8 地獄に堕ちるとしても
屋敷の東棟の廊下に、若い女の幽霊がいた。
名をアデルといい、三十年ほど前に侯爵邸で働いていた侍女だった。
記憶は比較的しっかりしていたが、死の直前の記憶だけが激しく歪んでいた。
ヴィオレットはその部分を無理に触らず、アデルが話したいときに話せるよう、ただ時間をかけて向き合ってきた。
アデルは今夜、東棟の窓の前に立っていた。外の雪を見ているのか、あるいはただそこにいるだけなのか、判然としない佇まいだった。
「アデル」
侍女の幽霊が振り返った。死んだときの年齢のまま固定された顔が、ヴィオレットを見てわずかに表情を和らげた。
「ヴィオレット様」
「私が出ていくことを、伝えておきたかったの」
アデルはしばらく黙っていた。窓の外では雪が降り続けている。
「……やはり、そうなりますか」
「あなたも予想していましたか」
「そうなるだろうと思っていました」アデルは静かに言った。
「この屋敷はヴィオレット様に優しくない。ずっと前からそうでした」
「あなたが勤めていた頃からこう?」
「いいえ」アデルは首を振った。
「もっと前からでしょう、多分。この家は王家の影として、長いこと暗いものを抱えてきた。それが染みついているんです、血や心の奥底に」
ヴィオレットはその言葉を聞きながら、リーゼが言っていたことを思い出した。
積もり積もった怨念は、罪のない子供にまで向かう、と。
「アデル、一つ聞いていいですか」
「はい」
「あなたが死んだのは、事故ですか」
長い沈黙だった。アデルの輪郭が、ほんのわずかに揺らいだ。
幽霊の感情が強くなると、輪郭が不安定になる。
ヴィオレットはそれを知っていたから、答えを急かさなかった。
「……事故として、処理されました」アデルはゆっくりと言った。
「私が知りすぎたから、でした」
ヴィオレットは言った。
「ただ――あなたが不当に命を奪われたのだとすれば、いつかその話を聞かせてください。私が出ていった後でも、会いに来ることはできます」
幽霊は場所に縛られるが、術者は縛られない。
「会いに来てくれるのですか」
「約束はできません。でも、もしあなたが、その……」
アデルはしばらくヴィオレットを見つめた後、微笑んだ。生きていたころはずいぶん美しい侍女だったのだろうと思わせる笑みだった。
ヴィオレットにとってその先の言葉は脳がブレーキを掛けていた。
今まで散々期待しては裏切られたものだからだ。身体の持ち主を守るため、口が動かない。
ヴィオレットは不思議だった。上手く考えがまとまらない。何か恥ずかしいような、恐ろしいような気がする。
(もし私に会いたいと思ってくれるなら)
それは形を変えて口から出てきた。
「誰かに話すことで楽になるのだとしたら……」
「どうかお元気でいてください、ヴィオレット様」
「ええ、有難うアデル。さようなら」
ヴィオレットは廊下を戻りながら、アデルが知りすぎたもの、という言葉を頭の隅に置いておいた。
侯爵家の秘密は、ヴィオレットが思っているより深いのかもしれない。それを知る必要があるかどうかは、今はまだわからなかった。
◇◇◇
「死神様」
「何でしょうか?アデル」
リーゼは夜中にアデルの呟きによって呼び出された。
応対しなくても良かったが、リーゼにとってきっと必要な気がした。
「死神様は人の命をお取りになるのがお仕事でございましょう。この家から離して、ヴィオレットお嬢様のお命をお取りになるのではないですよね?」
アデルは、そうであれば許さないと言わんばかりの攻撃的な目をしていた。
たかが幽霊一人が死神に出来ることなど何もない。
余程の怨霊ともなれば別だが、そうなるにはアデルは冷静すぎた。
「むしろこの家にいる方が危ないでしょう。貴方だってこの家の連中がヴィオレットをどう扱ってきたか
知っているはずよ」
「ええ、ええ勿論です!あんな無抵抗な子を!」
アデルの背中からその姿が揺らぐ。
「死神様、あなたは何のためにこの家におられるのですか?」
「仕事のことを指しているのなら、貴方が認識している通りよ、アデル。これから死ぬ魂の回収よ、貴方がそれを早く生み出してくれそうね?」
「復讐は地獄に向かうことにはならないですか?」
「死後の世界について私が伝えることは出来ないけれど」
震えるアデルに向かってリーゼは真っ直ぐ向き合った。
地獄に堕ちるとしても復讐を完遂しようとする、正確にはヴィオレットを虐げた連中への復讐を代行しようとする母のような気持ちに向けて真摯に回答した。
「ここ以上の地獄があると思う?」
「そうですわね」
アデルは歯茎を剥き出して、大きく裂けた口を開けて笑った。




