第33章:希望の香り
朝の日差しがゆっくりと這い上がり、壁の隙間から差し込んで朝露の名残を追い払っていく。
先ほどのバカバカしい騒ぎの後、居間に漂っていた重苦しい空気は徐々に和らいでいた。
別室では、ヴィオラとクリリーが慌ただしく動いている。石臼と素焼きの器を用意し、摘みたての薬草を調合する準備を進めていた。
一方、ウチ、ケイト、クトリの三人は木製の寝台の端に立ち尽くしていた。三人の間に、再び沈黙が忍び寄る。
「おい、ウチ」
ケイトが沈黙を破った。
「あんた、いつから二重人格になったのよ?」
真ん中に座っていたクトリが、ビクッと背筋を伸ばした。両目を警戒に光らせ、左右に視線を走らせる。
「ケイトの家にお泊まりした時からなのですぅ!」
ウチはあっけらかんと答えた。
小柄な少女は視線を外し、硬く目を閉じて横たわるタカヒロの姿を見つめる。
「そんな言葉、あたしが信じるとでも思ってるわけ?」
ケイトは瞬き一つせず、ウチを真っ直ぐに睨みつけた。
「信じるか信じないかは、ケイトの自由なのですぅ」
ウチは立ち上がり、寝台をぐるりと回って反対側の隅へと歩いていく。
「あたしは、できる限り正直に答えただ」
ケイトはすぐには言い返さなかった。目を細め、友人の小さな背中をじっと見つめる。
ウチがタカヒロのすぐそばに腰を下ろすのを見た瞬間、ケイトは反射的に寝台に手をついて立ち上がろうとした。
しかし、クトリの動きの方が早かった。紫のドレスを着た彼女の手が、ケイトの肩をグッと押さえつける。クトリは静かに首を横に振った。
ケイトは短く息を吐き出し、再び寝台の上にドスンと腰を下ろす。そして、ぽつりと口を開いた。
「あたしたちの到着がもう少し早かったら、あいつもこんな風にならずに済んだのかもしれないわね」
その言葉に、ウチがハッとしてケイトの方を振り向いた。
「彼は、本当は誰なんですか?」
クトリが尋ねる。
「なぜ、彼があなたたちにとってそれほど特別な存在になっているのですか?」
ここ数日、タカヒロと同じ屋根の下で過ごしてきたケイトが、クトリに状況を説明し始めた。
「あたしとヴィオラも、こいつが誰なのか全然知らないのよ」
ケイトは静かに語る。
「数日前、あたしたちが森で薪拾いをしていた時にね。ご神木の下で、大怪我をして倒れているこいつを偶然見つけたの」
クトリは眉をひそめた。寝台の上で横たわる弱々しい体に巻かれた、痛々しい包帯へと視線を落とす。
「ということは……その包帯の下にある傷は、まだ新しいものなのですか?」
「ええ、そうよ。」
ケイトは頷いた。
「傷はまだ新しいわ。不幸中の幸いというか……見つけた時は、致命傷ってほどじゃなかったけど。」
クトリは膝の上で指先をトントンと叩いた。
「彼がどこから来たのか、尋ねたことはあるのですか」
彼女の視線が台所の方へと向かう。そこではまだ、クリリーとヴィオラが薬草をすりつぶすために背中を向けていた。
「まだよ」
ケイトは立ち上がり、ウチの元へと歩み寄った。
「そんなこと聞く余裕、全然なかったから」
「どうして聞かなかったのですぅ?」
ウチが不思議そうに尋ねる。ウチの隣にドカッと腰を下ろすケイトの動きを、その丸い目が追いかけていた。二人の肩が触れ合いそうになる。
「あたしにも理由はよく分からない。ただ……そんなことを聞くようなタイミングがなかっただけかもね」
ケイトの手が伸びる。その指先が、熱で火照ったタカヒロの額を優しく撫でた。
クトリが歩み寄り、ケイトのすぐ背後に立った。
「私たちは、彼を助けなければなりません」
ケイトは少し首をひねり、視線の端で後ろを振り返った。
「助けるって、何を」
「彼を、元の村に帰してあげるのです。これ以上、彼をこの村に滞在させるわけにはいきません。彼の身に危険が及びます」
「でも、どうやって!?」
ケイトは勢いよく立ち上がり、クトリの正面へと向き直った。
「あたしだって、こいつがどこから来たのか知らないのよ!」
座ったままのウチが、右手をこめかみに当てて人差し指でトントンと叩く。左手は胸の前で折りたたんで支えにしていた。
「あたし、いい考えがあるのですぅ!」
ウチはピシッと立ち上がった。
「どんな考えなのよ?」
「村長さんには、彼の正体を隠すのですぅ。簡単に言えば、彼はあたしのお兄ちゃんってことにすればいいのです!」
クトリは踵を返し、小さな主を真っ直ぐに見つめた。
「本当に、それで上手くいくとお思いですか?」
「上手くいくかどうかは、分からないのですぅ」
ウチは胸を張って答える。
「でも、まだ試してないんだから、やるしかないのですぅ!」
奥の部屋から、足音が近づいてきた。クリリーとヴィオラが並んで歩いてくる。
「お待たせしてごめんなさい」
クリリーが声をかけた。
その皺の刻まれた手には、小さな素焼きの小皿が握られている。皿の上には、ユーカリの葉から絞り出された純度の高い透明なオイルが数滴垂らされていた。信じられないほど強烈で爽やかな香りが、瞬く間に部屋中へと充満していく。
母親の後ろでは、ヴィオラが小さな布袋を持って歩いていた。その中には揉みほぐされたミントの葉が入っており、強烈なメントールの香りを放っている。
反射的に、ケイト、クトリ、ウチの三人は両手を顔に当て、鼻を強くつまんだ。あまりの匂いに全員の顔がシワシワに歪む。
クリリーは寝台のそばにしゃがみ込んだ。透明なユーカリオイルに指先を浸し、その温かいオイルを、無防備に露出したタカヒロの首元から胸にかけて丁寧に塗り込んでいく。
ヴィオラも寝台の反対側にひざまずき、ミントの葉が入った袋をタカヒロの鼻先へと近づけた。
全員の視線が、タカヒロの顔に一点集中する。どんな些細な脈拍や反応も見逃すまいと、彼女たちは息を潜めて待ち続けた。




