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第4話:屋上:北沢澪

 夕方の光が、校舎の壁をオレンジ色に染めていた。

 撮影スタッフが片づけを始める中、私は小さく手を挙げて言った。


「……最後に、屋上だけ。

 ここ、もう少しだけ撮らせてください」

「屋上? 鍵、開けるんですか?」

「はい。管理の先生に許可いただきました。

 記録用に、定点で回しておいてください。

 ……私と一ノ瀬さんだけにしてください」


 スタッフは顔を見合わせたが、反対する者はいなかった。

 定点カメラが一台、三脚に据えられた。

 小さな赤いランプが点く。

 それだけが、世界の記録装置のように光っていた。


 金属のドアを押し開けると、風が一気に吹き抜けた。

 放課後の屋上。

 昔と同じ、コンクリートの匂い。

 フェンスの向こうに、夕日が沈みかけている。


「ここ、覚えてる?」

 直也くんは少し笑った。

「忘れるわけないよ。

 ……澪との逢引によくここ使っていたな」

「ふふっ……それは覚えていたんだね」

「ああ……」


 ――これじゃダメだ。

 こんな話しをしたい訳じゃない。


「直也くんは、中学の頃までは、たまにサボったり、ボーっとしたりしていたのに……いつからか、そんな時間が全くなくなってしまったよね」

「そうかな」

 彼はフェンスの前に立ち、遠くのビル群を見つめた。

 風が髪を揺らす。

 その横顔に、6〜7年前の面影がかすかに重なった。


 ――明らかに疲れ切っている……もう限界なんじゃないの?


 しばらく沈黙が流れた。

 私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、言葉を探した。

「ねぇ……私は中学時代からずっと直也くんを見ていたから分かるの。

 高校一年生の三学期くらいからかな。

 ……もう、ずっと “走ってる” なって」


 ――直也くんの母親が亡くなってから、彼は走るのと止めなくなってしまった。


「そして、今も変わらず、ずっと走り続けている。

 ……でも人間なんてそんなに走り続けられないよ。

 誰かに無理強いされている訳でもないのに、なんでそんなに生き急ぐの?」


 彼は振り返らずに答えた。

「別に生き急いでいるつもりはないよ。

 でも、走らなければ、間に合わないことが多すぎる。

 立ち止まったら、もう前に進めなくなるかも知れない。

 もう高校生の頃から、オレは、もうずっと、そんな生き方しかできなくなってしまっていたよ」


「それは間違っているよ」

 私は一歩、彼に近づいた。

「もっとゆっくり、直也くん自身が幸せになる道を見つけなきゃ。

 そんなふうにしか生きられない人が、“持続的に成長する未来” なんて作れるわけないでしょ」


 彼は苦笑した。

「……理屈だね、澪らしい」

「理屈じゃないよ。現実の話。

 直也くんは、誰よりも現実的に見えて、誰よりも理想主義者になっているけれど、それを誰にでもない、直也くん自身に押し付けすぎているよ」


直也くんは黙り込んだ。

「中学時代からお付き合いしていたから、私には分かるよ。

 中学生の頃は、もう少しゆっくりとしてマイペースに生きていた。

 高校生になっても、最初の頃まではそうだった。

 でも、高校一年生の三学期に、直也くんが変わってしまったの……」


――契機となったのは、彼のお母さんが亡くなった事だ。それは分かっている。


 直也くんは少し逡巡した後に……ようやく口を開いた。

「澪も知ってのとおり、オレの母親は高校一年生の春から入院していた。

 対処する為の薬の種類もそんなに多くない。

 でも投与された薬が最初は効いてくれたから、その夏に一度は回復した。

 夏休みには退院して自宅に戻ってきたよ。


 でもその秋に再発して肺に転移して……もう病状は絶望的になった。

 あの年のクリスマスには、もう母は死を覚悟していたんだと思う。

 そして見舞いに来ていたオレに “立派になってね” って、言ったんだよ。

 その年に暮れに母はなくなった。

 最後は意識がずっと薄れたままだったから、その “立派になってね” が、事実上、

オレにとっては最後の言葉になってしまったんだよ。


 その言葉が、ずっと……今でもオレの中に残響となっている」


  ――祈りの言葉。息子の未来に願いを託した筈の言葉。


「“立派になる” って……直也くんにとってどういう意味なの?」


 彼は空を見上げた。

 夕日の光がまぶしくて、表情が見えない。


「オレもずっとそれを考え続けてきた。

 まだそれが何なのかは全然分からない。

 ただ、今は……それに到達点は無いんじゃないかと思っている。

 そこにゴールなんかは無い。

 進めば、またその先に次の道が見える。

 だから、また進むしかない。


 休もうとしても、それで本当に良いのか自問自答してしまう。

 それでは立派とは言い難いのではないのか。

 亡くなった人から託された言葉に応えられていないのではないか。

 そうやってオレ自身を駆り立てるものがあるんだよ。」

 そう言って柔らかく微笑んだ。


「それじゃあ、いつか直也くんが壊れちゃうよ!」

 声が震えた。

 風に流されながら、マイクがその音を拾っているのがわかった。


「体が壊れなくても、直也くんの心が壊れてしまう。

 ……もう随分無理をしている。

 必死にそれを取り繕っているけれど、私には分かるの。

 すごく疲れていて、辛そうにしか見えない。

 このままだと絶対に直也くんが壊れる」


 直也くんはゆっくりとこちらを向いた。

「その時は――せめて目指す方向に向かって倒れたいものだね。

 それが立派な終わり方だと思う」


「そんなの、立派でもなんでもない!」


 言葉が溢れた。

「残された人はどうなるの?

 なんでそんな哀しいこと言うの?

 壊れる前に “助けて” って言えばいいじゃん!

 そんな状況から逃げればいいんだよ」


 ――本当の直也くんの実像からどんどん外れていく『虚像』を皆で見上げて、無責任に褒め、称賛しているだけなのに、その期待に更に応える事を自分に強制する。

  この無限ループを破壊しない限り、間違いなく直也くんは壊れてしまう……。


「……澪。オレは逃げることができない人間なんだよ」

 その言葉に、私は唇を噛んだ。

「できるとかできないとか、そんな話じゃない!

 もっとゆっくり生きなきゃ。

 もっと自分を大事にしてよ。

 あなたを走らせてる人たちは、立ち止まらせる勇気を持ってないだけ!

 無責任に “すごい” “天才” 、挙句の果てには “現象” って褒め上げて、あなたが壊れたら、これまで賛美していた筈の人達が、今度は嘲笑したり期待外れだと蔑むような事を勝手に、好き放題に言い出すんだよ!

 メディアもそう。

 投資家もそう。

 きっとテレビを見ているだけの人たちなんて、皆そうだよ。

 そんな奴らの期待に応える必要なんて――直也くんには全く無い!」


 直也くんは目を閉じ、風の音に身を委ねるように黙っていた。

 その沈黙が、逆に痛かった。


「私は、直也くんが本当はそこまで強くない事を知っているの。

 私も直也くんのお母様が亡くなられた後、お葬式に参列していた。

 喪主のお父様は涙を流しながらご挨拶されていたけれど、あなたは全然涙も流さず、毅然として遺影を持ったまま立っていた。

 その後三学期に登校してきた時も、もう普通の笑顔だった。


 ――でも今でも覚えている。


 高校一年生の三学期の、あの二泊三日の宿泊研修で金沢に行った帰り道。

 直也くんは金沢のお土産を、お母様の分までつい買っていたんだよ。

 それまでそうだったように、つい買ってしまったの。

 修学旅行とかの後、いつも自宅に帰ると笑顔を迎え入れてくれた、あなたのお母様のために、喜びそうなものを、つい買ってしまったんだよ。

 東京駅で解散して、自宅戻る途中、電車の中で、私もずっと横にいたから、お互いのお土産を見せ合いしていた時に、直也くん自身が気が付いた。


 その時、なんて言っていたか、覚えている?」


 ――彼の表情は少し強張り、目の奥が光った。


「覚えているよ。『バカだなぁ、オレは。もう自宅に戻っても、誰も待っていないのに』って――そう言ったんだよな……」


「そうだよ。

 そう言って――あなたははじめて泣いたの。

 直也くんが涙を流してくれて……私はすごく安心した。

 そしてあなたを抱きしめたんだよ」

私は、あの時のようにまた涙を流していた。


「お母様のその言葉は、本当は直也くんの未来への “祈りの言葉” だった筈なのに、今は直也くんへの “呪いの言葉” になってしまっている。

 そんなのは、お母様が本当に望んだ事じゃない。

 そんな “立派さ” を我が子に望むような母親なんかいないよ」


――直也くんは苦みに必死に耐えるような表情で私を見ている。


「等身大の直也くんは決して強くないのに、今は必死になって鎧をまとっているみたいになってる。

 今、一番必要なのは――直也くんを、直也くん自身が止める事。

 本当は周囲にいる人たちが必死になって止めるべきだったのに、あなたの周りには、あの義妹さん以外、あなたをもっと走らせるような人たちしかいない。

 まずは直也くん自身が……一度立ち止まって」


 遠くの方でサイレンの音が響く。

 風が少し吹き込んできた。


「私は直也くんの等身大をきちんとみんなに伝えたい。

 等身大のままで、もう直也くんは充分立派だよ。

 私は、だから必死になってそういうコンテンツにする。

 みんなに――見てくれた全ての人に対して、彼を休ませて欲しいと伝える。

 だから直也くんも……せめて時々でいいから休んで。

 仕事から離れて、好きなことをする時間を作って。

 昔みたいにサボったり、ボーっとする時間が今のあなたには必要なの」


 風が吹き抜けた。

 フェンスが小さく鳴った。

 その音だけが、校舎全体に響いた。


 やがて、直也くんがゆっくりと笑った。

「……ありがとう、澪。

 そうかも知れないな。

 もう随分と、オレは確かに無理をしてきていたかも知れない。

 特に最近は酷くなる一方だった。

 ――でも分かった。

 週末は仕事から離れる。

 仕事のペースも見直す。

 澪の言う通り、オレの生き方そのものをSDGsしないとな」


 その言葉に、すべての力が抜けた。

 彼の笑顔は、どこか少年の頃に戻ったように見えた。


 沈黙。

 カメラは止まらず、風の中で二人を映し続けていた。

 夕日の色がゆっくりと薄れていく。


 ――やっと “本当の直也くん” が還ってきたと思った。


 “立派になる” じゃなく、“幸せに生きる” 事こそが大切だと私は伝えた。

 そうなるようにすると直也くんは約束してくれた。

 それから後は他愛の無い話しをした。


 それはテレビに映す筈がないやり取り。

 でも、特定の人にだけは後で見せようと私は決めていた。

 だって “本当の直也くん” は――もともと “私の直也くん” だったのだから。


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