第2章:予期せぬ出来事
タカヒロの胸は激しく上下し、髪の毛の先から滴る水滴と競争するかのように荒い息を吐いておった。
頭の中からは、ゲームのことなんか完全に消え去っておる。
目の前で怒り狂っておる母親の猛威からどうやって逃げ出すか、それだけを必死に考えておった。
母さんの体の隙間から、まだ電源が落ちてへんモニターの光が視界の端に映る。
画面を指差して母さんの気を逸らすという、古典的な作戦が頭をよぎった。
せやけど、タカヒロは奥歯を噛み締め、ゴクリと唾を飲み込んでその考えを打ち消した。
もしその作戦が失敗したら、お小言がさらに長引くのは目に見えておる。
うつろな目で立ち尽くしておる息子を見て、母さんの怒りに満ちた表情は少しずつ緩み、やがて深いため息へと変わった。
「今日の昼間、お前の友達がここに来たんや。何の用かは分からへんけど……とにかく、これを置いていったんよ。」
しわの刻まれた手がエプロンのポケットを探り、少し端が古びた小さな茶色い封筒を取り出した。
その表には、真っ黒なインクでこう書かれておった。
『幸せな人生が訪れ、そして悲惨な死が貴様を迎えにくるやろう。』
「母さんには、これがどういう意味なのか全く分からへん。タカヒロ、説明してくれるか。」
その脅迫めいた言葉は、タカヒロの中に残っておった眠気を完全に吹き飛ばした。
目を見開く。
反射的に濡れた毛布を跳ね除けてベッドから飛び降りると、母さんの手からひったくるように封筒を奪い取った。
「な、なんでもあらへんよ、母さん。」
タカヒロは誤魔化すように答えた。
いつの間にか封筒は背中に隠され、わざとらしい引きつった笑い声が続く。
「ただのイタズラ書きや。何の意味もあらへん。へへっ。」
母さんの眉間のシワが深くなる。
息子の安っぽい言い訳なんかに騙されてへんのは明らかや。
母さんが問い詰めようと口を開きかけた瞬間、タカヒロの方が素早く動いた。
母さんの両肩を軽く掴み、強引に出入り口の方へ振り向かせると、そのまま部屋の外へと押し出し始めた。
「なんでもあらへんって言ってるやろ。心配せんでええから。」
「せやけど、お前……。」
優しく、せやけど有無を言わさぬ力で、母さんをドアの外へと押し出すことに成功した。
息をつく暇も与えず、そのままドアをバタンと閉める。
「じゃあな、母さん。」
カチャッ。内側から鍵の閉まる音が響いた。
部屋の外で、母さんは目の前の木のドアを睨みつけながら鼻息を荒くするしかなかった。
(貴様、勝手に閉めやがって……!)
ふと、先ほどこのドアの向こうから聞こえた、二人の少女の笑い声の記憶が蘇ってきた。
その不審な点について問いただす隙すらあらへんかった。
唇を強く噛み締める。
この好奇心を宙ぶらりんのまま放っておったら、今夜は絶対にぐっすり眠れへん。
せやけど、今ここでドアを叩いても無駄や。
あの息子は、自分のプライベートなことになると、貝のように固く口を閉ざしてしまうんやから。
(ええわ、私が自分で真相を暴いてやる。)
母さんはそう固く決意した。
さっきから胸をざわつかせておる奇妙な胸騒ぎを無視し、きびすを返して重い足取りで一階へと降りていく。
まだ散らかっておる台所の片付けを終わらせるために。
部屋の中……。
空気は一変しておった。
ぎこちない笑いも、慌ただしい足音も、もうあらへん。
タカヒロは彫像のように立ち尽くしておる。
その視線は、手にある茶色い封筒に釘付けになっておった。
あの文章がどれほどおぞましい意味を持っておるか、タカヒロには痛いほどよく分かっておる。
せやけど、頭の中では別の違和感がさらに猛スピードで渦巻いておった。
(……母さんは友達からって言ってたけど……一体、誰や。)
片手で数えられるほどしかおらへん現実世界の友達の顔を思い浮かべる。
せやけど、あいつらの中にこんな狂った悪ふざけをするような奴はおらへん。
(ああっ……送り主の正体なんてどうでもええ。中身を確認するのが先や。)
部屋は再び静寂に包まれた。
壁掛け時計の針の音と、パソコンのCPUファンの唸り声だけが、静寂の中で響いておる。
タカヒロの指が封筒の折り返しに触れ、慎重にのり付けを剥がそうとした、その時。
背後にあるパソコンのスピーカーから、突如として女性の機械音声が高らかに鳴り響いた。
『テロヴィアの世界へおかえりなさい。ご不便をおかけして申し訳あらへん。サーバーは復旧しました。どうぞ……。』
タカヒロは机の方へと振り向く。
立っておる位置から、モニターの画面がはっきりと見えた。
システム通知のテキストが荒々しく動き回り、色が不気味に混ざり合ってバグを起こしておる。
さっき寝ておった時に現れたのと同じ、激しいノイズやった。
(てめぇ、クソゲーが!なんで急に意味不明なバグり方してやがるんや。)
ただのモニターの故障か、それともサーバーの不具合か。
タカヒロは軽く肩をすくめた。
テロヴィアのことなんて今は知ったこっちゃあらへん。
再び視線を落とし、手の中の茶色い封筒に意識を戻して、中身を取り出そうとした。
せやけど、災厄はノックもなしにやってくる。
何の警告もあらへんかった。
モニターの画面が突如として爆発的な白い光を放ったんや。
轟音もあらへんし、爆発の衝撃もあらへん。
ただ、音のない光の渦が一瞬にして回転し、巨大化していった。
部屋の重力が、強制的にそちらへと引っ張られるような感覚。
「ぐっ……!」
巨大な掃除機のように突如として体を吸い込もうとする光の渦から、タカヒロは避けることすらできへんかった。
パニックになりながら、タカヒロは手にしておった封筒をどこかへ投げ捨て、パソコンデスクの端に食らいついた。
指の関節が真っ白になるほど強く木の端を握り締め、その異常な引力に必死で抗おうとする。
せやけど、渦の力はあまりにも凶暴やった。
発生した突風が部屋の中をめちゃくちゃに破壊していく。
壁のポスターが引き裂かれ、ベッドの枕、椅子、そして積み上げられた本が宙を舞い、白い光の中へと次々に吸い込まれて消えていく。
タカヒロの腕の筋肉が激しく痙攣し始めた。
冷や汗と顔に残っておった水滴が混ざり合って滴り落ちる。
体力を奪われ、握力は少しずつ弱まっていった。
感覚のなくなった指が、一本、また一本と机から離れていく。
そして、完全に抵抗の力が尽きたその瞬間。
タカヒロの体は無防備に宙へ投げ出され、渦の核へと直接吸い込まれていった。
ヒュオォォッ……ブツッ。
次の瞬間、ポータルの渦は急激にモニターの中へと収縮し、勝手に閉じてしまった。
画面は通常に戻り、ゲームのメインメニューだけを静かに映し出しておる。
せやけど、部屋はもう元通りやない。
まるで徹底的に略奪された後のように、めちゃくちゃに荒れ果てておった。




