7 離れがたい
アッシュフォード侯爵邸には、七人の幽霊が棲んでいた。
ヴィオレットが数えた限りでは、という話だ。
屋敷の敷地が広いため、見落としがある可能性は否定できない。ただヴィオレットが見て回れる範囲で確認した結果として、七人という数字に落ち着いている。
最も古いのは地下の貯蔵庫に棲む老人で、百年ほど前にこの屋敷の建設に携わった大工だった。
建設中の事故で亡くなり、そのままここに縛られている。
記憶はひどく断片的で、ヴィオレットが初めて会ったころはほとんど正気を失っていた。
自分の名前すら定かでなく、暗い地下で何かを叩く動作を繰り返すばかりだった。
ヴィオレットが記憶を取り戻してやるのに、三度の試みが必要だった。
死神の加護のうち、幽霊の記憶を取り戻させる力というのは、繊細な作業を要する。
意識を相手の記憶の層へ潜り込ませ、失われた断片を丁寧に手繰り寄せる。
無理に引っ張れば記憶ごと壊れる。時間をかけて、少しずつ。
まるで水底に沈んだ細かな破片を一枚一枚拾い集めるような作業だ。
三度目の試みのあと、老人は初めてはっきりした目でヴィオレットを見た。
「……ヴェルナーだ」と彼は言った。「俺の名前は、ヴェルナー・ハルトだ」
ヴィオレットは十三歳だった。実験が成功したときの静かな達成感があった。
ただ、今まで毒だの薬だので繰り返してきたそういうものとは何かが違う気がした。
胸の中央部がグッと押されるような感覚や、そこから花が開花する時のような、血管を伝って温度が身体中に流れ込んでいくような不思議な感じがあった。
ヴェルナーが泣いている様子や、ヴィオレットの手を取って、有難うという言葉がそれを加速させた。
「貴方の言葉が届いた感動、と呼ぶんじゃないかな」
リーゼはゆっくりした口調でそう言った。
それからヴェルナーは地下の番人のような存在になった。
貯蔵庫に手を出そうとした使用人を散々怖がらせて追い返したことがあり、以来その区画には使用人も積極的に近寄らなくなった。
ヴィオレットの隠れ場所の一つが守られているのは、ヴェルナーのおかげだ。
私室に置いておくと服飾品は大抵盗られたり傷つけられてしまうので、普段はここに隠している。
七人のうち、記憶を取り戻してやれたのは四人だった。残り三人はまだ霧の中にいる。焦らず時間をかけるつもりでいたが――もう時間はそれほど残っていない。
ヴィオレットは地下への階段を降りながら、ランプを持つ手に少し力を込めた。
「ヴェルナー」
薄暗い貯蔵庫の奥から、ずるりと何かが滲み出るように老人の輪郭が現れた。
幽霊の現れ方はそれぞれ違う。ヴェルナーはいつも、壁から滲み出るように出てくる。
「嬢ちゃん。こんな時間に珍しい」
「少し話があります」
老人の幽霊は、生前の記憶を取り戻してからというもの、驚くほど饒舌になった。
百年分の孤独を埋めるように喋る。
ヴィオレットはそれを煩わしいとは思わなかった。ただ今夜は時間がなかった。
「私はこの屋敷を出ようと思っています」
しばらく沈黙があった。ランプの炎が揺れた。
「……そうか」
「あなたたちのことを、連れていけません」
幽霊は場所に縛られることが殆どだ。
死んだ場所、あるいは強い執着のある場所から、遠くへは動けない。
ヴェルナーは地下の貯蔵庫からせいぜい敷地の端まで移動するのが限界だと言っていた。
「わかってる」ヴェルナーは低く、穏やかな声で言った。「嬢ちゃんが出ていくのは、正解だ」
「そう思いますか」
「ここは嬢ちゃんがいるべき場所じゃない。ずっとそう思っとった」
老人の幽霊は、皺だらけの顔に複雑な表情を作った。「俺らのことは気にするな。俺は百年ここにいた。あと百年いても、どうということはない」
ヴィオレットは少し黙った。
「残りの三人のことが、少し気がかりです。まだ記憶を取り戻してやれていない」
「俺が見ておく」ヴェルナーは言った。
「なんせ時間だけはある。俺にも何かできることがあるかもしれん」
「残念ながら貴方には加護を授けてないわよ?」
死神の水を差すような指摘にもヴェルナーは怒るそぶりすらなく、うんうんと頷いていた。
「わかってる。でも話しかけることはできる。話しかけ続けることはできる」
ヴィオレットはしばらくヴェルナーを見た。
百年前に死んだ大工の幽霊が、ランプの光の中で薄く透けて存在している。
この老人が自分に親切にしてくれた理由を、ヴィオレットは深く問うたことがなかった。
ヴィオレットはそれを素直に受け取って感謝していた。
けれど、それだけではいけないような気がした。
心の奥がモヤモヤと渦巻く。この場所から離れがたかった。それを寂しいという愛着であることをヴィオレットは知らなかった。
「今まで有難うございます、ヴェルナー」
言い慣れない気がした。ヴィオレットには今まで、こうして心を込めて言葉を発する機会が与えられていなかった。
有難うと思える行為をされたことがなかった。親からの無償の愛も、兄妹の思いやりも、自分を支えてくれる使用人からの信頼も、何もなかった。
それに寂しさは、別れの挨拶をすることでハッキリと形を持ってしまった。
老人は照れたように顎を引いた。
「嬢ちゃんが達者でいれば、それでいい」
そしてヴェルナーは何か数言リーゼとも言葉を交わした。
死人と死神の言葉はヴィオレットには聞こえなかった。死者は意図的に生者に聞かせる言葉と聞かせない言葉を選べるようだ。
◇◇◇
「嬢ちゃんが捨てて行くと決めたんじゃ、心置きなくやって良いな?死神さんよ」
「ええ、私には貴方のその行動を止める権利はない。復讐したいならしたら良い。ただそれに無垢な子供が巻き込まれなければ良いの。
無垢な子供はもういなくなるから、別にこの家がどうなろうと構わないわ」
ヴェルナーは獰猛に笑った。




