第3章:異変の発見
潮の香りが、湿った落ち葉の匂いと混ざり合う。
ここには、見渡す限りの青々とした草原など存在しない。
視界に広がるのは、不気味で薄暗い原生林に阻まれた、ただの砂浜だけだった。
岩に打ち付ける波の音。
風に揺れる枝葉のざわめき。
そして、野生の鳥のさえずり。
それらすべてが、横たわる無力な肉体を包み込む、唯一のメロディとなっていた。
タカヒロは意識を失ったまま、高くそびえ立つ古木の巨大な枝の隙間に、無残な姿で引っかかっていた。
耳元では、一匹のジリスが小さな爪を立てて、必死に青年の髪の毛を引っ張ったり掻き毟ったりしている。
動物が怒るのにも無理はない。
なにせ、タカヒロの体が、巣である木のウロを完全に塞いでしまっていたからだ。
その巨大な障害物を退かそうと奮闘している最中、ピクッとジリスの耳が動いた。
鋭い聴覚が、見知らぬ振動を捉えたのだ。
西の方向から、微かに、しかし確かに、明るい笑い声が静寂の森に響き渡る。
近づいてくる足音に身の危険を感じたのか、ジリスは短く鳴き声を上げると、タカヒロを見捨てて一番高い枝へと駆け上がっていった。
「あははっ! お前ってば本当にバカだにゃ~。ウチなら、あんなクソジジイのてめぇにホイホイ騙されたりしないよ。」
からかうような大声の主は、肩下まである赤髪の少女だった。
髪と同じ色をした瞳は、鬱蒼とした森の影を射抜くように、力強い光を放っている。
「騙されるって分かってたら、私だって絶対に断ってたよ……。」
対照的に、ヴィオラと呼ばれた灰色の髪の少女は、掠れた声で返し、力なくうつむいた。
黄金色の瞳は濁りきっており、心身ともに限界を超えた疲労感が滲み出ている。
二人が着ている古びた白いカジュアルな服は、泥汚れにまみれていた。
胸の前には、ツルで乱暴に束ねられた大量の薪が抱えられている。
おそらく、昔ながらの調理用コンロに使うための備蓄だろう。
「だから、あのてめぇの誘いに『はい』って言う前に、ちゃんと考えなきゃダメだったんだよ。今頃になってお前が苦労してるじゃんか。」
鋭くも正論すぎるその言葉に、ヴィオラは唇を噛み締めた。
不気味な獣道の中、不意に重たい沈黙が二人の間に降り降りる。
苦い記憶が、再びヴィオラの胸を締め付けた。
あの中年男の罠にハマってしまった自分が、どれほど愚かだったか。
それは自分自身が一番よく分かっている。
だが、あの老いぼれの闇金業者の前に立った瞬間、なぜか脳内が真っ白になり、果てしない虚無の空間へと吸い込まれるような感覚に陥ってしまったのだ。
「これから……どうすればいいの。あいつから逃げるべき……?」
ヴィオラの足がピタリと止まった。
両手が激しく震え、抱えていた薪がバラバラと地面に崩れ落ちる。
足の力が抜け、その場にへたり込んだ。
両手で顔を覆い、ついに堪えきれなくなった嗚咽を漏らし始める。
背後から聞こえる悲痛な泣き声に、赤髪の少女も足を止めた。
肩が、ほんの少しだけ下がる。
慎重に自分の分の薪を地面に置くと、くるりと振り返り、うずくまるヴィオラの元へと歩み寄った。
親友の目の前に立つと、ヴィオラの華奢な肩にそっと右手を乗せた。
少しでも自分の温もりが伝わるようにと願いながら、残された唯一の解決策を口にする。
「逃げても無駄だと思うにゃ……。」
優しく、静かに語りかけた。
「もしお前が逃げたら、家族はどうなるの? 今だって死にかけてるのに。この状況から抜け出す唯一の道は、結果を受け入れることなんだよ……。」
「じゃあ……あいつの借金を返すためには、あの男の汚い欲望の餌食になるしかないの……?」
苦渋に満ちた問いかけが、空気を切り裂き、答えのないまま宙に浮く。
赤髪の少女は、それ以上ヴィオラの目を見つめることができなかった。
立ち上がり、背を向けて、先ほど地面に置いた薪を拾い集め始める。
「それしか、お前がこの地獄から解放される方法はないんだよ……。」
心の底では、激しい罪悪感が渦巻いていた。
(……ウチ、親友がこんなに苦しんでるのに、何もできないなんて。悔しいよ……)
親友が絶体絶命の危機に瀕しているのに、無力な自分がただただ憎かった。
しかし、運命はあまりにも残酷だ。
自分がどれだけ励ましの言葉を並べようと、それはただの気休めでしかなく、ヴィオラの運命を救うことはできないと分かっているのだ。
一瞬だけ目を閉じ、頭の中で渦巻くもどかしさを抑え込みながら、必死に別の解決策を模索した。
しかし、名案は浮かばない。
ふと空を見上げると、空の色が変わり始めていることに気づき、この場を離れる決心をした。
「日が沈む前に、早く帰った方がいいにゃ。ウチのパパとママも、今日の薪拾いの結果を待ってるはずだからさ。」
悲しみをぐっと飲み込み、ヴィオラは立ち上がった。
残った涙を拭い、散らばった薪を急いで拾い集める。
再び薪を束ね直すと、親友の背中を追って歩き出した。
森の静寂が、さらに深まっていく。
しかし、地元の人々から神聖視されているという、巨大な樹の根元を通り過ぎようとした、その時だった。
ドサッ! バキバキッ!
何かが重たい音を立てて地面に墜落し、ヴィオラは激しく息を呑んだ。
音源に一番近かったため、恐怖のあまりその場に硬直してしまう。
赤髪の少女は反射的に足を止め、警戒しながら身を翻した。
「ヴィオラ……今の音、なんだったの?」
すでに限界まで縮み上がっていたヴィオラには、後ろを振り返る勇気など残されていない。
ただ、ガタガタと震えながら両肩をすくめることしかできなかった。
その反応を見て、親友は深いため息をつき、こめかみを軽く押さえた。
無理もない。すぐそばで響いた大きな落下音に、ヴィオラは今、死ぬほど怯えているのだ。
ここで問い詰めても意味がないと悟り、自ら確認するための行動に出た。
赤髪の少女が、ゆっくりと前へ進み出る。
恐怖で石のように固まっているヴィオラの横を通り過ぎ、木の根元付近にある茂みを掻き分けた。
その目が、スッと細められる。
そこには、見知らぬ同年代の青年が、力なく横たわっていた。
青年の両目は固く閉じられている。
着ている服はボロボロに引き裂かれ、全身には生々しい赤々とした傷跡が無数に刻まれていた。
そして、身元を証明するような物は、何一つ見当たらなかった。
(……痛てぇ。鉱石。、一体どうなっちまったんだ……?)
薄れゆく意識の底で、青年はただそれだけを感じていた。




