘を鳴らし、レオは反射的にタカヒロから後ずさり、背後のイーターの胸板にぶつかりそうになる。
「な、なんだよ!?」
「間違いなくこの森にいる! 事実、哺乳類が実際に近くにいなければ、鳥だって真似のしようがないからな」
「ど、どうすればいい!? あのライオンを倒す作戦はあるのか!?」
「倒す? ハハッ!」
イーターが目の前のレオをどかし、臆病な男と肩を並べるように一歩前へ出た。
「俺たちが戦う必要はねえよ。お前をライオンの昼メシとして置いていけばいいだけの話だ!」
打ち合わせすらしていないのに、二人は同時に極悪非道な顔を作り、死を宣告するような邪悪な笑みを浮かべてみせた。
まるで喉の奥に石を詰め込まれたかのように、レオは息を詰まらせた。
男は反射的に枯れ葉の上にへたり込み、両手を使ってズリズリと後ずさる。恐怖はとうに正気のラインを超え、こめかみからは冷や汗が滝のように流れ落ちていた。
気絶寸前まで仲間をいじり倒し、満足したタカヒロは、何事もなかったかのようにスンッとした無表情に戻った。クルリと踵を返し、右の道へと足を進める。
「名前だけは『レオ』のくせに、偽物の鳴き声でビビり散らしてやがる」
青年の後ろで、イーターは腹を抱えて笑いながらついていく。地面に這いつくばったまま残されたレオは、地に落ちたプライドを一人で拾い集めるしかなかった。
だが、その悪ふざけは長くは続かなかった。
三差路からそう離れていない場所で、タカヒロの視界が『異常』を捉える。
そこにいるはずのない猛獣のシルエット……それは、あまりにも見覚えのある姿だった。
タカヒロは息を呑んだ。
咄嗟に片手を体の横に突き出し、イーターに「今すぐ止まれ」と硬直したシグナルを送る。
「なんだ……」
「シッ! 声出すな。前を見ろ!」
タカヒロの指差す方向へ視線をやった瞬間、巨漢のイーターは両目を限界まで見開いた。
彼らの数十メートル先。そこには、血まみれのウサギの死骸を引き裂き、貪り食っている大人の雄ライオンがいたのだ。
「引き返すぞ。気づかれないように、絶対に音を立てるな」
タカヒロが極度の緊張の中で囁く。
イーターは素早く一度だけ頷き、口を固く閉ざした。
だが、災厄は思いがけない後方からやってきた。
遅れを取り戻し、タカヒロたちの緊迫したやり取りを全く知らないレオが、悪びれもせずに大声で近づいてきたのだ。
「目的地はまだ遠いのか!?」
その最悪な質問は、捕食者の鋭い聴覚を完璧に刺激した。
数秒後、ライオンは咀嚼をピタリと止める。そして、鋭い眼光を彼らの方へギョロリと向けた。
(……このクソ馬鹿野郎が!)
タカヒロは内心で激しく毒づき、水泡に帰した隠密行動を呪った。
(てめえ、ふざけんなよ……!)
胸の中で爆発しそうな怒りを抑え込むため、下唇を強く噛み締める。
顔を強張らせたイーターの喉の奥でも、声にならない罵声が詰まっていた。
周囲の異常な空気に気づいていないレオは、突然石のように固まり、顔面を蒼白にしている二人の姿を見てますます首を傾げた。そして、再び口を開く。
「お前ら……どうし……」
グルァァッ!!
今度の唸り声は、コトドリの安っぽいモノマネなんかではない。
ライオンは完全にこちらへ向き直り、巨大な前足を一歩踏み出して、固まったタカヒロたちへと距離を詰め始めたのだ。
大気を震わせるその本物の咆哮が耳を打った瞬間、レオはようやく己の置かれた状況を悟った。
目の前にある明確な「死」の気配。
レオの膝は制御不能なほどガクガクと震え始めた。
本能が『今すぐ逃げろ』と狂ったように叫んでいる。だが、タカヒロが目線だけで『動くな、絶対に叫ぶな』という強烈な警告のシグナルを送ってくるせいで、レオの呼吸は喉の奥で息苦しく詰まった。
巨大な捕食者は、頭を低く下げた姿勢でゆっくりと歩み寄ってくる。
その分厚い顎には、先ほど仕留めたウサギの生々しい鮮血がべっとりとこびりついている。
焦る様子もなく、確実に距離を削ってくる猛獣。
その獰猛な両眼は、先頭で立ち塞がるタカヒロから一秒たりとも離れない。
数歩進んでは立ち止まり、周囲の匂いを嗅ぎ、低い唸り声を上げながら再び迫り来る。
「イーター、ゆっくり後ろへ下がれ。てめえ、絶対に背中を見せるなよ」
タカヒロの微かな囁きによる指示に、イーターは即座に従った。
筋肉質なその体を引きずり、百獣の王から一切視線を外さぬまま、一歩、また一歩と慎重に後退していく。
しかし、極度のパニックはすでにレオから正気を奪い尽くしていた。
先ほどから激しく震え続けている足は、もはやまともに体を支えきれない。這うように下がろうとしたその時、足元が狂った。
彼の踵が、乾ききった小さな木の枝を真っ向から踏み抜く。
バキィッ!
息詰まるような森の静寂の中で、小枝の折れる音はまるで爆発音のように鋭く響き渡った。
空気を切り裂くその破裂音が、ライオンの持つすべての殺戮本能を、完璧に目覚めさせた。




