1 灰色の令嬢
この世界には、神や精霊が存在する。
それは伝承の話でも、信仰の中だけの話でもない。
彼らは気まぐれに人の前に現れ、気に入った者へ力を与え、そうでない者の前からは何事もなかったように去っていく。
その力を「加護」と呼ぶ。
炎を操る者、風を読む者、大地に命を芽吹かせる者。加護を持つ者は持たない者に比べて、あらゆる面で隔絶した才を発揮する。
この国も他の多くの国と同じようにそうした人材を見逃さなかった。
三百年前、当時の王は加護持ちの者を積極的に召し抱え、優遇した。
彼らに土地と名誉を与え、国家の要所に置いた。それが貴族制度の始まりだと、歴史書には記されている。
神や精霊は加護を与えた者の子供や孫にも目をかけることが多く、かくして貴族の家系には代々加護持ちが多く生まれるようになった。
加護は血と歴史に根ざした、貴族としての証明でもある。
だからこそ、加護を持たない貴族の子供というのは――。
ヴィオレット・アッシュフォードは窓の外を眺めながら、そこまで考えて思考を止めた。
考えるまでもないことを考えるのは時間の無駄だ。
自分がこの国で貴族社会で、この家でどのような存在であるかは、もう充分に知っている。
秋の午後の光が、書庫の細長い窓から斜めに差し込んでいた。埃の粒子がその光の中をゆっくりと漂っている。
ヴィオレットは膝の上に開いた本から視線を上げ、しばらくその光を眺めていた。
書庫は静かだった。使用人たちがここに来ることはほとんどない。
古い紙と木の棚が発する、黴と墨が混ざったような匂いの中で、彼女は一人でいることに慣れ切っていた。
正確には、一人ではないのだけれど。
「また難しい顔をしている」
声は本棚の陰から聞こえた。人間のものとは少し違う、透明感のある声だった。
ヴィオレットは表情を変えずにそちらを見た。
本棚の最上段に、女が腰掛けていた。
白に近い銀の髪が肩から流れ落ち、瞳は薄い紫だった。
年齢は判じがたい。三十代にも見えるし、もっと上のようにも若くも見える。華やかな顔立ちが憂いと色香を纏って落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
着ているものは喪服のように黒い、シンプルなワンピースだが、布の質感がどこか現実のものではなかった。
光の当たり方が、周囲の物体とわずかにずれている。
女、死神は本棚の上で足をぶらつかせながら、ヴィオレットを見下ろしていた。
「別に難しい顔はしていません、元からこういう顔です」
「うそ。眉間に皺が寄っていたよ」
「もしそうなら、それはあなたが突然現れるからです、リーゼ」
死神リーゼは声に出して笑った。鈴が鳴るような笑い声だったが、ヴィオレット以外の耳には届かない。
この屋敷でリーゼの声を聞けるのは、ヴィオレットだけだ。
「何を読んでいるの?」
「植物の薬効について」
「物騒な用途に使えそうなものを探しているの?」
「普通に薬草の勉強をしているだけです」
ヴィオレットは本に視線を戻した。
「あなたは人を悪人扱いしすぎる」
「そう? でもあなたが知識を蓄えるときは、たいてい何かに備えているときでしょう。最近また何かあったの?」
ヴィオレットは答えなかった。沈黙は肯定だとリーゼは知っているし、ヴィオレットも知っている。それでも言葉にしないのは、言葉にするほどのことでもないと思っているからだ。
慣れてしまえば、傷は痛みを忘れる。ただ面倒なものになる。
痛みはしないが、重たくて、口唇を動かすのも面倒なもの。ヴィオレットは溜息をついた。
「部屋の鍵を壊されました。それだけです」
「それだけ、ねえ」
リーゼの声から笑いが消えた。ヴィオレットは気にせず本のページをめくった。
アッシュフォード侯爵家の次女として生まれてから十七年、ヴィオレットの日常はおおむねそういうものだった。
針が紛れ込んだ手袋、飲み物に混じった下剤、廊下に撒かれた油、わざと遅らせた食事。
悪意というものは、これほど豊かな想像力で実行されるものかと感心することすらある。首謀者は義妹のイザベルであり、実行するのはイザベルに懐柔された使用人たちだ。
イザベルはヴィオレットの父が後妻セシリアと再婚した際に連れてきた娘で、光の加護を持つ、見目の麗しい少女だった。
柔らかな金の巻き毛と翠の瞳を持ち、社交界では幼いころから将来有望な令嬢として名が知れていた。
そのイザベルが、加護を持たない義姉を疎ましく思っているのは、ヴィオレットにも理解できた。
加護のない貴族の娘など、この国では存在そのものが矛盾だ。




