第26章:脅威
ヴェリアの村の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
心地よい朝の光が地上を照らしている。しかし、そんな穏やかな光景とは裏腹に、タカヒロには最悪の災難が降りかかっていた。
小道の真ん中で、激しい騒ぎが巻き起こっていた。
だが、止めに入ろうとする村人は誰一人としていない。誰もが足早に通り過ぎながら、困惑と恐怖の入り混じった視線をチラリと向けるだけ。まるで、その喧嘩に関わること自体が絶対の禁忌であるかのように、関わり合いを避けていた。
ドカッ!
バキッ!
ゴカッ!
重鈍な衝撃音が三度、響き渡る。
それらはすべて、タカヒロの顔面へとまともに叩き込まれた。スキンヘッドの男が振るう鉄拳を浴び、タカヒロの頬や目元はみるみるうちに青黒く腫れ上がっていく。
すでに抵抗する力は残されておらず、呼吸はひどく荒い。意識の糸は今にもぷつりと途切れそうなほどに薄れていた。もしこの暴挙が今すぐ止まらなければ、本当に命を落としかねない。そんな危険な状態だった。
そんな騒動の中心から少し離れた場所。ようやく朝寝坊から目覚めた三人の少女が、そこへ向かって歩いていた。
遠くに村人たちの人だかりが見え、彼女たちは自然と歩調を緩める。この突然の異常な騒がしさに違和感を覚えたヴィオラが、隣のケイトに小声で尋ねた。
「ケイト、今日に限ってずいぶん人が集まってるね。一体何があったのかしら」
ケイトは短く視線を巡らせ、数秒ほど周囲の様子を探ってから、再び前方の道へと目を戻した。
「あたしもよくわからないわ」
ヴィオラとケイトの間に挟まれるようにして真ん中を歩いていたウチは、そんな曖昧な答えを待っていられなかった。好奇心が胸の中で膨らみ、じっとしていられなくなったのだ。
ウチは急に二人の間をすり抜けて走り出すと、米袋を肩に担いで歩いていた中年の男性へと駆け寄った。
「あのぉ……おじさん、おはようございますぅ」
人見知りの癖が顔を出し、ウチは少しおずおずとした様子で声をかける。
男性は足を止め、肩の米袋を一度地面へと下ろすと、穏やかなトーンで言葉を返してくれた。
「ああ、おはよう。どうしたんだい」
「あの、前の方がすっごく騒がしいのですけど、何かあったのぉ」
男性は特に疑う様子もなく、淡々とした口調で答えた。
「ああ、あそこか……。詳しい原因は俺もよく知らないんだ。ただ、よその土地から来た見慣れない若い男と、誰かが揉めてるらしくてな」
『見慣れない若い男』という言葉を耳にした瞬間、ウチの心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
嫌な予感が一気に脳裏をよぎる。お礼を言うことも、別れの挨拶を告げることも忘れ、ウチは人だかりに向かって脱兎のごとく走り出した。遥か後ろに取り残されたケイトとヴィオラのことなど、もう目に入っていなかった。
「ウチ、待ちなさい」
ケイトが叫んで引き止めようとしたが、その声は村人たちの野次馬根性溢れるざわめきにかき消されてしまう。
その場に立ち尽くしていたヴィオラもまた、胸のざわつきが急速に大きくなっていくのを感じていた。彼女は深刻な表情でケイトを振り返る。
「ケイト、あたしたちも早くウチを追いかけよう。なんだか、すごく嫌な予感がする」
親友の怯えの理由を完全には理解していなかったケイトだが、すぐにヴィオラの後を追って走り出した。
そうして騒ぎの中心へたどり着いた途端、二人は同時にピタリと足を止めた。
人だかりの最前線で、ウチが完全に硬直していた。両目を限界まで見開き、口をぽかんと開けている。その姿は、眩しい朝の光の中で本物の幽霊でも目撃してしまったかのようだった。
ケイトが真っ先に駆け寄り、ショックで身動きの取れなくなっているウチの肩を優しく掴んだ。
「ウチ、どうしたの」
ウチは声が出せなかった。ただ小刻みに唇を震わせながら、ゆっくりと人だかりの中心を指差す。
ケイトはその指の先へと視線を向けた。次の瞬間、彼女の目は鋭く細められる。
そこには、地面に倒れ伏してピクリとも動かないタカヒロの姿があった。あるいは、あの筋骨隆々とした大柄な男が、未だに馬乗りになって彼の顔面へ容赦なく拳を叩き込み続けていた。
二人の後ろにいたヴィオラも、その凄惨な光景を目の当たりにした。タカヒロが襲われている相手が、ただ者ではないことにはすぐに気づいた。
だが、自分の身の安全を省みている余裕などない。ヴィオラは人だかりを強引に押し分け、その狂行を止めるために飛び出していった。
スキンヘッドの男の死角へと回り込んだ、その瞬間だった。
「やめなさいっ」
ヴィオラはありったけの声で叫んだ。それと同時に、自分の身体ごと激しく体当たりを食らわせる。全体重を乗せたその衝撃によって、大柄な男はタカヒロの体の上から勢いよく弾き飛ばされた。
唖然としていたウチとケイトも、それでようやく我に返った。二人はすぐさまヴィオラの後を追い、タカヒロを男の暴力から引き離すべく駆け寄る。
ケイトはタカヒロの左側に膝をつくと、スキンヘッドの男に向けて右の手のひらを突き出した。それ以上近づくなという、明確で無言の拒絶。その顔には、激しい怒りの色が浮かんでいる。
一方のウチは、震える手でタカヒロの青あざだらけの頬を優しく叩いていた。薄れゆく白髪の青年の意識を、必死に繋ぎ止めようとしていた。
「タカヒロさん、しっかりするのですぅ」
一方的な暴行を邪魔されたことに気づき、スキンヘッドの男が低くうめいた。ヴィオラの体当たりでよろめいたものの、男はすぐに体勢を立て直して仁王立ちになり、鋭い眼差しをヴィオラへと向ける。
「おぉ、ヴィオラじゃねぇか」
ヴィオラは仲間たちを背に庇うようにして、その前に立ちはだかった。自分よりも遥かに体格の勝る男を前にして、両膝はガタガタと激しく震えている。それでも彼女は、昨日知り合ったばかりの青年のために、必死に背筋を伸ばして踏みとどまっていた。
「よくも俺の邪魔をしてくれたな」
男が言葉を続ける。その低く重苦しい声が響いた瞬間、周囲の空気が一気に凍りついた。野次馬の村人たちは一斉にうつむき、男と目を合わせようともしない。
「自分が誰に刃向かっているのか、分かってんのか」
「知ってるわよ」
ヴィオラは毅然と言い放った。声こそ震えていたが、その瞳は決して屈服していなかった。
「だったら……俺が誰だか分かってんなら、さっさとそこを退きな。俺にそいつを……。」
「あんたなんか怖くない。弱い者いじめしかできない卑怯者のくせに!」
ヴィオラの甲高い叫び声が響き渡り、その場の緊張感は一気に最高潮へと達した。
『弱い者いじめ』という言葉は、スキンヘッドの男の血管を沸騰させるに十分な燃料となった。男の眉が釣り上がり、怒りを抑えつけるように下唇を強く噛み締める。彼の感情のボルテージは、すでに限界を突破していた。
一瞬の後、男は獰猛な獣のように突進した。重く、しかし驚くほど速い足取りでヴィオラへと肉薄する。その右拳は硬く握りしめられ、少女の顔面を粉砕せんとばかりに振りかぶられた。
「この野郎!」




