第56章:怯える鼠のように
拠点の片隅で、箱の上で宙を舞っていたフライヤーの指先がピタリと止まった。
ヨトの畑の苗代が再び荒らされたという、クトリからの報告をたった今聞き終えたところだった。
タカヒロの企てた計画の詳細を耳にすると、フライヤーの瞳には隠しきれない興味の光が宿った。
数週間前にあの少年の素性に関する秘密は暴かれたというのに、フライヤーは未だに、ページが破り取られた本を読んでいるようなもどかしさを感じていた。
(……あいつは一体、どこからあんな狂ったアイデアを引っ張り出してくるんだ?)
血の一滴も流さずに、こんな複雑な問題をひっくり返してみせる。あの少年の頭の中はどうなっているのか。無数の謎が、フライヤーの脳内を駆け巡る。
「野郎ども、今すぐ出発するぞ!」
翻ったコートの裾が風を切る。拠点の見張りとしてオウィを一人残し、フライヤーは三人の部下を引き連れて外へと踏み出した。
ブーツの靴底が床を力強く叩く音が響き渡り、部屋の空気には未だ息苦しいほどの威圧感が色濃く残っていた。
◇◇◇
太陽が地平線の彼方へと沈み、タカヒロたちが待ち望んでいた漆黒の夜が訪れた。
肌を刺すような冷たい空気が忍び寄り始める。それでも、誰一人としてその場を動こうとはしなかった。彼らの視線は一点に釘付けになっている。犯人が通る可能性が最も高い、完全な死角。
「ねえ、タカヒロ……なんで私たち、こんな格好しなきゃいけないの?」
ケイトが小声で不満を漏らす。彼女の指は忙しなく首元を掻いていた。まるで歩く茂みのように全身を覆う枯れ葉やザラザラした小枝の摩擦が、痒くて仕方がないのだ。
「これがカモフラージュってやつだ」タカヒロは風の音に紛れるほどの囁き声で説明した。「堂々と突っ立ってたら、標的に速攻で居場所がバレるだろうが」
「でも、わざわざこんな……」
タカヒロの手が動き、その抗議の声を遮った。彼の手のひらが、ケイトの唇をピタリと塞いだのだ。赤髪の少女は目を丸くし、振り払おうとしたが、タカヒロの鋭い視線に射抜かれて動きを止めた。
「しっ、静かにしろ! あそこを見ろ」
タカヒロの人差し指が木々の境界線を指し示した。鬱蒼とした森の濃い影の中から、二つの人影がヌルリと姿を現す。
何重にも重ねられた黒ずくめの服が首元まで覆い隠し、さらにフードと布で顔をぐるぐる巻きにしている。肌の露出は一切なく、周囲を警戒してギョロギョロと動く双眸だけが覗いていた。
「クトリ」
「ええ。言われなくても見えてるわ」
クトリが絞り出すように囁く。彼女はギリッと奥歯を噛み締め、力強く握りしめた拳の関節は白く変色していた。
「あのクズども……ついに私の前にその面を現したわね!」
荒々しい息遣いが、今にも爆発しそうな怒りを物語っていた。ほんの数分前、タカヒロから『絶対に早まるな』とキツく釘を刺されていなければ、クトリは間違いなく隠れ場所から飛び出し、後先考えずに二人に襲い掛かっていただろう。
畑の境界に近づくにつれ、二つの影の足どりが遅くなった。そのうちの一人が、何かの異変に気づいたようにピタリと立ち止まる。
「待て」
「どうした?」
「あれを見ろ」男の人差し指が、真っ直ぐに苗代へと向けられた。
カモフラージュの茂みの奥で、タカヒロは無意識に下唇を噛んだ。心拍数がわずかに跳ね上がる。
(……勘づかれたか?)
目の前の標的が、自分たちが仕掛けた罠の匂いを嗅ぎ取ったのではないかと危惧した。
「ヨトのクソ野郎、まだ懲りてねぇみたいだな」
静寂を破るしゃがれた声には、どこか満足げな響きが混じっていた。再びすべてをメチャクチャにしてやろうという邪悪な企みが、彼らの目にはっきりと浮かんでいる。
「違いねぇよ、ジュリオンジ。あのジジイ、俺たちにもう一回痛い目を見せられたくて仕方ないらしい」
昼間に修復されたばかりのヨトの苗代は、まるで彼らの襲撃を挑発するかのように、再び綺麗に整えられていた。
だが、驕り高ぶる標的たちの目は節穴だった。地面の不自然な起伏に、まったく気づいていないのだ。彼らのつま先からわずか数センチ先には、落とし穴の罠がポッカリと口を開けて待っているというのに。
その三流悪党じみた会話を耳にして、タカヒロの肩の力がスッと抜けた。
(馬鹿で助かったぜ)
ターゲットたちの脳ミソは、防御策を疑うにはあまりにも浅はかだった。視野は狭く、頭の中にあるのは『暴れ回るのは楽しい』というチンピラ特有の思考回路だけらしい。
「やっぱりね! あいつらが畑を荒らした元凶だったんだわ」クトリが歯擦音を立てて忌々しげに呟く。
タカヒロは言葉では返さなかった。ただ視線の端でチラリと彼女を一瞥し、『まだこらえろ』という無言の合図を送った。
「行くぞ、アンティ。さっさと仕事を終わらせるぜ」
「ああ。バフリル様を捕まえたあのクソジジイに、たっぷりと罰を与えてやろうぜ」
(いいぞ! その馬鹿ヅラ下げて、俺の罠に真っ直ぐ飛び込んできな!)
タカヒロは心の中で歓喜の声を上げた。彼の口角が、ほんの少しだけ吊り上がる。
何の疑いも持たず、アンティとジュリオンジは同時に前へと足を踏み出した。
バキッ!
落ち葉で偽装されたしなりやすい板を踏み抜いたその瞬間、隠れ場所から夜の静寂を引き裂く叫び声が上がった。
「今だ、ケイトさん!」
一瞬の遅れもなく、ケイトが手元にあった太いロープを思い切り引いた。
男たちの足元の地面が、一気に崩落する。ジュリオンジとアンティは、無様に穴の底へと転げ落ちた。
何が起きたのか理解する間もなく、罠のロープが強く張り詰める。彼らの足首はきつく縛り上げられ、さらに足の裏はベトベトの樹液に塗れ、穴の底からはブワッと白い粉末が舞い上がった。
先ほどの横柄な態度は見る影もなく消え失せ、パニックに陥った舌打ちと罵詈雑言が響き渡る。必死にもがこうとするが、強力な樹液のせいで二人の体は石像のように身動きが取れなくなっていた。
「この野郎!早くロープを切れ、アンティ!」
アンティは荒い息を吐きながら、震える手でポケットを探った。自分たちの隠密行動が、まさか未成年のガキどもの集団によって完膚なきまでに叩き潰されたことに気づき、死ぬほど焦っていた。
「おせぇよ!」ジュリオンジが怒鳴る。そのこめかみには冷や汗がダラダラと流れ落ちていた。「早くしろ!」
数秒間、己のパニックと格闘した後、アンティはようやく隠し持っていたナイフを引き抜き、足首を拘束していたロープを乱暴に切断した。
戒めが解かれた瞬間、彼らの頭からは苗代を荒らす目的など完全に吹き飛んでいた。
必死に穴から這い上がると、二人は一目散に逃げ出した。恐怖の痕跡を置き去りにしたまま、村の方角へと向かって暗闇の中を脱兎のごとく駆け出していく。
タカヒロたちは、その無様な逃走劇をただじっと見送っていた。
タカヒロの左側、まだ警戒を解いていないヴィオラの体を挟んだ向こうから、クチャクチャという小さな咀嚼音が聞こえてきた。
小柄な少女・ウチは、先ほどまでの緊迫した空気などどこ吹く風で、大好物の紫芋を夢中で頬張り、リスのように頬をプクッと膨らませていた。
「クトリお姉ちゃん、追いかけて捕まえなくていいの?」
ウチは無邪気すぎる声で尋ねた。その小さな口から、紫芋の欠片がポロポロとこぼれ落ちそうになる。
タカヒロは顔を覆っていた小枝を払い除け、薄く笑みを浮かべた。
「追いかける必要はねぇよ」
彼はこの上なくリラックスした口調で答えた。その視線は、犯人たちが逃げ去った方角を真っ直ぐに捉えている。
「あの二人のクソ野郎どもは、フライヤー様と彼のチームに捕まえてもらえばいい」




