第27章:容姿端麗な少女
朝の空気に漂う緊迫感は、すでに沸点に達していた。ヴィオラが放った果敢な一言が火種となり、目の前のスキンヘッドの男の怒りを爆発させてしまったのだ。
だが、勇気だけで圧倒的な体格差を埋めることなどできるはずもない。大柄な男が腕を引き、岩のように硬い拳をその顔面へと突き出してきた瞬間、ヴィオラの身体は激しく震えた。
灰色の髪の少女は、これから訪れるであろう激痛を覚悟し、ぎゅっと目を閉じて暗闇に身を委ねた。
フッ、と激しい風の風圧だけが彼女の顔を叩き、灰色の前髪を後ろへと跳ね上げる。だが、待てど暮らせど激痛はやってこない。
一秒にも満たない刹那の間、破滅をもたらすはずだったその拳は、ヴィオラの鼻先わずか数センチのところでピタリと停止していた。ゆっくりと、ヴィオラは震えるまぶたを開ける。
スキンヘッドの男の広い肩越しに、白手袋に包まれたしなやかな両手が、その獰猛な捕食者の肩を静かに、しかし力強く掴んでいるのが見えた。
そこに立っていたのは、一人の大人の女性だった。年齢は二十八歳前後といったところだろうか。ふわりと漂う優しい花の香りが、ヴィオラの鼻腔をくすぐった。
彼女の艶やかな濃紫のロングヘアは綺麗に三つ編みにされ、背中へとしなやかに垂れている。透明なフレームの眼鏡の奥からは、鋭い琥珀色の瞳が覗いていた。
土埃の舞う田舎村の風景には、およそ似つかわしくない高貴な佇まい。オフショルダーの気品ある薄紫のドレスを身に纏い、濃色のコルセットが彼女の美しい曲線を完璧に引き立てている。
ライラック色へのグラデーションが美しい白のスカートが風に優しく揺れ、高価なレースと緻密な装飾のディテールが覗く。頭に乗せた小さなベレー帽が、その完璧な装いを完成させていた。
ヴィオラの目がパッと輝く。
「クトリ姉さん!」
クトリ。十七歳の時に出稼ぎのために家を出たきりだった長女が、今、目の前に姿を現したのだ。
一方、タカヒロの傍らにひざまずいていたケイトも、反射的に勢いよく立ち上がった。両目を見開き、ヴィオラの隣へと一歩踏み出す。
「クトリ姉さん……。」
ケイトがぽつりと声を漏らした。
その可憐な容姿からは想像もつかないほどの力で、クトリはスキンヘッドの男の肩を強引に引き、自分の方へと振り向かせた。
視線が交錯した瞬間、オウィと呼ばれるその男は、苛立たしげに唸るような声を上げた。
「チッ……!また雑魚が増えやがったか。てめぇ、わざわざ死にに来たのか?」
クトリの手が、静かにオウィの肩から離れる。大柄な男を前にしても、彼女は微塵も動じず、一歩も引かなかった。
大人の女性特有の、落ち着きがありつつも、どこか威圧感を孕んだ声で、クトリはその視線を受け止める。
「オウィさん、私はあなたの脅しなど、もうこれっぽっちも怖くありません。」
クトリは冷静に言い放つ。
「あなたがどこの誰で、今どんな役職に就いていようと、私には関係のないこと……」
「このアマ!てめぇも同じように……」
「私はまだ話が終わっていません。人の言葉を遮らないでいただけますか」
オウィは鼻を大きく鳴らし、「チッ!」と舌打ちをした。顎に力を込め、再び拳を握りしめる。
しかし、クトリが身に纏う気品あるドレスと、その明らかに高価な生地に目を走らせた瞬間、オウィの拳からじわじわと力が抜けていった。
これほど高い社会的地位を示す衣服を身につけた女性を衆人環視の中で襲えば、最悪の場合、絞首刑に処されかねないからだ。
「無さに帰りたいのであれば、さっさと私の目の前から消えなさい。そして、二度と私の妹たちに手を出さないことです」
オウィに選択の余地はなかった。重い足取りで悔しげに舌打ちをすると、彼は踵を返し、人だかりを掻き分けて去っていった。
オウィの背中が遠ざかるのを見届けると、クトリはすぐさまヴィオラとケイトの元へ小走りで駆け寄った。両手で二人の腕や肩、頬に触れ、どこかに生傷がないか確認し始める。
「ヴィオラ、ケイト……!怪我はない?」
ヴィオラは小さく笑った。
「あたしは平気……」
ヴィオラが言い終わる前に、クトリは彼女とケイトの身体を壊れんばかりに強く抱きしめていた。
「よかった、本当に無事で……!すごく心配したんだから」
クトリは目を閉じ、二人の少女を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
彼女たちの後ろでは、ウチがずっとタカヒロの意識を取り戻そうと奮闘していた。小柄な少女は、白髪の青年の青あざだらけの頬をペチペチと叩きながら、「キング」と呼び続けている。
「きんぐ、しっかりするのですぅ……起きてくださいぃ……。」
眼鏡の奥のまぶたが再び開いた。クトリの視線は地面へと向かい、ウチの背中と、その奥でボロボロになって倒れている青年の姿を捉える。
ゆっくりと抱擁を解き、クトリは片方の眉を上げてヴィオラを見つめた。
「ヴィオラ、この人のためにオウィとやり合おうとしたの?」
ヴィオラはすぐには答えなかった。反射的に体を半分ひねり、ウチの呼びかけに未だ反応しないタカヒロの惨状に目を向ける。その拳が、強く握りしめられた。
「そうよ。あたしが、あの最低男の前に立ちはだかった理由はこれよ!」
ヴィオラは毅然と言い放った。
「なんて無茶を……!もしものことがあったらどうするの……」
「自分の安全なんてどうでもいい!もし死ぬことになったとしても、この人が死ぬくらいなら、あたしが死んだ方がマシよ!」
ヴィオラの甲高い叫び声が響く。クトリは絶句し、信じられないといった風に目を見開いた。
(……なんで、家族でもないたった一人の人間のために、ここまで無茶な真似ができるの?)
クトリは心の中でそう思ったが、溢れ出そうになる質問攻めをどうにか飲み込んだ。
「命を懸けるほどの価値が、この人に……」
「この人は天才なのよ。それに、あたしたちの家族をこの窮地から救い出す計画も立ててくれてるんだから!」
ヴィオラが真っ直ぐな言葉でそれを遮った。
『あたしたちの家族をこの窮地から救い出す……。』
その言葉が、クトリの脳裏で深くリフレインした。彼女の頭脳がフル回転し、このボロボロの異邦人の青年と、自分の一家が抱える長期的な危機との関連性を導き出そうとする。しかし、どうしても答えには辿り着かなかった。
「その人が本当に私たちを助けてくれるっていう、確かな保証はあるの?」
クトリが尋ねた。
ヴィオラが答えるより早く、ケイトが横から口を挟んだ。
「クトリ姉さん、信じられないなら、あいつの後ろポケットを見てみてよ」
ケイトは、地面に横たわるタカヒロの腰のあたりをまっすぐに指差した。
気品ある大人の女性として、見ず知らずの男の汚れたズボンのポケットを調べるなど、本来ならクトリのプライドが許さない行為だった。だが、ケイトの確信に満ちた眼差しが、彼女の好奇心を強く刺激した。
ケイトの言葉を聞き、ウチはすぐにその場を退いて、薄紫のドレスを着た女性に道を譲った。
クトリはタカヒロへと歩み寄った。ドレスの裾が泥埃に触れないよう細心の注意を払いながら、わずかに腰を落とす。青年のズボンの後ろ側に目を走らせた瞬間、それははっきりと視界に飛び込んできた。
乾いた田んぼの泥による茶色い汚れが、ポケットの生地にべっとりと付着している。
「その泥の跡が証拠よ」
ケイトが解説を加えた。
泥。農村の住人にとって、それはありふれた、しかし今回は奇妙な痕跡だった。この見知らぬ青年がポケットに畑の泥の跡を残しているという事実は、自分の一家を苦しめる大凶作の件と、強力な一本の線で繋がっていることを示唆していた。
「それで……」
ヴィオラが会話の主導権を引き取る。
「クトリ姉さん、もし気になるなら、この人を運ぶのを手伝って。詳しい話は、家に帰ってから説明するから」
クトリは小さく溜め息をついた。これ以上、反論することはできなかった。妹が提示してくるパズルのピースは、どれも彼女の知的好奇心を強く揺さぶるものばかりだったからだ。
集まっていた村人たちも散り散りになり、周囲の目がなくなったのを確認すると、四人の少女たちは互いに手を取り合った。
ぐったりとして意識のないタカヒロの身体を、彼女たちは力を合わせて必死に持ち上げ、道端に置かれていた空の荷車へと乗せるのだった。




