14 怨念の向かう先 side:アッシュフォード侯爵家
ヴィオレットが屋敷を出て三日が経つまで、アッシュフォード侯爵家では誰一人として彼女の不在に気づかなかった。
それは別に、ヴィオレットが頻繁に屋敷を留守にしていたからではない。
単純に、誰も普段から彼女がどこにいるのかを確認していなかった。
食事の席に姿がなくても、自室で食べているのだろうと思われる。
廊下で見かけなくても、部屋か庭にいるのだろうと考えられる。
使用人ですら、自分の担当する仕事はイザベルの指示で放棄していたし、よほどの用がなければヴィオレットの部屋を訪れる理由はなかった。
門番だけは実は、早朝に一人で屋敷を出て行くヴィオレットを見ていた。
しかし彼にできるのは、侯爵家の令嬢が出かける姿を見送るところまでだった。外出するなと命じられているわけでもないヴィオレットを、使用人の立場で引き止める理由はない。
ましてこの家は王家の影として活動しているので、使用人が家人の行き先を知らないことも、数日帰ってこないことも珍しくなかった。
そして三日が経っても、家族の誰からもヴィオレットの居場所を尋ねられなかった。
だから、門番もわざわざ報告しなかった。
そこには何もおかしなことはなく、いつも通りだった。
最初にヴィオレットの不在を口にしたのはイザベルだった。
「そういえば、最近お姉様を見ていないわね」
昼食の席で何気なく言っただけだった。
継母もすぐには気に留めなかった。
「お部屋にいるのではなくて?」
「そうかもしれないけれど、少し聞きたいことがあるの。誰か呼んできてくれる?」
近くにいたメイドがヴィオレットの部屋へ向かった。
イザベルはただ、最近「娯楽」の対象がいないので、退屈しただけだった。
イザベル付きのメイドにしては時間がかかり、しばらくして戻ってきた時には、少し困惑した顔をしていた。
「ヴィオレット様はお部屋にいらっしゃいません」
「庭じゃないの?」
「それが……庭にもいらっしゃらず、数日見かけた使用人もおりませんでした。お部屋のお荷物も少なくなっているようです」
そこで初めて、屋敷の中を捜すことになったが、ヴィオレットは見つからなかった。
門番に確認すると、三日前の早朝に一人で出ていったという。
報告を受けたロランドは、すぐに門番を呼びつけた。
「なぜ三日も黙っていた」
「申し訳ございません。ただ、ヴィオレット様がお出かけになること自体を、私の判断で止めることはできませんので……」
「戻らなければ報告くらいできただろう!」
門番は可哀そうなくらい頭を下げた。
ロランドは苛立っていた。
しかし、その苛立ちは娘の身を案じるものとは少し違った。
自分の知らないところで家を出られたことが気に入らなかったのだ。
「人を出して捜せ。見つけたら、すぐに連れ戻せ」
それだけ命じると、ロランドは執務へ戻った。
なぜヴィオレットが家を出たのかについては、考えなかった。
少なくとも、まだ考える必要があるとは思っていなかった。
ヴィオレットは普段から感情を表に出さない娘だった。だが口が利けないわけではない。
何か不満があったのなら、言えばよかったのだ。
何も言わず、察してほしいとばかりに勝手に出て行き、人の手を煩わせるなど、侯爵家の自覚が足りないとさえ思っていた。
一方のイザベルも、姉が本当に家を出たと聞いて驚きはしたものの、心配はしていなかった。
「どうせ戻ってくるわ」
母の部屋で紅茶を飲みながら、そう言った。
「でも、一人なのでしょう? 大丈夫なのかしら」
「お姉様に行くところなんてないもの。友達だっていないでしょう?」
継母は何か言いかけたが、イザベルは気にせず続けた。
「それに、本当に嫌なことがあったなら、誰かに言えばいいじゃない。何も言わないで急にいなくなったって、私たちには分からないわよ」
「そうね……」
「昔からそうなの。何を考えているのか全然分からないんだから」
イザベルは、自分が姉のことを知ろうとしなかったとは考えなかった。
分かるように話さなかったヴィオレットの方に問題があると思っていた。
その日の夜、最初の異変が起きた。
厨房で片づけをしていた使用人が、誰もいないはずの背後から少女の声を聞いた。
「お腹が空いた……」
振り返っても、誰もいない。
廊下へ出ても、人影はなかった。
疲れているのだろうと思い、使用人は仕事を続けた。
しかし、しばらくするとまた聞こえた。
「今日は、まだ?」
今度は耳元に近かった。
使用人はさすがに手を止めたが、それでも誰かの悪戯だと思った。思い込むように努力した。
この程度で仕事を辞めるという発想はなかった。
侯爵家の使用人という職を手放せば、次に同じ条件で働ける保証はない。奇妙な声が一度や二度聞こえたくらいで、生活の基盤を捨てるわけにはいかなかった。
翌日の夜も、声は聞こえた。
その次の日も続いた。
声を聞く使用人が増えていった。
そして、少しずつ声だけでは済まなくなった。
ヴィオレットの食事を意図的に遅らせ、時には飲み水に下剤を混ぜていた使用人は、何を食べても空腹が消えなくなった。
朝食を食べても、昼には耐え難い空腹に襲われる。
気の弱い使用人を脅して、昼食を普段の倍食べても、夕方には腹の奥が焼けるように空腹を訴えた。
しかし勿論、急に普段の何倍も食べ続ければ胃が痛む。
吐けば、すぐにまた腹が減る。
そして眠ろうとすると、枕元で少女が囁いた。
「お腹が空いたでしょう?」
使用人は布団を頭まで被った。思い当たる節があった。
「私は……ちゃんと食事を出していたわ」
「本当に?」
答えられなかった。
ヴィオレットの食事を後回しにしたことは一度ではない。
イザベルの用事を優先した日もあった。
面倒だからと放置したこともあった。
それでも、自分だけが悪いとは思わなかった。
「……私だけじゃないわ、他の人だって、やっていたでしょう!」
その夜も、自身の胃酸が臓腑を焼く痛みと、消化不良の腹の苦しみ、そしてそれでも治まらない飢えに爪が剝がれるほど、ベッドの上でもがき続けた。




