9 幽霊が棲む家
出発は夜明け前と決めていた。
荷物はできる限り少なくする。
目立つ侯爵家の紋章入りの衣服は、さすがに義妹も紋章に負けて手を出さなかったし、生地は売れそうだけど、嵩張るので置いていく。
他には替えの服と下着数着、薬草に関する小さな本とノートが二冊、貯蔵庫に残しておいた僅かな金銭。あとは加護だけだ。
加護は重さも厚さもない。
ヴィオレットは自室の窓から外を見た。
屋敷の庭は雪に覆われており、足跡がつく。それは懸念事項だったが、一度街に入ってしまえば、魔法を応用した除雪車なるものが雪を消しているから撒けると判断した。
「荷物はそれだけ?」
天井のシャンデリアにリーゼが腰掛けていた。普段より一層彼女の身体は透けて見えた。
「ええ」
「寂しくない?」
「今更です」
「ふうん」
リーゼは足をぶらぶらさせた。
「私はずっと一緒ってわけじゃないわよ、念のため言っておくと」
「知っています」
リーゼは死神としての仕事がある。
ただヴィオレットの側にいるわけではない。
今までもリーゼが姿を見せるのは、彼女が気が向いたときだけだ。
これまでもそうだったし、これからもそうだろう。そう思っていた。
「……付いてきてって言っても良いんだけど。そうじゃないから貴方なのよね。時々会いに来るわ」
「お茶を出せるように用意できるよう努力します」
リーゼは笑った。
「相変わらずね。」
死神は珍しく、静かな声でそう言った。
「お茶、楽しみにしているわ」
ヴィオレットは早く家を決めて仕事を始めなければと目の前のことを考えていた。その胸の内が少しばかり温かいことには気が付かなかった。
夜明けまで、あと一時間ほどあった。ヴィオレットは荷物を手に取り、部屋を最後に一度見回した。
長い年月を過ごした部屋だった。
でも愛着があるかと問われれば、正直なところよくわからない。
この部屋で多くの時間を過ごしたことは確かだが、それが愛着を生むかどうかは別の問題だ。
義妹に鍵を壊された扉、義妹の友人に衣服を汚されたクローゼット、使用人が覗き見のために細工した窓の留め金。
思い出の多くは、あまり良いものではなかった。
ヴィオレットは部屋を出た。
廊下を歩く足音を最小限に抑えながら、裏口へ向かった。
使用人たちが起き出す前の時間、屋敷の中は静まり返っていた。どこかの部屋で、かすかないびきが聞こえた。
誰かの幽霊が廊下を漂っているのが見えたが、それはヴィオレットがまだ記憶を取り戻してやれていない幽霊の一人だった。
ヴィオレットは小さく頭を下げた。幽霊には届かなかったかもしれないが、それでもそうした方が良いと無意識に行った行為だった。
聞こえなくても見えなくても、雪の欠片のようにささやかな行為でも、ヴィオレットが会うたびにしていたそれは、ぼんやりとした幽霊の意識の中に少しずつ少しずつ影響を与えていた。
幽霊の目玉から涙が溢れた。
「こういうところが放っておけないのよね」
リーゼはヴィオレットから少し離れて後方に浮かびながら呟いた。
裏口の錠を静かに開けた。冬の空気が流れ込んできた。刺さるように冷たく、雪の匂いがした。
ヴィオレットは屋敷を振り返らなかった。
振り返る理由が、思いつかなかった。
◇◇◇
王都ラングリードの外れに、ルード町と呼ばれる古い建物が集まる区画がある。
かつては職人街だったが、今は半分ほどの建物が空き家になっており、残りの半分は家賃の安さを求めて流れてきた人々と、昔からの愛着で住んでいる人々だった。
治安は良くも悪くもなく、貴族が足を踏み入れることも、憲兵が巡回を念入りにすることもない。透明な場所だ。
ヴィオレットはその区画の中ほどにある二階建ての古家を借りた。
家賃は安く、前の住人が何かを怖がって逃げ出したらしいという噂があった。
とにかく安い物件を借りたいと言った時、不動産屋も大家も後ろめたそうに「幽霊が出るかもしれない」と言った。
ヴィオレットが「それでも構わない」と答えると、ずいぶん安堵した顔をした。
幽霊が出るかもしれない家を、死神の加護持ちが借りる。
これほど適した物件もないだろうと、ヴィオレットは思った。
予想通り、その家には幽霊がいた。三十代くらいに見える男の幽霊で、記憶はほとんど失われていたが、悪意のある霊ではなかった。
ただただ長い時間をかけて摩耗し、自分が何者かもわからなくなっていた。
ヴィオレットは引っ越した初日の夜から、彼の記憶を取り戻す作業を始めた。
屋敷でヴェルナーに三度かかったところを、今回は慣れた分だけ速く進められた。
五日目に、男性は目を開いた。
「……人形だ」と落とし物を見つけたように目を輝かせながら言った。
「俺は、人形職人だった」
「名前は」
「エドガー。エドガー・リング」
「エドガー」ヴィオレットは繰り返した。
男性はうんうんと頷いた。名前があること、呼ばれることに信じられないと言うように、目まで両手で覆った。
「私はヴィオレット。この家を借りた者です。あなたが嫌でなければ、しばらく一緒にいても構いませんか」
男性の幽霊は困ったような、しかし悪くなさそうな顔をした。
「この家に、若い娘が一人で住むのか」
「そうです」
「物騒じゃないか」
「あなたがいます」
エドガーはしばらく何も言わなかった。それから、くつくつと笑い出した。どこか人間らしい笑い方だった。
「そういうことか。俺が番犬代わりか」
「番犬よりは少し違いますが、概ね」
「まあいい」エドガーは笑いをおさめた。
「俺も長いこと一人だった。誰かと話せるなら、それでいい」
こうしてヴィオレットの新しい生活が始まった。




