タイトル未定2026/07/02 02:36
翌日の朝の診療所。
看護師の久保由美は、朝からそわそわしていた。
レントゲン室の鍵を開けようとしていたのに、鍵を忘れたままでいたり、備品の準備をしようとしていたのに、忘れてしまってぼ〜っとして立ち尽くしていた。
隣で備品の準備をしていた、園田亜美は見るに見かねてそっと声をかけた。
「……由美ちゃん。ぼんやりして、どうしたの?」
「なんでもない」
慌てて由美は言ったが、備品を落としそうになったり、備品を運ぶ時ドアにぶつかったり、常に挙動不審だった。
午前の診療時間が終わり、休憩室でテーブルに亜美と由美は向かい合って座り、お弁当を食べていた。
四月も、半ばを過ぎようとしていた。
休憩室にあったコタツは、すっかり片付けられていた。
お弁当を食べ終えた亜美は、由美に言った。
「由美ちゃん、朝からおかしかったよ。何かあったの?」
由美はうつむいて、何も答えなかった。
「由美ちゃんらしくないよ、言いたいことがあるなら、何でも言って」
亜美の言葉に反応をするように、由美は顔を上げた。
「聞いて!亜美ちゃん。私、昨日の夜見ちゃったの!仕事帰り、先生と女の人が歩いていたのを。あれ、先生の彼女だよ!」
「由美ちゃん、そのことを朝から、言いたかったの?」
「もう、亜美ちゃんに言いたくて言いたくて〜」
「それで、朝からそわそわしていたんだ。でも、由美ちゃん。その女の人が彼女とは、限らないでしょ」
「私、勤務が終わった後ずっと車の中にいたんだ。女の人診療所の側で、先生を待っていたよ」
「診療所の側で?う〜ん……もしその女の人が彼女なら、そんなところで先生を待っているかなぁ?彼女なら、ちゃんと待ち合わせ場所を決めるんじゃあないかな」
「そう言われてみれば、そうだけど……彼女我慢できずに、診療所まで行っちゃったとか」
亜美と由美は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
笑い終えた亜美が言った。
「その女の人が本当に先生の彼女なら……」
亜美と由美は、声を揃えて言った。
「るかちゃん!」
亜美は、由美に聞いた。
「るかちゃんかなぁ?その女の人。ねっ、どんな女の人だった?」
「小柄で、可愛らしい感じだった。ちょうど街灯があって、それで見ることができた」
「小柄で可愛らしい、るかちゃんかぁ」
午後の診療時間が終わり、最後の患者が診療所を出ると、ホッとした空気が流れた。
診療室の机の椅子に座っていたマスターは、大きく伸びをした。
マスターの助手の看護師の亜美は、何気なく言った。
「先生、お茶でも淹れましょうか?」
マスターは、驚き顔で顔を上げた。
「良いんですか?」
「はい」
亜美は人懐こい笑顔で、返事をした。
給湯室から出てきた亜美は診察室に戻って、マスターの机の上に湯飲みを置いた。
亜美は、コーヒーではなくお茶を入れた。
マスターにお茶を出した亜美は、患者が座る回転椅子に座り、自分もお茶を飲んだ。
コーヒーではなく、緑茶にマスターは驚いた。
「緑茶なんて、久しぶりです」
「たまには、いいかなって思って」
「緑茶も、良いですね。落ち着きます」
マスターの言葉に、亜美は嬉しそうに微笑んだ。
ゆっくりお茶を飲む亜美に、マスターは言った。
「毎日忙しいけど、身体は大丈夫ですか?」
「忙しくて、さすがに疲れるけど、ちゃんと休憩もあるし、皆さん良い方ばかりだから、大丈夫です」
「本当に、皆さん良い方ばかりですよね。安心して、診察ができます」
マスターもゆっくりお茶を飲み、湯呑みを両手に持つと、亜美に言った。
「何か心配ごとがあったら、すぐ言ってください」
「はい。ありがとうございます。先生……」
ゆっくりお茶を飲んでいたマスターに、亜美はそっと言いかけた。
マスターは、湯呑みを置いて亜美の顔を見た。
「昨夜、仕事終わりに先生が女性と会っていたのを、久保さんが見ていたそうです」
亜美の言葉に、昨夜しのぶに待ち伏せされていたことを、マスターは思い出していた。
「背が低くて小柄な女性だと、久保さんは言っていました。彼女のるかちゃんですか?」
亜美の言葉に、マスターは思わず吹き出した。
「先生……?」
流花の存在を言う必要はないから、今までマスターは黙っていた。
もう名前を知られているし、影でこそこそ詮索されるのも、煩わしい。
「昨夜会っていた女性は、彼女ではありません。ただの知り合いです。たまたま通りかかって、ボクが来るのを待っていたんです。ボクの彼女の背は、低くありません。高いです」
「そうなんですか!背が高いって……」
「ボクの肩くらいかな」
亜美が想像をしていた以上の背の高さに驚き、亜美は思わずマスターをみつめた。
「どうしましたか?」
「……そんなに背が高いなんて、思っていなかったから。先生の彼女、モデル並みじゃないですか」
「本人は、全くそんな自覚はありませんが」
マスターは笑いながら言った。
「先生、るかちゃんって、どんな字を書くんですか?」
「流れる花です」
「流れる花と言う字……素敵な字ですね」
緑茶を飲み干したマスターが言った。
「ごちそうさまでした」
亜美はマスターが使っていた湯飲みを、片付けようと手を伸ばした。
その時、まだマスターは湯飲みを手にしていた。
自然にマスターの手に、亜美の手が重なった。
「すみません!」
「かまいませんよ」
亜美はお盆に、湯呑みをふたつ置いて立ち上がった。
お盆を両手にして診察室の扉まで歩き、廊下に出る前に立ち止まって振り返った。
マスターはいつものように、パソコンに向かって作業をしていた。
一瞬だった、マスターと手が触れ合った感触が今でも熱い。
マスターが何気なく言った「かまいませんよ」の言葉が、亜美の胸の中でずっと響いていた。
マスターの彼女流花の存在を知った亜美は、流花のことが気になって仕方がない。
亜美は、マスターの横顔をそっと見つめていた。




