第55章:罠の作戦・獲物を待つ
本来なら温もりをもたらすはずの朝日も、ヨトの家族にはまったく効果がなかった。家の中の緊張感は時間が経つにつれて高まり、気づけば太陽は頭上にまで昇っていた。
その混乱の中、何も知らないヴィオラは、クトリが足早に通り過ぎていくのをただ呆然と見つめることしかできなかった。
(……何があったの?)
ヴィオラは小さく呟いた。
(なんでクトリお姉ちゃん、あんなに怒ってるの?)
間もなく、クリリーが裏庭から戻ってきた。姉の後を追おうとするヴィオラの姿を見つけると、タカヒロから頼まれた樹液の入った小鉢を手にしたまま、彼女が遠ざかる前に慌てて声をかけた。
「ヴィオラ……ちょっと待って」
ヴィオラはピタリと足を止め、振り返る。母親が足早にこちらへ向かってくるのが見えた。
「これを持っていって」
クリリーはヴィオラの手に小さな鉢を押し付けた。
「タカヒロくんが待っているわ」
「樹液?」
ヴィオラは首を傾げた。
「説明している時間はないの。早くお姉ちゃんを追いかけて、これをタカヒロくんに渡してちょうだい」
それ以上は何も聞かず、ヴィオラは小鉢を受け取ると、そのまま畑へと踵を返した。
「ああ、そうだった。一つ言い忘れていたわ」
ヴィオラはその声には答えず、手に持ったドロドロの液体を見つめながら歩き続けた。
「もしそこにクトリがいても、絶対にあの子に余計なことを聞いちゃダメよ!」
背後から母親の叫び声が響いた。
ヴィオラの頭の中は、この樹液の使い道と、母親の奇妙な忠告への疑問符でいっぱいになっていた。
(……クトリお姉ちゃんに聞いちゃダメって、どういうこと?)
一方その頃、ウチは家の中で手を洗い終えたところだった。居間を見回したが、クトリとヴィオラの姿はすでに消えていた。
玄関から顔を出すと、ようやく遠くの道を歩いているヴィオラの後ろ姿を捉えた。ウチは慌てて飛び出し、その後を追いかけた。
「ヴィオラっち、待ってよー!」
その声にヴィオラが振り返る。子どもっぽい馴れ馴れしい呼び方に、彼女はあからさまに眉をひそめて不機嫌そうな顔をした。
(……このチビ野郎!)
◇◇◇
太陽は西へ傾き始め、フェリア村の空を黄金色に染め上げていた。空気も少しずつ冷え込んできている。
苗代の近くで、タカヒロはこめかみの汗を拭った。ようやく罠の穴掘りが終わったのだ。傍らではケイトがずっと付き添い、時折、彼が掘り出した土を退けるのを手伝っていた。
遠くから、重々しく地面を踏みしめる足音が静寂を破った。
タカヒロとケイトが同時に振り向くと、ブツブツと何かを不満げに呟きながら、険しい顔をしたクトリが近づいてくるのが見えた。
彼女が立ち止まった際の乱暴な足音に、タカヒロは思わず立ち上がった。少女から放たれるどす黒いオーラに、少なからず恐怖を覚えたからだ。
「クトリお姉ちゃん、どうしたの?」
しかし、タカヒロの恐れは、クトリの手が完全に空っぽであることに気づいた瞬間、綺麗さっぱり消え去った。
「おい、クトリ。ラテックスの樹液はどうした?」
(えっ!?)
タカヒロは手を差し出し、今朝頼んでおいた品を要求した。
「なんで黙ってるんだ?」
「えっと……」
クトリはバツの悪そうな笑みを浮かべ、首の後ろを掻いた。
「てめぇ……まさか、持ってくるのを忘れたなんて言わねぇだろうな!?」
「うん。忘れちゃった……えへへ!」
タカヒロは深いため息を吐き、再び木の下に腰を下ろした。計画が破綻しないよう、どうにかして解決策を見出そうと必死に頭を回転させる。
その間、クトリは気まずい空気を誤魔化すように、ケイトの後ろにある穴の方へ視線を逸らした。
「そういえば、ケイトちゃん。この一ヶ月間、どこに行ってたの?」
「ビーおじさんの牧場での仕事が、すっごく忙しかったの。一刻も早く配達しなきゃいけない注文がたくさんあってね。一秒でも遅れたら、お客さんは受け取ってくれないから」
「へえ、そうだったの……。じゃあ、なんでタカヒロくんがここにいるって分かったの? ずっと忙しくて、私の家に来る暇もなかったんでしょ?」
「そ、それは……」
クトリはケイトの言葉を遮るように一歩前に出た。手を伸ばし、ケイトの赤みがかった短い髪を数本摘まむと、今朝見つけた手掛かりと一致するかどうか、じっくりと観察し始めた。
ケイトは戸惑ったように固まり、少しパサついているが健康的な自分の髪の質感を、クトリが調べるがままに任せた。苗代で見つけた髪の毛のような、色のグラデーションはどこにも見当たらない。
「やっぱりね」
「えっ!?」
「あの髪の毛、あなたのじゃなかったのね」
クトリは一歩下がり、ケイトの横を通り抜けて穴の縁へと歩いていった。
「それで、代わりの作戦はあるの、タカヒロくん?」
「さあな? 俺もまだ考えてるところだ」
主要な材料が手に入らなかったことで、タカヒロはこの見知らぬ世界という制限の中で、どうにか知恵を絞り出さなければならなかった。ズキズキと痛み始めたこめかみを揉みながら、ラテックスの代わりになりそうなものはないかと、畑の向こうに広がる森の植生に視線を巡らせる。しかし、見渡す限り、見覚えのある植物は一つもなかった。
(……くそっ! どうすればいい? この作戦を失敗させるわけにはいかない。でも、俺には……)
この一ヶ月間、村を襲っている長い乾季のことを思い出した瞬間、彼の思考が途切れた。森の木々に再び視線を固定したとき、元の世界の知識が脳裏に閃いた。
「クトリ。あの森に『アガティス・ダンマラ』の木はあるか?」
「アガティス・ダンマラ? 何それ、どんな木?」
「あ、そうか。お前らがその名前を知ってるわけないよな。要するに『樹液の採れる木』の一種だ」
クトリとケイトは顔を見合わせ、眉をひそめて、彼が言っている植物の姿を想像しようとした。
言葉で説明しても伝わらないと悟ったタカヒロは、自ら森へ向かおうと足を踏み出した。
しかし、一歩を踏み出したその瞬間、背後から響いた甲高い声が彼の動きを止めた。
「タカヒロくん!」
「キングくん!」
息を切らしたヴィオラとウチが姿を現した。タカヒロたちが森へ向かう寸前で、なんとか間に合ったのだ。タカヒロが完全に振り返ると、彼の視線はヴィオラがしっかりと抱え込んでいる容器に釘付けになった。
(……樹液、か?)
「お待たせしてごめんなさい」
二人の少女が近づいてくると、全員の注目がヴィオラの持っている小鉢の中身に一気に集まった。
「ヴィオラ、あんたの手にあるそれって……?」
「大事なものを持ってきたのは分かるが、なんでこんなに遅かったんだ?」
「ごめんなさい……来る途中で、ちょっと……」
「あー、言い訳なんて聞いてる暇はねぇ!」
タカヒロはヴィオラの言葉を遮り、右手を差し出した。
「夜になる前に作業を終わらせたい。さっさとその樹液を俺に渡せ。……っと、その前に、ケイトさん。あそこに置いてある石灰石を、細かく砕いておいてくれないか」
「了解、司令官!」
最大の武器を手に入れたタカヒロは、すぐさま罠作りの指揮を執り、四人の少女たちにそれぞれの役割を振り分けた。
クトリとウチには罠の引き金を結ぶ役割が与えられ、彼とヴィオラは、穴の表面をカモフラージュするためのしなやかな木の枝や落ち葉を集めに向かった。
プロジェクトを完了させるのに、そう時間はかからなかった。
罠は今、綺麗に土の中に埋められ、完全に風景と同化している。後は、獲物が穴に落ちるのを待つだけの、静かな緊張感が残るのみであった。




