第30章:潜在意識
(俺は……どこにいるんだ?)
激しく脈打つ心臓が血液を異常な速度で送り出し、指先が凍りつくように冷たくなっていく。
(なんで、俺はこんな所に……。)
弾かれたように踵を返し、周囲をぐるぐると見渡す。一筋の光でも見つけ出そうと、両目は必死に空間を彷徨った。
だが、何もない。どこを向いても、ただ果てしなく続く漆黒の空間が広がっているだけだ。まるで、この暗闇そのものに生きたまま飲み込まれてしまったかのようだった。
「誰か!誰かいないのか、助けてくれ!」
絶対的な静寂を切り裂くように、ありったけの声で叫ぶ。その声は虚しく反響し、やがて虚無の中へと吸い込まれて消えた。この無機質で暗い空間には、彼一人しか存在していない。
「ヴィオラさん!ケイトさん!ウチさん!どこかにいるのか!」
息を切らしながら何度も名前を呼んだ。だが、返ってくるのは自身の荒々しい鼓動の音だけだ。
「ヨトさーーん!」
絶望に押し潰されそうになる心を奮い立たせ、タカヒロは歩き出した。誰か他の人間がいないかと、何もない虚空を両手で手探りしながら進んでいく。
「ヨトさんっ!!」
喉が張り裂けそうなほどの悲鳴に近い声で、再び叫んだ。
やはり、何の反応もない。一体何千歩歩いたのだろうか。ここでは時間や空間の概念すら意味を持たないように感じられる。どれだけ進んでも、誰の姿も見つけることはできなかった。
「誰か、助けてくれよ……。」
喉はすでに枯れ果てていた。それでも彼は、決して返ってくることのない救いを求めて叫び続けた。
やがて、足の感覚すら麻痺し始めたその時。タカヒロの耳が、微かな異音を捉えた。
笑い声だ。それも、見知らぬ誰かの声ではない。彼の記憶に深く刻み込まれた、ひどく聞き覚えのある嘲笑だった。
タカヒロはその場でぐるぐると回り、レーダーのように聴覚を研ぎ澄ませた。だが、声の出所を特定することはできない。
そのおぞましい笑い声は四方八方から反響し、鼓膜にへばりつくように侵入してくる。頭が割れそうに痛んだ。
その拷問のような響きに耐えきれず、彼はその場にうずくまり、両手で耳を強く塞いだ。
しかし、耳を塞いだにもかかわらず、また別の懐かしい声が頭の中に直接響いてきた。今度は彼を嘲るような声ではない。胸の奥がじんわりと温かくなるような、優しい呼び声だった。
「タカヒロ……おいで!」
『おいで』というその言葉は魔法のように彼を呪縛から解き放った。タカヒロは勢いよく顔を上げる。先ほどまで虚無しか存在しなかった視界の先に、一人の女性が立っていたのだ。
恐怖で強張っていたタカヒロの表情が、ゆっくりと緩んでいく。怯えきっていた瞳は、まるで催眠術にでもかけられたかのようにポッカリと見開かれていた。
ふらふらと立ち上がると、迷うことなくその女性の元へと歩き出す。女性は両手を大きく広げ、彼を抱きとめようとしていた。
「か、母さん……!?」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
母親らしきその女性は、ゆっくりと一度だけ頷いた。だが奇妙なことに、その顔にはどこか不気味に歪んだ笑みが貼り付いていたのだ。
「そうよ、お母さんよ。さあ、早くこっちへいらっしゃい!」
タカヒロはその違和感に気づかなかった。自分でも無意識のうちに、温かい涙が頬を伝い落ちていく。現実世界で抑え込んでいた母への郷愁が、その幻影を前にして一気に決壊してしまったのだ。
しかし、二人の距離が残り数歩まで縮まったその時。突如として、横から黒いシルエットが猛スピードで飛び出してきた。
その影は警告もなく彼の進路を塞ぎ、激しく激突した。タカヒロは弾き飛ばされ、後ろへとよろめく。
「てめぇみたいな負け犬が、まだ生きてやがったのか!」
タカヒロは息を呑んだ。低く、威圧的な声。目の前には、憎悪に満ちた表情の少年が立っていた。だが、その目元は濃い黒霧に覆われており、誰なのかを正確に認識することはできない。
何が起きたのかを頭が理解する前に、背後から別の聞き慣れた声が突き刺さってきた。
「お前が俺の宿題を手伝わなかったせいで、親にめちゃくちゃ怒られたんだぞ!」
「コイツをボコボコにして、見下される気分がどんなもんか教えてやれよ!」
瞬く間に、虚無の空間は静寂を失った。おぞましい黒い影たちが次々と湧き出し、タカヒロを四方八方から取り囲んでいく。
かつて彼に深いトラウマを植え付けた過去の亡霊たちが群がり、逃げ場のない檻を作り上げていた。降り注ぐ罵詈雑言とどす黒い憎悪のオーラがタカヒロの胸を締め付け、吐き気を催すほどのめまいを引き起こす。
彼は膝から崩れ落ちた。悲鳴を上げながら再び両耳を強く塞ぎ、この命を削るような大合唱が今すぐ止むことをただひたすらに祈った。
狂いそうなほどのパニックの中、再び母親の姿をした幻影が彼を呼んだ。自分の背中に隠れるようにと促してくる。だが、足は地面に釘付けにされたかのように動かない。恐怖が彼の全身を完全に麻痺させていたのだ。
嘲笑の言葉は、見えない短剣となって彼の肌を容赦なく切り刻んでいく。タカヒロが抗おうと叫ぶたびに、その声たちはさらに狂暴な怒号となって倍返しに浴びせられた。
絶望が頂点に達し、タカヒロが顔を隠してただうずくまることしかできなくなったその時……突如として、黄金の光が眩く弾けた。
温かな香りが広がる。いつの間にか、彼を庇うように一人の少女が天使のように舞い降りていた。彼女の顔は強い光を放ちながらも、どこか心を安らげるような不思議な輝きを帯びている。
「そこの若者よ」
少女はあっけらかんとした口調で語りかけた。その場にしゃがみ込み、タカヒロと視線を合わせる。そして、その温かい手のひらで彼の肩に優しく触れた。
「恐れることはありません。自分の問題から目を背けないで。そのままでいたら、永遠にここから抜け出せなくなりますよ。」
まるで奇跡だった。その言葉が紡がれた瞬間、あれほど彼を威圧していた轟音のような声が嘘のように掻き消えたのだ。
彼を囲んでいた黒い影たちも跡形もなく霧散していく。まとわりついていた悍ましい気配は、穏やかな光の海へと姿を変えた。
「立ちなさい。」
少女は立ち上がり、タカヒロに向けてそっと手を差し伸べた。
「私がここから抜け出すのを手伝ってあげます。」
タカヒロは差し伸べられたその手を、ただ呆然と見つめていた。救済の約束を、鈍った頭でゆっくりと反芻する。
しかし、心の奥底にはまだ疑念が巣食っていた。この空間でどれだけ歩き回っても、結局は徒労に終わったのだから。
「本当に、ここから出してくれるのか……?」
かすれた声で尋ねながらも、彼は震える体を起こし、少女の手を握りしめる。残されたわずかな意識を必死に手繰り寄せた。
光を纏ったその少女はすぐには答えなかった。ただ一度だけ小さく頷き、絶対的な自信に満ちた眼差しでタカヒロの目を真っ直ぐに見つめ返す。
そのまましばらく沈黙を保った後、彼女は静かに口を開いた。
「私は光の女神。あなたをここから救い出すことに『不可能』なんて言葉はないのですよ」
その絶対的な宣言を聞いた瞬間、タカヒロの肺を押し潰していた重い鉛のようなものがスッと消え去った。消えかけていた生きる意志に、再び火が灯る。
生気を取り戻していく表情と、かつての輝きを取り戻した瞳で、タカヒロは焦るように答えた。
「だったら、頼む!俺をここから出してくれ!俺には、やらなきゃならないことがあるんだ。すごく大事なことなんだよ!」
光の女神は再び力強く頷いた。そして、静寂が訪れる。その神聖な空気の中、女神の唇がかすかに動き、タカヒロには到底理解できない古代の呪文を詠唱し始めた。
二人の目の前の空間が波打ち始める。小さな白い光の点が現れたかと思うと、それは猛烈な速度で回転し、円形のゲートとなって弾け飛んだ。その光の渦が安定すると、向こう側の景色がくっきりと浮かび上がってくる。
ポータルの向こうには、薄暗い部屋があった。そこには、質素な木の寝台に横たわる、弱り切った自分自身の現実の肉体がある。
そして、その寝台の周りには、ヴィオラ、ケイト、ウチの三人の少女たちが集まり、不安で今にも泣き出しそうな顔をしながら彼を看病してくれていたのだ。
そのあまりにも尊い光景が、タカヒロの胸を強烈に打ち抜いた。これまでの孤独な人生において、自分が倒れた時にここまで必死になって看病してくれる人たちがいるなんて、自分の目で見るのはこれが初めてだった。
感情の堰が決壊する。目頭が熱くなり、抑えきれない感動と込み上げる思いで視界が涙で滲んだ。
だが、そんなお涙頂戴の感動的な時間は、長くは続かない運命にあった。
「早く入りなさい。時間が切れてしまう前に」
呪文を終えた光の女神が、急かすように声をかけた。
タカヒロは慌てて手の甲で乱暴に涙を拭った。しかし、それでも体が動こうとしない。
「待ってくれ。ここから、もう少しだけあいつらのことを見ていたいんだ」
その要望を聞いた瞬間、女神の眉がピクリと吊り上がった。彼女のような超越的な存在からすれば、せっかくポータルを開いたというのに無駄な時間を過ごすなど、言語道断の愚行である。
はっきりと指示を出したにもかかわらず、この愚かな定命の若者は、センチメンタルなドラマを眺めるためにそれを無視しようとしているのだ。
女神の堪忍袋の緒が、一瞬にしてプツンと切れた。
タカヒロが再びポータルの向こう側の光景に釘付けになっている隙に、光の女神は彼の背後へと音もなく忍び寄る。
そして有無を言わさず片足を高く振り上げると、青年の無防備な尻に向かって、容赦のない渾身の蹴りをお見舞いした。
ドガッ!
「うわああああっ!」
全くの不意打ちを食らったタカヒロは、そのまま前方へと勢いよく吹っ飛んだ。宙を舞いながら情けない悲鳴を上げ、光の輪の中へと無様に滑り込んでいく。
タカヒロの姿が白いポータルに完全に飲み込まれたのを見届けると、光の女神はサッと手を払い、次元の扉をパチンと閉じた。そして彼女自身もまた、その神々しい光の中に溶け込むようにして、静かに姿を消すのだった。




