第49章:置き去りにしてきた世界からの声
夜風が忍び込み、肌を刺すような冷気を運んでくる。
部屋の隅では、散乱していたカポックの繊維が布の中にすっきりと収まり、ついに新しい手作りベッドが完成していた。
静寂を破り、フライヤーが部下たちに合図を送る。気絶したバフリルをアジトへ連れ帰るための指示だ。
しかし、彼が玄関の敷居を跨ごうとした瞬間、クリリーの手が素早くその腕を掴んだ。
クリリーの視線が鋭く光る。弟の青白い顔色と、疲労が滲むその背中を見逃すはずがなかった。
親代わりとして彼を育ててきた姉の直感が、空腹のまま夜の闇へ帰そうとする弟を全力で引き留めていた。
フライヤーは小さくため息をつき、姉の手を優しく振り払おうとした。
だが、その動きがピタリと止まる。
視線の端で、部屋にいる見知らぬ白髪の青年を捉えたからだ。
彼の頭の中には、まだ解けていない硬い結び目のような謎が残っていた。
タカヒロという男が、一体何者なのかという疑問だ。
「お前らは先に戻れ」フライヤーは部下たちに告げた。「俺はまだ、この青年に用がある」
「了解しました。では、お先に失礼します、フライヤー様」
フライヤーはわざわざ言葉を返すことはせず、ただ短く顎を引いて頷いた。
部下たちの足音が遠ざかり、暗い夜道へと消えていくのを見送る。
「さぁ、みんなのところへおいで。今お皿を用意するからね」
「姉貴、気を使わなくていいよ。今日はあんまり、たくさん食べる気になれねぇんだ」
クリリーの動きが一瞬止まり、わずかに眉を寄せた。
フライヤーの口からそんな言葉が出るなんて、まるで別人のようだったからだ。
普段の彼なら、誰よりも早く皿に飛びつくような、筋金入りの大食漢なのだ。
しかし、今夜は色々なことがありすぎて、食欲について議論する気力すら残っていない。
その違和感を深く追及することはやめ、クリリーは小さく軋む木の椅子を引き、食卓に向かって腰を下ろした。
「早く来なさい。みんな待ってるわよ」
その言葉を聞いた瞬間、フライヤーの胸の奥がキュッと締め付けられた。
その声のトーン、言葉の選び方。すべてが、彼らがまだ六歳だった頃に亡くなった母親の面影と重なったのだ。
乾いた喉をごくりと鳴らし、フライヤーは徐々に歩みを遅くしながら、その木製の食卓へと加わった。
食卓を重苦しい沈黙が包み込んでいる。
食事を進める中、木製のスプーンと皿が触れ合う微かな音だけが響いていた。
そんなひどく気まずい空気の中、ついにタカヒロが沈黙を破った。
彼は約束通り、事の顛末を一つ残らず説明し始めた。
全員の視線が彼に釘付けになる。
そして最後の言葉が宙に溶け、説明という名の借金を払い終えた瞬間、タカヒロの身体をどっと重い疲労感が襲った。
彼は首の付け根を揉みほぐしながら立ち上がり、ふらふらとした足取りで食卓から離れていく。
「もう聞きたいことがねぇなら、さっさと帰れ。俺の睡眠の邪魔だけはするなよ」
◇◇◇
夜が深まるにつれ、外の空気はますます荒々しく牙を剥いていた。
暴風が吹き荒れ、枯れ枝や落ち葉、軽い破片を巻き上げては、何度も家の壁に激しく叩きつけている。
部屋の隅。この家で唯一のプライバシーを守る古びたカーテンのすぐ裏側。
タカヒロはついに、疲れ切った身体を休めることができた。
この得体の知れない世界に放り出されてから初めて、まともな寝床を手に入れたのだ。
ゆっくりと身体を横たえる。
マットレスの表面がわずかに沈み込み、凝り固まった背中を、ずっと忘れていた見知らぬ柔らかさが包み込んだ。
採れたてのカポックの新鮮な香りと、微かに漂う夕食の匂いが混ざり合い、なぜか彼の胸の奥にじんわりとした温もりを与えてくれた。
呼吸が次第に一定のリズムを刻み始める。
抗いがたいほどの重い睡魔に、意識が強引に引きずり込まれていく。
まぶたが完全に閉じ、彼は最も深い眠りの底へと落ちていった。
しかし、その安らぎは、残酷な罠でしかなかった。
意識が、見覚えのある場所へと飛ばされていた。
彼は再び、元の世界にあった自分の狭い部屋の真ん中に立っている。
息が詰まるような、ひどく淀んだ空気。
コンピューターのモニターから放たれる薄暗い青い光が部屋全体を照らし出し、CPUの冷却ファンが一定の速度で回転する、あの耳障りな低い羽音が響いている。
前触れもなく、部屋のドアの蝶番がギシッと嫌な音を立てて開き放たれた。
見慣れた人影がいくつか、ドアの敷居を塞ぐように立っている。
かつての『友人』たちだ。
彼らの口角が吊り上がり、見下すような嘲笑を浮かべている。
タカヒロの脳裏に焼き付いて離れないその表情。それは決まって、吐き気を催すような暴言が降り注ぐ前の前兆だった。
『なんであいつ、あの家族を助けてるわけ? 自分の家じゃ完全な「お荷物」のくせに、他人の家族を助けるとか、何様のつもり?』
その言葉は、目に見えない鋭い短剣となって彼のみぞおちを深くえぐった。
タカヒロは口を開き、言い返そうとしたが、声帯が切断されたかのように音が出ない。
舌が麻痺している。
群衆がゆっくりと前へ進み出てくるのを見て、彼の身体は石のように固まった。
彼らの顔がグニャリと歪み、ドロドロに溶け出し、やがて息の詰まるような黒い霧となってタカヒロの周囲をぐるぐると渦巻き始めた。
反射的に後ずさりし、氷の塊のように冷たい壁に背中を激しく打ち付ける。
酸素を求めて、胸が激しく上下した。
耳をつんざくような喧騒の渦の中、突如として、奇妙な囁き声が耳元に滑り込んできた。
柔らかい声色なのに、全身の総毛が逆立つほどの悪寒を伴っている。
『自分の世界が、恋しくないのか?』
首をギクシャクと動かして振り返る。
部屋の一番暗い隅に、一人の男のぼんやりとした影が潜んでいた。
背筋の伸びた体格をしているが、その顔のパーツは完全な漆黒に飲み込まれている。
たった今投げかけられた質問が、壊れたカセットテープのように、頭蓋骨の中で何度も何度も反響し続ける。
音量は次第に大きくなり、不快なノイズとなってこめかみを激しく締め付けた。
その影の男の存在を理解するよりも早く、別の冷気が背筋を舐め上げる。
いつの間にか、彼のすぐ真後ろに一人の少女のシルエットが立っていた。
元の世界で、彼が密かに想いを寄せていたあの少女だ。
彼女は彼をじっと見つめ、口を開いた。
『いつからそんなに、簡単に人を信用するようになったの? ゲームの邪魔をされるのが大嫌いで、あんなに執着心が強かったくせに』
その言葉が終わると同時に、黒い霧が再び弾け飛んだ。
そこからヴィオラが歩み出て、彼に近づいてくる。
だが、そこにはいつもの柔らかな表情はなかった。
彼女の顔はひどく青白く、血管が不気味に浮き出ている。
『タカヒロくん……! どうして。どうして私たち家族のために、そこまでしてくれるの?』
タカヒロの足元がふらつく。もつれる足で後ずさりしたが、もう逃げ場はどこにもなかった。
完全に壁際に追い詰められたその時、群衆を掻き分けて、また別の姿が現れた。
ヨトだ。彼は咎めるような厳しい顔つきで、タカヒロを睨みつけている。
『おい、小僧。うちの家族を助けるからには、何か裏があるんだろう? そうならさっさと答えろ、お前の本当の目的は何だ!』
(違う! そんなことねぇ!)
頭の中でタカヒロは泣き叫び、ヨトの幻影に向かって絶叫していた。
しかし夢の中では、彼の口は大きく開かれているだけで、わずかな音すら外には漏れ出ない。
必死の抗議は虚しく飲み込まれ、誰にも届くことはなかった。
幻覚は終わらない。影の奥から次々と新たな姿が浮かび上がってくる。
今度はクトリが目の前に立っていた。
彼女の姿はボロボロで、まだ血の滲む生々しい傷跡が顔中を覆い尽くしている。
憎悪に満ちた瞳で彼を睨みつけ、彼女の家族の領域に土足で踏み込んだ過ちを責め立ててきた。
『あんたのせいで、私は死んだのよ! あんたさえここにいなければ、私やヴィオラ、お父さんやお母さんが、こんなに苦しむことはなかったのに!』
タカヒロの精神の防壁が、音を立てて完全に崩れ去った。
先ほどから滲み出ていた冷や汗が、今や包帯をべっとりと濡らし、ひどく不快な粘り気を放っている。
彼はもがき苦しみ、この空間から逃げ出そうと暴れた。
しかし両足の感覚は完全に失われ、まるで目に見えない杭で地面に深く打ち付けられているかのように、一歩も動くことができない。
胸を押し潰すような重圧が、ついに限界に達した。
不協和音のような声の数々が、潜在意識の奥底へと徐々に薄れ、消え去ろうとしたその瞬間。
タカヒロの身体が大きく跳ねた。
「うあああああああああっ!!」
静まり返った夜の闇を引き裂くように、彼はありったけの声で絶叫した。
◇◇◇
すぐ近くで針と糸を手にして作業を続けていたヨトは、あまりの驚きに縫い物を放り投げそうになった。
悲痛な叫び声を聞き、彼は慌てて立ち上がる。
急いでカポックのベッドへ駆け寄ると、そこには自分の流した汗でぐっしょりと濡れ、激しく肩を上下させて息を呑む青年の姿があった。
ヨトは彼を落ち着かせようと手を伸ばした。
しかし不運なことに、ヨトが顔を近づけた瞬間、タカヒロはパニックに陥り、這うようにして激しく後ずさった。
その両目は極限まで見開かれている。
彼の顔には色濃い恐怖が張り付き、まるで自分の命を奪いにきた悪霊でも見るかのようなおぞましいものを見る目で、ヨトを凝視していた。




