第四話:狂乱の宮廷
「オーストリアの狐を引っ張り出せ!」
「俺たちのパンを返せ! 泥棒王妃め!」
西暦1789年、十月。漆黒の夜空を不気味に赤く染めるのは、何万本もの松明の炎だった。
激しい雨の中、パリからヴェルサイユ宮殿へと押し寄せた民衆の数は、すでに数万に膨れ上がっていた。
飢えに狂い、デムーランの新聞が書き散らした「悪意」を真に受けた彼らの瞳は、理性を失い、獣のように濁っている。
ドォン! ドォン! と、宮殿の堅牢な鉄門が、民衆の持つ丸太によって激しく打ち鳴らされるたびに、豪華な漆喰の天井からパラパラと白い粉が落ちた。
「陛下! すでに正面の鉄門が突破されました! 暴徒の一部が、武器を手にして中庭へ雪崩れ込んでおります!」
近衛兵の悲痛な報告が、静まり返った王の執務室に響き渡る。
しかし、玉座の横で頭を抱えて座り込んでいる国王ルイ16世は、ただガタガタと巨躯を震わせるだけだった。
その優しい垂れ目は絶望の涙に濡れ、分厚い眼鏡は床に落ちて割れていた。
「なぜだ……。私は、ジャネット様の教え通り、飢えた者を拒まなかっただけなのに。どうして、我が最愛のフランスの民が、私を殺そうとするのだ……。私は、間違っていたのか……?」
優しすぎるがゆえに、誰かを拒絶する冷酷な決断ができなかった王。
彼は自責の念という底なしの沼に囚われ、完全に心を折られて引きこもっていた。
宮廷の空気は最悪だった。オルレアン公に買収された貴族たちは、我先にと荷物をまとめて逃げ出し、残された重臣たちも「すべてはオーストリアの女が難民などを招き入れたせいだ」と、冷ややかな視線をマリーへと一斉に向けていた。
たった四年前まで、彼女の美しさを「二代目の聖女」と称えていた者たちが、小麦が消えた瞬間に、彼女を「国を滅ぼす悪女」へと仕立て上げたのだ。
世界からの、全開の悪意がマリーを襲う。
「マリー様、こちらへ!」
緊迫した空気の中、マリーの腕を強く引いたのは、漆黒の雨合羽を羽織ったハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵だった。
その北欧の冷徹な美貌は、いまや怒りと焦燥で獣のように鋭くなっている。
「私の私兵を宮殿の裏手に待機させてあります。これ以上ここにいては、あの狂った暴徒どもに八つ裂きにされる! ルイ陛下を引きずってでも、今すぐフランスを脱出するのです!」
「フェルセン、でも……!」マリーは、ガタガタと震えるルイ16世と、その兄の傍らで涙を流しながらも必死に兄を支えようとしている義妹マダム・エリザベートの姿を見つめた。エリザベートの可憐な顔も、恐怖で真っ青になっている。
「逃げてどうするのです、フェルセン! 逃げたら……本当に、あの新聞に書かれている通りの『悪女』になってしまいますわ!」
「背に腹は代えられない! 見てください、あの窓の外を!
」フェルセンがカーテンを激しく引き開けた。中庭の暗闇の中、松明の光に照らされていたのは、カミーユ・デムーランの姿だった。
彼は大雨に濡れながらも、狂気的な笑顔を浮かべ、民衆の先頭で大声を張り上げていた。
「見ろ! あの窓の向こうで、オーストリアの女がフランスの小麦を隠し持っているぞ! 奴らは我々が飢え死にするのを見て笑っているんだ! 聖女ジャネットの血を引く我らのフランスを、あの外国の狐から取り戻すのだ!」
「うおおおおおっ!」デムーランの扇動に応じ、暴徒たちが宮殿の窓に向けて一斉に石や鉄パイプを投げつける。
ガシャン! と激しい音を立ててガラスが割れ、冷たい雨風が室内へと吹き込んできた。近衛兵たちは銃を構えていたが、その引き金を引く指は震えていた。
なぜなら、目の前で襲いかかってきている暴徒たちは、350年前、初代ジャネットが命を懸けて守り抜いた「フランスの民」の末裔なのだ。彼らに銃を向けることは、フランスの歴史そのものを否定することに等しかった。
(みんな、私を憎んでいる……。私が、良かれと思ってしたことなのに。誰も、私を信じてくれない……)
耳を突き刺す罵声、夫の嗚咽、割れるガラスの音。押し寄せる圧倒的な孤独と悪意の嵐に、マリーのアクアブルーの瞳から、ついに堪えきれず大粒の涙が溢れ出した。
その華奢な身体が、恐怖で激しく震える。
フランスに来て初めて、彼女は命の危険と、世界中から拒絶される本当の「孤独」を知った。逃げるべきか、ここで殺されるのを待つべきか。
絶望が彼女の心を支配しようとした、その時。マリーの視界の隅に、激しい雨風に煽られながらも、王座の背後で決して倒れまいと佇んでいる、一本の古ぼけた白銀の旗が映った。初代聖女ジャネット・パテーの旗。
350年前、あの少女もまた、イギリス軍という圧倒的な悪意に囲まれ、最後には冷たい法廷で誰からも見捨てられ、孤独の中で火刑に処された。
それでも彼女は、最期まで民を恨まなかった。
(……いいえ。私は、お姫様(飾り物)のまま死ぬのは嫌ですわ)
マリーは、ドレスの袖でゴシゴシと乱暴に涙を拭った。
不思議と、恐怖は消え去っていた。
彼女の胸の奥で、オーストリアから持ってきたあの「お転婆な使命感」が、ドス黒い悪意を燃料にして、凄まじい業火となって燃え上がったのだ。
「エリザベート、泣くのをやめなさい。ルイ、いつまでそうして縮こまっているのです!」
マリーの、凛とした、しかしどこか凄みの利いた声に、室内の全員がハッと息を呑んだ。
マリーはフェルセンの差し出す手を優しく、しかし拒絶するように押し戻すと、真っ直ぐにルイ16世の前へと歩み寄った。
「ルイ。私は逃げません。フランスの王妃として、あの傷つき、狂わされてしまった私たちの『子供たち(民)』の前に立ちますわ」
「マ、マリー……? 何を言うんだ、外には武器を持った暴徒が……」
「狂っているなら、私がその目を覚まさせてみせます。……フェルセン、お願いがありますわ。私の盾として、私をあの中庭へ連れて行きなさい。そして――」
マリーは振り返り、部屋の壁際に静かに控えていた菓子職人の長、アントナン・カレームを真っ直ぐに見つめた。そのアクアブルーの瞳には、かつてないほどの確固たる「秘策の光」が宿っていた。
「カレーム。あのトリアノンの秘密の畑へ走りなさい。……今こそ、初代ジャネット様が遺してくれた『地下の命の塊』を、すべて掘り起こす時ですわ!
」世界全開の悪意に囲まれた絶望の夜。孤立無援の王妃マリー・アントワネットは、ついに「二代目の聖女」としての覚悟を完全に固め、歴史をひっくり返す大逆転の戦いへと、その第一歩を踏み出そうとしていた。




