16 家族みんなでお揃いです side:アッシュフォード侯爵家
同じ夜、怪異は家族全員へ向かった。
ロランドは執務室で仕事をしている最中、突然呼吸ができなくなった。
喉に何かが詰まっているわけではない。
首を絞められているわけでもない。
それでも、どれだけ息を吸おうとしても空気が入ってこない。
椅子から転げ落ち、床へ膝をついた。
助けを呼ぼうとしても声が出なかった。
炎の加護を使おうとしても、意識を集中できない。
視界が暗くなり始めたところで、ようやく呼吸が戻った。
ロランドは床に手をつき、激しく咳き込んだ。
何が起きたのか理解できなかった。
病気かと思った。
毒を盛られた可能性も考えた。
その時、部屋の中で何人もの足音が聞こえ始めた。
一人や二人ではない。
見えない人間たちが、自分を取り囲むように歩いている。
「誰だ!」
ロランドは炎を生み出した。
足音のする方向へ火を放つ。
何もない空間を炎が通り過ぎた直後、再び呼吸が止まった。
今度は先ほどより長かった。
ロランドは床を掻きながら必死に空気を求めた。
意識を失う寸前、耳元で声がした。
「怖いか?」
呼吸が戻った。
ロランドは身体を丸め、何度も咳き込んだ。
「誰だ……何が目的だ」
複数の声が、部屋のあちこちから笑った。
ロランドは初めて、本気で恐怖した。
同じ頃、継母は自室から出られなくなっていた。
扉は開く。
しかし廊下へ出たはずなのに、気づけばまた同じ部屋の中へ戻っている。
何度繰り返しても同じだった。
夫を呼んでも、イザベルを呼んでも、使用人を呼んでも誰も来ない。
やがて、どこからともなく幼い少女の泣き声が聞こえ始めた。
「誰なの?」
返事はなかった。
何時間経ったのかも分からなくなった頃、幼い声がようやく問いかけた。
「寂しい?」
継母は息を呑んだ。
「……誰なの。ここから出してちょうだい!」
「誰も来ないね」
その言葉に、継母はヴィオレットを思い出した。
自分は、誰かが世話をしていると思っていた。
「……私は知らなかったのよ」
思わず弁明した。
「あの子は何も言わなかったもの!私だって、頼られれば何かしたわ」
すぐ近くから声がした。
「本当に?」
継母は答えられなかった。
「嘘」
直後に窓もドアも開いていないのに、猛烈な冷気が部屋に充満した。部屋の隅には霜が降りた。
蝶よ花よと育てられた貴婦人は、死ぬかもしれないと思っても、自分一人ではどうしたらいいのか分からなかった。
その夜、彼女は指先が千切れるほどに痛くても、寒さで息をするのも痛いほどの暗い部屋で、誰にも助けてもらえない部屋で、朝まで一人きりで過ごした。
そしてクロードは、完全な静寂の中へ閉じ込められた。
自室から、突然すべての音が消えた。
自分の声も聞こえない。
扉を叩いても、机を倒しても、何の音もしない。
助けを求めて叫んでも、自分にさえ聞こえなかった。
やがて机の上へ、ゆっくり文字が浮かび上がった。
『誰かが来ると思っている?』
クロードは息を呑んだ。
続けて別の文字が現れた。
『医師がいるから。父親がいるから。使用人がいるから。自分が行かなくても、誰かが行くと思っていた?』
ヴィオレットが大怪我をした日のことを思い出した。
自分は仕事を優先した。
医師がいる。
父も屋敷にいる。
誰かが付き添っている。
そう思って、妹の部屋へ行かなかった。
クロードは扉を叩いた。
何の音もしなかった。
誰も来なかった。
ふっと灯りが落ちた。
クロードは音にならない悲鳴を上げた。
その状態は朝まで続いた。
翌朝、食堂へ集まった四人は、誰もまともに眠れていなかった。
ロランドは昨夜の出来事を毒や敵対者による攻撃の可能性から考えようとした。クロードも、屋敷へ何者かが侵入しているのではないかと疑った。継母は顔色を失ったまま、何も話したがらなかった。
イザベルだけは、恐怖と怒りのままに言った。
「お姉様よ!絶対にお姉様に関係してるわ!」
「ヴィオレット本人が何かしていると決まったわけではない」
「だったら何なのよ!お姉様がいなくなってから始まったでしょう?」
ロランドは答えなかった。
「お姉様を捜してよ!」
イザベルは父へ訴えた。
「見つけて、全部止めてもらえばいいでしょう?」
「本人に何ができるか分からないだろう」
「でも何か知っているかもしれないじゃない!」
継母も弱々しく頷いた。
「まずはヴィオレットと話した方がいいと思います。あの子なら、家族が困っていると分かれば無視はしないでしょう」
クロードも反対しなかった。
「そうだな。こちらの状況を説明すれば、少なくとも協力はするはずだ」
四人はヴィオレットを捜し出すことを決めた。
その時点でも、誰一人として謝りに行こうなどとは考えていなかった。
自分たちを助けてもらおうとしていた。
自分たちが一度も助けなかった相手に。
その夜から、怪異はさらに激しくなった。
イザベルは眠りに落ちるたび、後頭部を砕かれるような激痛で目を覚ました。
ロランドはいつ呼吸を奪われるか分からない恐怖から眠れなくなり、継母は一人で扉を開けることさえできなくなった。
クロードも周囲の音が途切れるたびに顔色を変えた。
使用人たちも同じだった。
誰も死んではいない。死ぬほどではない。
しかし、まともに眠れる状態ではなかった。
屋敷全体が、少しずつ壊れ始めていた。
それでも、彼らはまだ自分たちが何をしたのかを考えようとはしなかった。
全員が願っていたのは、ただ一つ。
ヴィオレットに戻ってきてほしい。
彼女を愛しているからではない。
会いたいからでもない。
自分たちを、この苦しみから助けてもらうためだった。




