第1章:プロローグ
朝の風が静かに吹き抜け、村の隅々にまで心地よい涼しさを運んでくる。
2020年5月28日、日曜日。木の枝でスズメたちがさえずり合い、まるで休日を祝っておるみたいや。
外では、狭い路地や商店街が活気づき始めておる。買い物袋を提げてのんびりと歩く住民の姿があり、別の角では地元の青年団がドブ掃除に精を出しておった。
せやけど、そんな朝の賑わいや温もりも、カーテンが固く閉ざされた一つの部屋の壁をすり抜けることはできへん。
「システムエラー。応答せえへん。再起動してください。」
薄暗い部屋の静寂を破り、パソコンのスピーカーから無機質な機械音声が単調に流れ、プレイヤーに再起動を促しておる。
「てめぇ! なんで急にエラー吐きやがるんや。」
ガンッ!
木の机に激しい打撃音が響いた。タカヒロは白黒のグラデーションがかかった髪を乱暴に掻きむしる。ルビーのように赤い瞳はモニターを鋭く睨みつけ、イラ立ちの光を放っておった。
タカヒロは舌打ちをする。これはただのネット回線切れやない。点滅し続ける警告ウィンドウは、運営がいつまで経っても修正しようとせえへん古くからのバグや。
タカヒロの手がキーボードの上を舞い、なんとか問題を解決しようとコマンドを叩き込む。でも、あかん。警告ウィンドウは消えることを拒み、画面の真ん中でタカヒロを嘲笑い続けておる。
諦めたタカヒロは机から離れ、モニターが鈍い光を放つのをそのまま放置した。
「ほんま、お前ら運営はクソやな。つまらへん。」
タカヒロはそう愚痴をこぼす。
そのままベッドの上に勢いよく体を投げ出した。両腕を大きく広げ、両足はベッドの端からだらんと垂れ下がっておる。タカヒロにとって、お気に入りのゲームで周回プレイができへん休日は、虚無でしかなかった。
タカヒロは外をうろつくようなタイプやない。タカヒロの世界はこの四角い部屋の中と、画面の中のゲームだけなんや。
うつろな瞳で天井をぼんやりと見つめる。部屋の隅で鳴るCPUの駆動音と共に、徐々に重たくなっていくまぶた。やがて目を閉じ、意識はゆっくりと深い夢の中へと沈んでいった。
◇◇◇
時間はいつの間にか過ぎ去っておった。時刻は15時47分。濃いオレンジ色をした夕日の光が換気口の隙間から差し込み、部屋の空気を舞うホコリを照らし出しておる。タカヒロはまだ深い眠りの中にいた。
一階では、母親の堪忍袋の緒が切れかかっておった。台所から何度呼んでも、一向に返事があらへん。濡れた手をタオルで拭きながら、母親はついに二階へ上がることを決意した。
わざと足音を立てへんように、一段ずつゆっくりと木の階段を上っていく。しかし、一番上の段に足を踏み入れた瞬間、その足がピタリと止まった。母親は眉をひそめる。固く閉ざされたタカヒロの部屋のドアの向こうから、かすかな声が耳に届いたんや。若い女の子二人が、くすくすと笑い合う声が。
好奇心に駆られ、母親は息を殺す。音を立てへんように爪先立ちでドアに近づいた。すぐにドアノブを回すことはせず、そっとドアに耳を押し当て、会話を聞き取ろうとする。
せやけど、耳を澄ませば澄ますほど、その声はどんどん遠ざかり、やがて完全な静寂へと消えていったんや。
母親の頭の中で、とんでもない妄想が膨らみ始める。
(……うちの子が? 親の目を盗んで、女の子を二人も部屋に連れ込んでおるって言うんか。)
これ以上勝手な想像で時間を無駄にしたくはあらへん。母親の手が勢いよくドアノブを掴み、そのままガチャリと力強く押し開けた。
ガチャッ!
ドアが大きく開け放たれる。むわっとした部屋の空気が母親を迎え入れた。その目は素早く部屋の隅々までを見渡す。
誰も、おらへん。ベッドの上でいびきをかいて寝ておる息子と、まだ光を放ち続けるパソコンのモニター以外、そこには誰もいなかったんや。
母親は戸惑いながら、ドアの入り口で立ち尽くした。さっき聞いた声は絶対に気のせいなんかやない。タンスの裏や他の隅っこも覗き込んでみたけれど、結果は同じやった。部屋にはタカヒロしかおらへん。
これ以上おかしな謎に気を取られるのはやめや。母親は頭を振って、奇妙な声のことを無理やり思考から追い出した。本来の目的を思い出す。一人息子を起こすために、ベッドのそばへと歩み寄った。
「タカヒロ。起きなさい。」
母親はベッドの端に座り、タカヒロが驚かへんように、優しいリズムで息子の右太ももをポンポンと叩いた。
「もう夕方やで。」
それでもタカヒロは黙ったまま。規則正しい寝息を立てるだけで、一切反応せえへん。
「お母さん、貴様に何回言ったら分かるんや。電気代の無駄やから、寝る前はちゃんとパソコンの電源を落としなさいって。」
そう小言を言いながら、母親の視線はふとモニターの画面に落ちた。システム警告のウィンドウはまだ残っており、不規則に点滅しておる。せやけど、今の画面はバグってた。映像が途切れ途切れに歪んでおるんや。
その乱れたピクセルの中心に、三つのキャラクターのシルエットが浮かび上がっておる。一人の青年と、二人の女の子の姿やった。
母親はゴクリと唾を飲み込む。慌てて冷静さを取り戻し、無理やり前向きに考えようとした。さっき聞こえた女の子の笑い声と、息子の部屋で不気味に点滅しておるゲームのキャラクターなんか、絶対に関係あらへんって自分に言い聞かせる。
「タカヒロ。」
母親の声のトーンが跳ね上がった。
それでも微動だにせえへん。タカヒロはまるで死んだように熟睡しておる。
ついに母親の堪忍袋の緒が完全に切れた。呼吸が荒くなる。散らかった勉強机の上を鋭い目でギョロギョロと見渡し、この図太い息子を叩き起こすための武器を探し始めた。
その視線が、キーボードのそばに置かれたミネラルウォーターのペットボトルにロックオンされる。考えるよりも早く、半分以上水が残っておるそのボトルをひったくった。キャップを開け、熟睡する息子の顔に向かって体を乗り出し、そして。
バシャァァッ!
大量の水が、タカヒロの顔面にクリーンヒットした。
突然の水の衝撃に、タカヒロはビクッと体を跳ねさせる。息を呑み、目をこれ以上ないほど見開いて、勢いよく跳ね起きた。
「雨やっ。」
パニックになりながら、ずぶ濡れになった顔を乱暴に拭う。視界のピントが合い、意識がはっきりとした時、最初に目に飛び込んできたのは雨漏りする天井やなかった。
目の前には、腕を組んで仁王立ちし、冷酷な表情でこちらを睨み下ろす母親の姿がそびえ立っておったんや。




