第63章:苛立ちと厄災の狭間で
昨夜の気まずさを引きずるように、朝がやってきた。
暖かな家を追い出された新米の恋人同士は、村の裏山にある長年放置されたボロボロの小屋に身を寄せていた。
床板の隙間から這い出す野草の蔓や、部屋の四隅に張られた蜘蛛の巣が、この場所がいかに人の住む環境ではないかを無言で物語っている。
だが、そんな物理的な不快感など、今の彼女にとっては些細な問題だった。愛する人の腕の中で眠りについた初めての夜。クトリにとって、この薄汚れた小屋はどんな豪華な部屋よりも居心地の良い場所に変わっていたのだ。
「おはよう、タカヒロくん!」
大きな欠伸を噛み殺しながら、タカヒロも同じように挨拶を返す。まだ半分閉じかけたような目で、彼は不思議そうに少女の顔を見つめた。
「……なんだよ、やけに機嫌がいいな、クトリ」
彼女は満面の笑みを浮かべ、少しだけ体を前のめりにする。
「ふふっ。当ててみて? どうして今日の私がこんなに嬉しそうなのか」
タカヒロは黙り込んだ。眉間に深いシワを寄せる。
普段なら複雑な戦術を瞬時に弾き出すはずの彼の思考回路は、このあまりに単純な謎掛けを前にして完全にフリーズしていた。必死に答えを捻り出そうとするが、頭の中は真っ白だ。
「……わからん」
自信なさげに呟かれたその一言は、致命傷だった。
クトリの顔に浮かんでいた輝くような笑顔が一瞬にしてスッと消え失せ、あからさまな落胆の表情へと急降下する。
「……もういい! あんたがわかんねぇなら、忘れちまえ!」
プイッと顔を背け、クトリはタカヒロからズカズカと距離を置いた。胸の奥で急激に膨れ上がったフラストレーションを無理やり発散させるかのように、彼女はその場にしゃがみ込む。そして不機嫌極まりない顔つきで、床から生えた野草をブチブチと力任せに引き抜き始めた。
* * *
一方その頃、ヨト家の居間には昨夜の修羅場の冷え切った空気が未だに重く沈殿していた。
家の中はひっそりとしており、まるで大切なピースが欠け落ちてしまったかのような空虚さに包まれている。
ヨトが重い沈黙を破り、クトリとタカヒロがどこへ行ったのかと尋ねても、クリリーは頑なに口を閉ざしたままだった。夫が畑へ向かう準備をしている最中だというのに、彼女はそそくさと顔を背け、あからさまに話題を逸らそうとする。
だが、ヨトが外のテラスに完全に足を踏み出すよりも早く、一人の村人が血相を変えて駆け込んできた。
男は息を荒く切らし、まるで幽霊でも見たかのように顔を真っ白にして、恐怖に引き攣った表情を浮かべていた。
「ヨ、ヨトさん……っ」
彼の言葉はそこで途切れた。激しく上下する胸。まともな言葉を紡ぎ出すための酸素すら、うまく吸い込めていないようだった。
「どうしたんだ、ブレイブ?」
そのただならぬパニック状態の声を耳にして、家の中で朝食をとっていた娘たちも反射的に手を止めた。何事かと顔を出し、死神にでも追われているかのようなブレイブの尋常ではない様子に、ぞろぞろとヨトの後ろへとついていく。
「フ、フライヤーから聞いたんだ……。あんたの家に、畑仕事にやたらと詳しい若者がいるって……」
「ああ、確かにいるが。あいつは今、家にはいないぞ」
ヨトが答え終わるや否や、ふかした芋を飲み込んだばかりのヴィオラが、眉間にシワを寄せて割り込んだ。
「ブレイブのおっさん、畑がどうかしたってのか?」
ブレイブはゴクリと荒く唾を飲み込む。
「話すと長くなる。……直接、見てもらった方が早い」
男の顔に張り付いた異様な緊張感が、これが単なるボヤ騒ぎではないことを証明していた。これ以上問答をする必要もなく、全員が頷く。家の中から不安げに見つめるクリリーとウチを残し、三人は足早に村の道を進んでいった。
ブレイブの後を追うヨトとヴィオラ。その道中、村の空気は明らかに異様だった。外に群がる村人たちの顔には一様に焦燥が浮かんでおり、彼らの生活の糧を脅かす大規模な厄災が降りかかったことを暗に示していた。
(……昨日の夜、捕まえ損ねたジュリオンジの野郎の仕業か?)
ヴィオラは頭の中で推測を巡らせていた。だが、現場に到着した瞬間、そんな甘い予想は粉々に打ち砕かれた。ヴィオラの足がピタリと凍りつき、目の前に広がる地獄のような光景に喉がヒュッと鳴る。
「見りゃわかるだろ。これが原因だ」
彼らを迎えたのは、完全に常軌を逸した光景だった。
本来なら目に優しい緑色や、肥沃な茶褐色の土が広がっているはずの畑が、完全に腐り果てていたのだ。地表全体が赤黒い毒々しい紫色に変色し、朝日に照らされてヌメヌメと悍ましい光沢を放っている。
「な、なんだよこれ……アタシの想像を遥かに超えてやがる!」
総毛立つような悪寒を感じながら、ヴィオラは忌々しげに呻いた。
「だからこそ、あんたの家にあの若者を捜しに行ったんだよ……!」
ブレイブの精神の糸がついに限界を迎え、プツリと切れた。
これまで必死に抑え込んでいた絶望感が全身を支配し、男は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。土の上にへたり込み、完全に死に絶えた己の命綱を前にただ慟哭する。
ヨトの目もまた、その不気味な紫色の海を必死に分析しようと忙しなく動いていたが、口は固く結ばれたままだった。この悪夢は、一人の畑の問題などという次元をとうに超えている。おそらく、彼がこれまでの人生で目にしてきた中で最悪の土壌災害だ。
唯一の解決策は、タカヒロをここに引きずり出し、彼のその知恵を借りてブレイブの畑を蘇らせてもらうことだけ。だが最大の問題は、その青年と長女が昨夜どこへ消えてしまったのか、ヨト自身が全く見当もついていないことだ。ブレイブの最後の希望は、ヨトの無知という残酷な事実の上に危うくぶら下がっていた。
一方、ヴィオラの内心では凄まじい葛藤が吹き荒れていた。自分の力では、この惨状を前にして何の役にも立たないことくらい百も承知だ。今ここで必要とされているのは、タカヒロの頭脳なのだ。
だが、昨夜のあの一件からくる嫌悪感と、煮え滾るような怒り、そしてつまらないプライドが、未だに彼女の胸の奥で激しく燃え盛っている。あの男に頭を下げて助けを求めるなど、到底飲み込めるものではなかった。
ギリッ……!
ヴィオラは強く奥歯を噛み締め、己のちっぽけなエゴを無理やりねじ伏せた。村の存亡の方が遥かに重要だ。覚悟を決めた彼女は、父親に許可を取ることもなく乱暴に踵を返し、村の方向へ向かって全速力で駆け出した。
「ヴィオラ、どこへ行く気だ!」
* * *
その頃、人が住めるはずもない廃屋の中では、未だに冷戦が続いていた。
クトリの頭からはシューシューと湯気が立ち上るような熱気が発せられている。タカヒロに対する強烈な苛立ちは一向に収まる気配がなく、彼女が凶暴な手つきでむしり取った野草が、すでに床の一部から完全に消滅しつつあることが何よりの証拠だった。
部屋の片隅では、タカヒロが木彫りの像のように突っ立っていた。
恋愛経験値がゼロに等しい元・ぼっち青年である彼の脳内は、完全にショートし切っている。拗ねた女をどうやって宥めればいいのか、本当に、これっぽっちも理解できていなかった。
具体的な行動を起こす代わりに、彼は全く痒くもない首の後ろをボリボリと掻きながら、この上なく気まずそうな顔を晒すことしかできなかった。
そんなタカヒロの無策ぶりを見せつけられ、ついにクトリの怒りのダムが決壊した。
苛立ちが頂点に達し、頭のてっぺんを突き抜けた彼女は勢いよく立ち上がると、体を荒々しく振り向き、握りしめていた野草の残骸を土の床へと力任せに叩きつけた。
「おい、タカヒロ……。あなたは、今のアタシの気持ちがこれっぽっちもわからねぇのか!?」
突如として飛んできたその鋭い怒声に、青年はビクッと肩を揺らした。完全にぽかんとした間抜けな顔で、ただパチパチと瞬きを繰り返す。
「貴様、色恋沙汰になるとほんっとに頭が悪りぃな! このヘタレが! ヘタレ! ヘタレ! ……超ド級のクソヘタレがぁっ!!」




