第三話:黄金の斜陽
――西暦1774年。
マリーがフランスに嫁いでから、四年が流れていた。
かつて「味の薄いカブのスープ」しか出なかったヴェルサイユ宮殿の食卓は、いまや劇的な変化を遂げていた。
「ルイ! 歯車の噛み合わせを良くするには、油と甘み(砂糖)が不可欠ですのよ!」というマリーの熱烈な(そして少々強引な)プレゼンにより、宮廷のレシピ法はなし崩し的に改正。
宮廷菓子職人の長となったアントナン・カレームが腕を振るう、見た目にも美しい色彩豊かな焼き菓子が日常的に並ぶようになっていた。
十九歳になったマリー・アントワネットの美貌は、いまやヨーロッパ中で知れ渡るほどに開花していた。
光を弾くプラチナブロンドの髪はより艶やかに、アクアブルーの瞳は知性と遊び心を湛えて輝いている。
彼女が微笑むだけで、堅物だったフランス貴族たちさえも「これが二代目の聖女様か……」とため息を漏らすほど、宮廷の空気はかつてないほどに明るく、華やかになっていた。
だが、そんなフランスの「春」とは裏腹に、世界は暗い「冬」の底へと突き落とされようとしていた。
「――酷い有様だ。プロイセンも、オーストリアも、大地のすべてが凍りついている」王宮の書斎で、分厚い眼鏡をかけたルイ16世が、世界地図と各地からの報告書を前に深く嘆息していた。
十九歳になり、国王として即位したルイの体躯はさらに大きくなり、その垂れ目には優しさと、一国の主としての重い責任感が宿っていた。
彼の手元には、妻マリーがオーストリアの母マリア・テレジアから極秘裏に受け取った、悲痛な支援要請の手紙があった。
原因不明の地球規模の冷害――ミニ氷河期。ヨーロッパ全土で大飢饉が発生していた。
畑は枯れ、家畜は死に、連日何千人もの人々が餓死している。
唯一、350年前に初代ジャネットが遺した「黄金の麦」の恩恵を受けるフランスだけが、奇跡的に豊かな実りを維持していた。
「ルイ。お母様が……故郷の皆さまが泣いていますわ。フランスの『黄金の麦』を、どうか彼らにも分けてあげてくださいな!」
マリーがルイの大きな手を握りしめ、アクアブルーの瞳に涙を溜めて懇願する。
「ああ、分かっているよ、マリー。ジャネット様の遺訓は『民を生かす王であれ』だ。ここで飢えた隣人を拒絶すれば、それは王の資格を捨てるのと同じこと。
国境を開放し、押し寄せる難民をすべて受け入れよう」ルイ16世は、その心優しい性質のままに、あまりにも巨大な「善意の決断」を下した。
だが、歴史の歯車は、その優しさを最悪の牙へと変えていく。
「フランスへ行けば、聖女のパンが食べられるぞ!」噂は瞬く間に大陸中を駆け巡った。プロイセン、オーストリア、さらにはイタリアからも、飢えに狂った何百万もの難民が、地鳴りのような足音を立ててフランス国境へと押し寄せた。
さらに、この状況を冷徹に利用する者がいた。プロイセンのフリードリヒ大王の末裔たち、そして経済戦を仕掛けるイギリスである。
彼らは自国の「食いぶち(難民)」を厄介払いとして組織的にフランスへ送り込み、同時にフランスの小麦を買い叩こうと画策したのだ。
国境沿いに設置された難民キャンプの惨状を聞いたマリーは、じっとしていられなかった。
「ルイが政治の仕組みを整えるのを待っていては、今夜のうちに子供たちが死んでしまいますわ!」宮廷の制止を振り切り、マリーはお転婆な本領を爆発させた。
動きやすいモスリンの白いドレスに着替えると、お忍びでフェルセン伯爵の私兵を護衛につけ、カレームが作った大量のスープとパンを馬車に積んで、自ら難民キャンプへと直行したのだ。
「さあ、皆さん! 暖かいスープがありますわよ! 順番に並んでくださいな!」
プラチナブロンドの髪を泥風に揺らしながら、王妃自らが巨大な鍋の前に立ち、お玉を振るって難民の子供たちにスープを配る。
「美しい……まるで、本物の聖女様だ……」
「フランスの王妃様が、俺たちのために泥にまみれて……」
難民たちは涙を流してマリーに感謝し、その姿を馬上の特等席から見守るハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵は、胸を熱くさせていた。
フェルセンは、北欧の貴族らしい涼しげな美貌と、引き締まった体躯を持つ寡黙な騎士だ。
彼は、宮廷の誰もがマリーの行動を「王妃にあるまじき軽挙」と批判する中、ただ一人、彼女の行動の根底にある「剥き出しの純真さ」に魂を奪われていた。
「彼女は、飾り物の王妃ではない。この冷たい世界を温めようとする、本物の光だ……」フェルセンはマリーを守るためなら、いつでも命を捨てる覚悟をその胸に深く刻んでいた。
しかし、マリーのこの「美しすぎる善意の炊き出し」こそが、最悪の罠の餌食となる。
「――ふん、おめでたいお姫様だ。自分で自分の首を絞めていることにも気づかないとはね」
パレ・ロワイヤルの豪華な私邸の奥で、フランス王族の筆頭でありながら王位を狙う黒幕――オルレアン公ルイ・フィリップが、不敵な笑みを浮かべてワイングラスを傾けていた。
「オルレアン公。本当にこれでよろしいのですか? このまま王宮を襲えば、初代ジャネット様の教えである『国内の平和』が壊れてしまいますが……」
デムーランの言葉に、オルレアン公はグラスを叩きつけるように置き、その端正な顔を嫉妬と憎悪で激しく歪めた。
「平和だと? 笑わせるな! 350年前、あの泥だらけの田舎娘がシャルル7世をたぶらかして以来、我がフランスは『清貧』だの『民への奉仕』だのという、呪いのような綺麗事に縛られ続けてきた! そのせいで、我ら貴族は他国を侵略して領土を広げることも、奪った金で贅沢な夜会を開くことも許されず、まるで修道士のように退屈な日々を強制されてきたのだ!」
オルレアン公は窓の外の、飢え始めたパリの街を見下ろした。
「デムーラン。街中に噂を流せ。あのオーストリアの女が、フランス人の血税である『黄金の麦』を盗み、実家のオーストリアや薄汚い外国の難民ばかりに贔屓して配っている、とな」
「お安い御用です、オルレアン公。飢えた民衆に必要なのは、真実ではなく『憎むべき敵』ですからね」デムーランの書いた過激な新聞が、翌朝にはパリの街中に溢れ返った。
【悪女マリー、フランス国民を飢えさせて異国を肥やす】
【我々のパンを奪うオーストリアの狐】
どんなに豊かなフランスの麦畑であっても、ヨーロッパ全土の人口を支えることなど不可能だった。
与えても、与えても、底なし沼のように小麦は消えていく。
難民の数は膨れ上がり、ついに――フランス国内の倉庫の小麦が、完全に底を突いた。
昨日まで世界一豊かだった国が、一瞬にして未曾有の食糧難へと転落する。
そして、明日のパンを失った生粋のフランス国民の飢えと恐怖は、デムーランの流したデマによって、凄まじい「狂気」へと変換されていった。
「俺たちのパンをどこへやった!」
「オーストリアの女を引っ張り出せ!」
夕暮れ時、ヴェルサイユ宮殿の遥か彼方から、地鳴りのような怒号が響き渡る。松明の炎が夜空を赤く染め、怒りに狂った何万もの民衆が、武器を手に王宮へと進軍を始めていた。
善意が招いた共倒れの地獄。フランスを揺るがす「大暴動」の足音が、すぐそこまで迫っていた。




