第50章:囁きに満ちた夜
耳をつんざくような悲鳴が静寂を打ち破った。ヨトはその場に釘付けになり、目の前の青年に何が起きているのか理解できず、ただ呆然と見つめていた。
その驚きはすぐに伝播した。隣の部屋から、着替えを終えたばかりのクトリが慌ててカーテンの隙間から顔を出し、肩に布をギュッと寄せている。
「お父さん、タカヒロくん、どうしたの?」
「あ、悪夢でも見ているらしい」
ベッドの上で、タカヒロは座り込んだまま必死に空気を掻き集めていた。額に冷や汗をにじませ、胸を激しく上下させて呼吸を繰り返している。その騒ぎに誘われるように複数の足音が近づき、やがてクリリー、ヴィオラ、そしてウチも、それぞれの部屋から慌てて飛び出してきた。
青ざめた顔で集まった彼女たちを見た瞬間、青年の両目は異常なほど激しく動いた。警戒心に満ちた視線でクリリーの顔を睨みつけ、次いでヴィオラとウチの方へと鋭く目を向ける。まるで、恐ろしい脅威でも前にしているかのように。
「タカヒロくん、どうし――」
彼を落ち着かせようとヴィオラが手を伸ばした瞬間、タカヒロは反射的に空の空間を振り払った。腕を硬直させて前に突き出し、彼女の言葉を遮る。
「近寄るな!」
パニック状態で彼は叫んだ。
「一体、何が起きているの……?」
その異様な振る舞いを前に、クリリーは眉をひそめ、思わず独り言のように呟いた。
突然訪れた沈黙が、悪夢の残滓が再び忍び込む隙を与えてしまったかのようだった。タカヒロの脳裏にどす黒いシルエットがちらつき、右耳のすぐそばで冷たい囁き声が響き渡る。
『そうだ! その調子であいつらを遠ざけろ。これ以上、奴らに触れさせるな。二度と洗脳されるんじゃない』
空気が薄くなったように感じた。タカヒロは目に見えない霧を払いのけるように、何もない空中に向かって腕を振り回した。
「うるせぇ!」
『なぜだ。なぜ俺に黙れと言うんだ、タカヒロ? あいつらはお前にとってただのお荷物だろう? だったら、こんな薄汚い家からさっさと逃げ出せばいいじゃないか』
「黙れ! 俺の頭から出て行け!」
耳をつんざくような幻聴の笑い声が、頭蓋骨の中で反響する。その影の幻影は、崩れ去っていくタカヒロの精神の防壁と、ボロボロになったその顔を嘲笑っているかのようだった。
『ここは、お前にふさわしい場所じゃない。ここから離れたいなら、元の世界に戻るのを手伝ってやってもいいぞ』
「てめぇの助けなんかいるか! だいたい、腐敗と偽りと不条理にまみれた元の世界なんかに、何で俺が戻らなきゃならねぇんだよ!」
ヴィオラのすぐ左側で、ウチはゆっくりと瞬きをしながら目をこすり、そのうわ言に反応した。
「キングくん、すっごくうるさい。いつまでそうしてるつもりなの?」
そう言い放つと、小さな少女は気だるげに大きなあくびをした。
この緊迫した状況下でのウチのマイペースな態度に苛立ち、ヴィオラがすかさず反応する。手が宙を舞い、小さな少女の頭頂部に容赦ないゲンコツを落とした。
ゴツッ!
「よくもまぁ、そんなに呑気なことが言えるわね、ウチの野郎!」
「じゃあ、ヴィオラっちが目を覚まさせてあげればいいじゃない」
「はぁ!? あんたバカなの? さっき落ち着かせようとしたのに――」
ヴィオラの言葉は途切れた。灰色の髪の少女の文句など意に介さず、ウチはくるりと背を向けて、その場から歩き去ってしまったからだ。
「おい、チビ野郎! どこ行くのよ! まだ話は終わってないわよ!」
「ちょっと持ってくるものがあるから、そこで待ってて」
ヴィオラは眉を寄せ、台所の方へとふらふら歩いていくウチの後ろ姿を睨みつけた。しかし、少女はすぐに戻ってきた。その両手には、なみなみと水の張られたバケツがしっかりと握られていた。
(あのバケツ、何に使う気?)
ヴィオラは訝しみつつも、その小さな少女が何をしようとしているのか、ただ見守るしかなかった。
ベッドの端に辿り着くや否や、誰にも警告を発することなく、ウチは躊躇いもなくそのバケツを振りかぶった。
ザバァッ!
部屋にいた全員が凍りついた。冷たい水が青年の身体に浴びせられ、新しいマットレスは水浸しになった。
冷たい水の衝撃が、タカヒロの意識を縛り付けていた細い糸を瞬時に断ち切った。彼は息を呑み、頭の中に巣食っていた黒い影は跡形もなく消え去った。
「ほら、うわ言が止まったでしょ」
ウチは無邪気にヴィオラへと言い放ち、ずぶ濡れになったタカヒロを人差し指で気楽に指し示した。
「俺に何があったんだ? なんでこんなにずぶ濡れに……」
タカヒロは混乱しながら尋ねた。
最初からこの騒動を目の当たりにしていたヨトが、その気まずい空気を破るように一歩前に出た。
「悪夢を見ていたんだ。それに、私たちに『触るな』とうわ言を叫んでいてね」
「俺に触るな、だと?」
タカヒロがオウム返しにする。
「そうよ」クリリーが手短に続けた。「まるで何かに取り憑かれたみたいに、ずっと言っていて……」
「なんて言ってた? 説明してくれ、俺は何を言ってたんだ?」
「『元の世界には戻りたくない』って」
その声の主はクトリだった。寝巻きの乱れを直し終えた彼女が、ようやく彼らの元へと歩み寄ってきた。
「あなたのいた世界は、腐敗と」クトリは言葉を紡ぎながら、ベッドの縁に腰を下ろし、タカヒロをじっと見つめた。「偽りと、不条理に満ちている、って」
タカヒロは石のように固まった。薄暗い夜の光に照らされ、どこか魅惑的に見えるクトリの顔にだけ視線が釘付けになる。
「気になってたんだけど、あなたの世界って一体どんなところなの? どうして、そこまで戻るのを嫌がるほど憎んでいるの?」
「クトリちゃん」クリリーが優しく声をかけた。「タカヒロくんに、そんなことを聞くのはやめておいた方がいいわ」
「えー……どうしてですか?」
「今は彼を一人にしてあげて。気持ちを落ち着ける時間が、きっと必要なはずだから」
クリリーはクトリの肩をポンポンと軽く叩き、合図を送ってからくるりと背を向けた。ヨトも小さく頷き、その後ろに続く。
「みんな……悪かった」
クリリーの足がふと止まった。振り返ることなく、彼女は穏やかに返す。
「謝る必要なんてないわ。あなたの抱えている気持ちは、私たちにもなんとなく分かるから」
「タカヒロくん、もう一度ゆっくり休むといい……。何か必要なことがあれば、いつでも呼んでくれ」と、ヨトも優しく言い残した。
答える代わりに、タカヒロは部屋から消えていく彼らの背中をただ見送ることしかできなかった。指先が、ずぶ濡れになったシーツをギュッと握りしめる。
やがて青年はうつむき、まだ微かに震えている自分の手のひらを虚ろな目で見つめた。ヴェリア村の漆黒の夜空の下、数え切れないほどの問いが彼の心を苛み続ける。
あの暗い記憶を永遠に葬り去るべきなのか。それとも、終わりのないジレンマに、このまま引きずり込まれ続けるしかないのだろうか――。




