バグ喰らい、世界に認識される
その瞬間だった。
祠の石床に、細い亀裂のような光が走る。
普通のエフェクトではない。地面に刻まれた文字列が、一瞬だけ可視化されたような光だ。
黒衣のNPCが低く呟く。
「まずい……早すぎる」
「何がだ」
「お前が、こちら側へ見えすぎている」
返答と同時に、祠の奥の空間が歪んだ。
違和感。
そう、違和感としか言いようがない。
ゲームのオブジェクトは、どれだけ凝っていても“用意されたもの”として現れる。
だが今、祠の奥で揺れたそれは、本来そこに浮かぶはずのない処理中の何かみたいだった。
視界で捉えた瞬間に形が変わる。
四角いようで、液体のようで、文字列のようで、生き物のようでもある。
灰人のUIが乱れた。
観測対象:未定義
分類不能
名称候補:境界漏出体(仮)
「境界漏出体?」
黒衣のNPCが鋭く言う。
「下がれ!」
遅かった。
歪みの中から、腕のようなものが伸びる。
いや、腕ではない。
“触れてはいけないものが、触れられる形を取った”だけだ。
咄嗟に灰人は横へ飛んだ。
直後、さっきまで自分が立っていた石床がごっそり抉れて消える。
破壊ではない。
削除に近い。
「は、はは……っ!」
笑いが込み上げた。
恐怖と興奮が、同時に来る。
初期プレイヤーが出会う相手じゃない。
チュートリアルにも、バランス調整にも存在しない“何か”だ。
黒衣のNPCが短剣を抜き、歪みに斬りかかる。
刃は半分までめり込み、次の瞬間、火花ではなく白いノイズを散らした。
「物理判定じゃないのかよ!」
灰人は後退しながら状況を見る。
モンスターではない。
攻撃対象とも違う。
敵というより、この場所そのものが侵食されている感じだ。
視界の端で、自分の適性《記録解析》が勝手に反応する。
痕跡読取:高負荷
対象は“ここに存在する”のではなく、“ここへ滲んでいる”
安定点を探してください
「安定点?」
周囲を見る。
歪みは祠の奥から漏れ出し、床の亀裂に沿って広がっている。
その中心に、古びた石碑がある。
最初からあった。
ただ、正面からは見えなかっただけだ。
灰人は走った。
「おい、何をする!」
黒衣のNPCの制止を無視し、石碑へ滑り込む。
表面には、かすれた文字が刻まれていた。だが《記録解析》が重なると、その上に別の層が見えた。
後から書き足されたような、見えない記録。
門を閉じる者は、名を捨てろ。
記録されぬ者だけが境界へ触れられる。
「意味分かんねえよ!」
叫びつつ、灰人は石碑へ手を当てる。
その瞬間、世界がほんのわずかに“反転”した。
音が消える。
色が薄れる。
自分の頭上に、見慣れない表示が浮かんだ。
プレイヤーID:MNM-HITO
状態:世界側観測対象
補正:軽度匿名化
仮処理権限を取得しました
「うわっ、何だこれ!」
だが、分からないなりにやるしかない。
灰人は石碑の前で手を伸ばし、歪みの中心へ向けて叫んだ。
「とりあえず、閉じろ!」
半ばヤケだった。
だが反応した。
祠全体に走っていた亀裂光が、一斉に石碑へ吸い込まれる。
漏出体が軋み、形を失い、白いノイズになって崩れた。
最後に残ったのは、耳鳴りにも似た小さな断末魔だけ。
静寂。
風が戻る。
鳥の声がする。
祠はただの崩れた石造に戻っていた。
「……勝った?」
黒衣のNPCが、信じられないものを見る目でこちらを見ていた。
「お前……何をした」
「聞くな。こっちが聞きたい」
灰人は荒く息をついた。
心臓がうるさい。
手のひらは汗で濡れている。
でも口元は、どうしようもなく笑っていた。
普通のゲームなら、こういう“意味の分からない遭遇”は理不尽として嫌われる。
でも灰人にとっては違う。
理不尽の奥には、たいてい設計の傷口がある。
そして今、自分は明らかにそこへ指を突っ込んだ。
黒衣のNPCは長い沈黙の後、低く言った。
「……やはり、来たか。記録の外を読む者が」
「何の話だ」
「ここから先は、普通のプレイヤーには見えない」
その言葉と同時に、灰人のログに新しい通知が灯る。
特殊接触により、個別層クエストが発生しました。
《境界観測者》ルートが仮解放されました。
注意:このルートは一般公開対象ではありません。
灰人は笑う。
「一般公開対象じゃない?
ますますいい」
黒衣のNPCが、初めてわずかに口元を緩めた。
「なら来い、観測者。
お前はもう、表の世界だけでは満足できない」
祠の奥、さっきまで歪みがあった場所に、今度は細い下り階段が現れていた。
初期プレイヤーの導線に、こんなものがあるはずがない。
普通の街。
普通のクエスト。
普通の強敵。
そんなものを跳び越えて、灰人はもう一段深い層へ足をかけている。
そしてその瞬間、彼はまだ知らなかった。
このゲーム《Elysion Border》がただのMMOではなく、
プレイヤーの観測そのものによって世界の構造が変質していく危うい実験場だということを。
真波灰人は、その最初の異常個体として認識された。
神ゲーの中に、神ゲーが想定していないプレイヤーとして。




