第二話:白銀の足跡
「――わ、我が目を疑いますわ……! これが、世界一豊かだと謳われるフランス王国の、国王ご一家が召し上がるお夕食ですの……!?」
ヴェルサイユ宮殿の広大な食堂。マリー・アントワネットは、豪奢な銀の燭台に照らされた己の皿を見つめ、アクアブルーの大きな瞳をこれ以上ないほど見開いていた。
あまりの衝撃に、緩やかに波打つプラチナブロンドの髪が、彼女の困惑を示すように細かく揺れる。皿の上に鎮座していたのは、申し訳程度に塩を振られただけの、白くふやけたカブのスープ。
そして、石のようにつやのない、ずっしりと硬いだけの黒麦パン。
以上、である。きらびやかなオーストリア宮廷で、毎夜のように砂糖細工のタワーや色鮮やかなクグロフに囲まれて育ったマリーにとって、それはディナーという名の、ただの修行だった。
「はい、王太子妃殿下。初代聖女ジャネット様の遺訓に基づき、我が王宮の食事は『民に倣い、清貧を重んじるべし』と厳格に定められております。
味付けは塩とハーブのみ、贅沢な砂糖やバターを日常的に用いることは大罪とされているのです」
生真面目な顔をした女官長が、さも誇らしげに胸を張る。
350年間、奇跡の小麦によって「飢え」を免れてきたフランスだったが、その精神は、初代ジャンヌ・ダルクの遺した『清貧』という名の呪縛に完全に囚われていた。
贅沢を悪、質素を善とする、息の詰まるディナータイム。
チラリと横を見れば、夫である王太子ルイ――後のルイ16世が、黙々とその硬いパンを咀嚼していた。
初めて間近で見る夫は、史実の記録通り、十五歳にしてはひどく大柄で、少しぽっちゃりとした体型の少年だった。
決して洗練された美男子ではない。不器用そうに突き出た丸い鼻と、どこか眠たげで心優しい垂れ目が特徴的だった。
彼はマリーの視線に気づくと、酷く人見知りな性質らしく、耳たぶまで真っ赤にして視線を泳がせ、ゴトリとスープの皿に目を落としてしまった。
(……密命のために小麦を手に入れるどころか、これでは私が先に、ひもじさで干からびてしまいますわ!)
マリーの「お転婆な行動力」が、フランスに来て初めて限界突破した瞬間だった。
――その日の深夜。
「お腹が空いては、国を救う知恵も湧きませんわ!」
マリーは寝所を抜け出し、お忍びで深夜の宮廷厨房へと忍び込んだ。狙うは、フランスの厳格な法律でガチガチに縛られた調理場である。
「だ、誰だっ……! 厨房に不審者――って、えええええっ!? 王太子妃殿下!?」
小麦粉の袋の影で、頭を抱えて座り込んでいた一人の少年職人が、飛び上がるように腰を抜かした。
彼の名はアントナン・カレーム。まだ十代半ばの若さながら、卓越したセンスを持つ菓子職人の長だった。
その涼しげな目元には、かつて初代ジャネットの旅団で暗殺者として闇を駆けたという、先祖の鋭い面影がほんのりと残っている。
「シーッ! 声が大きいですわ、カレーム。……あなたも、お腹が空いて泣いていたのかしら?」
「違いますよ! 俺は、この硬いパンと薄いスープしか作らせてもらえない、クソ真面目なフランスのレシピに絶望して頭を抱えていたんです! 先祖の記録には、もっと美味い料理がたくさんあったのに……!」
「まぁ、素晴らしいわ! 話が早くて助かりますこと!」
マリーはパッと顔を輝かせ、袖をまくり上げた。
「カレーム、法律がダメと言うなら、隠れて作ればよろしいのよ! 私がオーストリアからこっそり持ち込んだ、最高級の砂糖とアーモンドの粉を使いなさいな!」
「えっ……まさか、王宮で密造を……!? じ、ジャネット様のバチが当たりますよ!」
「バチなんて当たりませんわ! 美味しいものは、みんなを幸せにするのですから!」
マリーの、誰も拒めないような純真で圧倒的な輝きに、カレームの職人魂が完全に火をつけられた。
二人は深夜の厨房で、誰に見つかるか分からないスリルの中、クスクスと笑い合いながら、オーストリア伝統のレシピにアレンジを加えた「新しいお菓子」を焼き上げた。
オーブンを開けた瞬間、厳格な清貧の厨房に、かつてない甘美なアーモンドとバターの香りが満ちる。
皿の上に並んだのは、ピンクや緑の、ふんわりと丸いカラフルな焼き菓子――「マカロン」だった。
「……王妃様、これをどうするんです?」
呆然とするカレームに、マリー・アントワネットはアクアブルーの瞳を悪戯っ子のようにきらめかせ、不敵にニヤリと微笑んだ。
「ふふ、我がフランスの最高技術責任者となる旦那様の胃袋へ、朝一番にこの『マカロン』を叩き込みに行きますわ!」
翌朝、人見知りの王太子の部屋の扉が豪快に蹴り破られることなど、この時のルイはまだ知る由もなかった。
――翌日。ルイは、自室の作業机で、大好きな時計の歯車をピンセットでいじることに没頭していた。
彼は、人付き合いや宮廷のドロドロした政治が大の苦手だった。
だからこそ、自分の思い通りに規則正しく動いてくれる「機械の仕組み(ギミック)」の中にだけ、心の安らぎを見出していたのだ。何より、オーストリアからやってきた、あの太陽のように眩しく美しい花嫁に、どう話しかけていいか分からず、一日中部屋に引きこもっていた。
そこへ、「ルイ! 素晴らしい『ギミック』のお菓子を持ってきましたわ!」バーン!と、部屋の扉が豪快に開け放たれた。
「ひゃっ……!?」驚いてピンセットを落としたルイの前に現れたのは、昨日のお堅い純白ドレスではなく、リボンを少しあしらった動きやすい私服をまとった、プラチナブロンドの美少女だった。
そのアクアブルーの瞳は、まるで悪戯に成功した子供のようにきらきらと輝いている。
マリーが差し出した皿の上には、見たこともない、ピンクや緑のカラフルな、ふんわりと丸い小さな焼き菓子が並んでいた。
「な、なんだこれは……。我が国の法律では、このような派手な食べ物は……」
「いいから、つべこべ言わずに口を開けてくださいな。はい、あーん!」
「むぐっ……!?」
断る間もなく、マリーの小さな指によって、その奇妙なお菓子がルイの口へと押し込まれた。
その瞬間、ルイの眠たげな垂れ目が、限界まで大きく見開かれた。サクッとした繊細な歯触りの後、口いっぱいに広がる、しっとりとした濃厚なアーモンドの甘み。
そして、経験したことのないバターと砂糖の、圧倒的な幸福の味――「マカロン」である。
「う……美味い……。なんだ、この歯車の噛み合わせが完璧に計算されたかのような、極上の食感は……!」
「ふふ、美味しいでしょう? 機械の計算と同じくらい、お菓子作りも繊細な計算が必要ですのよ」
マリーは誇らしげにふんぞり返り、満面の笑顔を浮かべた。ルイはそのあまりの眩しさに、再び顔を真っ赤にしたが、今度は目を逸らさなかった。
「マリー……君は、すごいな。こんな凄いものを……」
「そうでしょう! これで私たちの朝食はマカロンに決定ですわね!」
「いや、それはさすがに法律が……」
不器用な少年の胃袋と心が、お転婆な美少女の手によって、完璧にノックアウトされた瞬間だった。
――数日後。ルイとの距離を縮め、宮廷内で少しずつ「お菓子による隠れ味方」を増やし始めたマリーは、宮殿の裏手にある、普段は誰も立ち入らない荒れ果てた庭園――「プチ・トリアノン」を訪れていた。
「ここは、初代聖女ジャネット様が、かつてご自身の旅団の者たちと、最後に手入れをされていた特別な農地だと聞いておりますが……」
同行した義妹のマダム・エリザベートが、ドレスの裾を気にしながら教えてくれる。
エリザベートは、まだ幼さの残る可憐な少女だが、兄のルイに似て、非常に慈悲深く澄んだ瞳をしていた。
「まぁ、ジャネット様の畑……!」マリーはお転婆な本領を発揮し、高級な靴のまま、ズカズカと生い茂る雑草の中へと踏み込んでいった。
そして、古い物置の陰で、泥にまみれた一冊の革張りのノートを見つける。
それは350年前、初代ジャネットが遺したという、秘密の「畑仕事のカルテ」だった。
「エリザベート、見てくださいな! 何か書いてありますわ」マリーがノートの埃を払ってページをめくると、そこにはジャネットの素朴な筆跡で、驚くべき言葉が遺されていた。『未来のフランスの王妃へ。もし、あなたの時代に、フランスが未曾有の小麦の危機に陥ったら、このトリアノンの土を掘り返しなさい。ここには、見た目は醜く、当時は誰も食べようとしなかったけれど、どんな痩せた土でも育つ、地下の命の塊を眠らせてあります――』
「地下の、命の塊……?」
マリーはカルテの指示に従い、目の前の黒い土に手をかけ、躊躇なく泥の中に指を突っ込んだ。
「お、お義姉様!? 王妃様が泥を掘るなんて、おやめください!」
エリザベートが悲鳴を上げるのをよそに、マリーが「よいしょ!」と土を引っ張り上げる。
その細い根の先にくっついて、ゴロリと地表に現れたのは――ゴツゴツとした不格好な、しかし力強い生命力を秘めた、茶色い「未知の苗」だった。
「……まぁ。なんて不細工な、お芋かしら?」マリー・アントワネットは、泥のついた顔を傾げながら、その奇妙な球根を太陽の光に透かした。
これが、数年後にフランスを、そしてヨーロッパの全人類を救うことになる「最強の武器」であるとは、この時のマリーはまだ知る由もなかったのである。




