12 侯爵家の異変
ヴィオレットがそれを知ったのは、リーゼを通じてだった。
リーゼが本当に来訪するかも引っ越した当初は半信半疑だった。
リーゼというより神は気まぐれだからだ。
幼い頃、頭がガンガンと内側から鳴り響くように痛くて、シーツに嘔吐してもいくら泣いても誰も助けてくれなかった三歳の頃から、神は願えば通じる相手ではないと悟っていた。
しかし有言実行で、リーゼはちゃんとヴィオレットに会いに来て、雑貨屋で揃えた蒼いティーカップで紅茶を飲んでくれた。
それはヴィオレットにとって蒼白い頬を桜色に変化させるほどのインパクトがあった。
「お嬢ちゃんが笑ってるの初めて見たな」
エドガーはそう言って笑い、リーゼは「当然よ、私は神だからね!」と言って、エドガーの度肝を抜いた。
春の初めのある夜、リーゼはいつものように紅茶を飲みながら世間話のトーンで言った。
「屋敷が、おかしなことになっているのよ」
「ヴィオレットがいなくなってから、幽霊たちが落ち着かないの。あなたにはもう殆ど関係ないことだけど、まあ一応知らせた方が良いと思って」
「具体的に、何が?」
初めこそリーゼを畏れていたものの、すっかり距離を縮めたエドガーが、ヴィオレットより先に質問した。
「そうね、例えば昨日も事故があったわね。イザベル、ヴィオレットの義妹ね、その友人の令嬢が屋敷で大怪我をしたわ。
イザベルは家格が下の子としか付き合えていなかったから、家の意向で仲直りさせられに来た娘よ。
ヴィオレットにした仕打ちと、同じ方法で」
「お嬢ちゃんにした仕打ちってのは?」
「複数のグラスに向けて転んだわ。ヴィオレットの時は彼女がヴィオレットをグラスがいーっぱい乗ったトレーに向けて突き飛ばしたのよ」
「お嬢ちゃん!それ大丈夫だったのか!?」
「ええ、後頭部からの出血だけでした」
「それを世間では大丈夫じゃないって言うんだ。覚えときな。んで、死神様、本当のところは?」
「後頭部を強く打ち付けたことによる皮膚の裂傷、水風船を叩きつけて割るようなイメージの傷ね。
中から大量の出血による貧血や体温の低下、血液が足りないため内臓への負担。
あと脳みそにも衝撃があったわ、幸い骨は折れなかったけど、それからおかしな死神なんてものが見えたり聴こえたりするようになったの」
「そいつぁ酷い」
エドガーの輪郭が歪んだ。ぼうっと煙が出るように、炎の燃え始めのように揺らぐ。
ヴィオレットの後頭部の髪をヒョイと持ち上げて傷を確認しようとしているようだったので、ヴィオレットは自分で髪を掻き分けた。
傷跡の部分はスパッと切れたのではなく、破裂したような傷のため広く痕が残り、実は髪も生えなくなっている。
幸いヴィオレットは毛量があり、癖毛でボリュームがあるように見えたから、普段は全く困っていない。
「ここですね。縫合糸は皮膚に溶けているのですが、こうボコボコと皮膚が盛り上がっているせいなのか髪が生えていないところです」
「……」
普段立板に水のように軽妙に話す男が黙っているので、ヴィオレットはどうしたのかと振り向いた。
「……エドガー、顔が見えないのですが怒っているのですか?」
エドガーの輪郭だけでなく、存在そのものが轟々と燃え盛る巨大な炎のように揺らいでいた。
返事がないのでリーゼを見た。リーゼの口元が動いている。死者と死神で何か話しているようだった。
◇◇◇
「死んでもおかしくないだろう」
「そうね、グラスに突っ込んだ後、誰も彼女に駆け寄りもせず、受け止められなかった頭は固い石の床に打ち付けられた。
ガラスの破片と石の床で皮膚はズタズタに。衝撃で脳は揺れて、身体中の血や内臓がダメージを受けた。
人間は血が抜けすぎただけでも死ぬことがあるけれど、ヴィオレットの場合、脳みその衝撃を受けた場所が違ったら、死んだり一生寝たきりの可能性もあったわ」
「どうして事件になっていない!?何故お嬢ちゃんが保護されていないんだ!」
「怒りを鎮めなさい。悪霊になるわよ」
「それがどうした!?」
「言ったでしょう、家の奴らは皆碌でなしだと。そしてあの家の幽霊の誰かが、今やり返しているわ。あなたに出来るのはここでヴィオレットを癒して守ること」
「俺にやらせろ!女の子の頭ズタズタにして、一生の傷を残しておいて平気なツラしてるなんて許せねえ!」
「だからね、あなたのために近況報告をしに来たのよ。ヴィオレットはあの家族に何も期待していないから。復讐されて滅ぼされることすら望んでいないから」
◇◇◇
ヴィオレットはしばらく黙っていた。どうやらリーゼとエドガーの話は終わったらしい。エドガーが若い男性の姿に戻っていった。
リーゼは紅茶を飲み終えて、物をすり抜ける死神が紅茶を飲めるというのはどういうことなのか謎だけれど、とにかく飲み終えて席を立った。
ヴィオレットは見送りの言葉を言い終えてから、今日だけは一言加えた。
「もし誰かが命に関わる危険にさらされるような事態になれば、知らせてください。それだけは、考えます」
リーゼはわずかに輪郭を揺らせた後、頷いた。
「元気で」
「あなたも」
リーゼの輪郭は少しずつ薄れ、夜の中に溶けていった。
ヴィオレットは窓を閉めた。
エドガーが「何で人死にを気にするんだ」と言った。
ヴィオレットは当然と言わんばかりに答えた。
「私が殺したと噂されると商売の邪魔になるかもしれないので」
エドガーはそれでこそ嬢ちゃんだ!と何故かご機嫌だった。
ヴィオレットは侯爵家がこれから大変なことになりそうだと思った。
しかし同時に、自分がやるべきことは変わらないとも思った。
あの家の者たちが何を受けようと、それは彼らが積み上げてきたものの結果だ。
ヴィオレットが引き受けるいわれはない。
「……」
ヴィオレットは少し胸が満たされるような感覚があった。
それが、他人であるエドガーや幽霊たちがヴィオレットのために怒ってくれたことへの感謝や喜びであること。
自分を虐げてきた者達が相応の罰を受けたことへの達成感であることまでは明文化出来ていなかった。
その夜、ヴィオレットは久しぶりにゆっくりと眠った。
夢を見なかった。それは彼女にとって、良い眠りの証明だった。いつもは悪夢にうなされているので。




