番外編2話 雷鳴と無自覚な誘惑
【――本編より二年前。アルテミス14歳・中等部/シリウス16歳・高等部】
窓ガラスをびりびりと震わせる大気の震えが分厚い絨毯に吸い込まれて消える。
学園女子寮の最上階。
王族や大公、公爵家の令嬢のみに許されたこの特別区画は過剰なまでの静寂に支配されている。
下位貴族の媚びへつらう視線も無遠慮な囁き声も、ここには一切届かない。
分厚い防音壁と厳重なセキュリティ魔導具に守られた空間には現在、僕と数人の高位貴族しか足を踏み入れていない。
実質的にここは僕が彼女を囲うためだけに用意した隔離病棟だ。
手元の分厚い魔導書から視線を外し、低く、湿った息を吐き出す。
部屋の空気は冷暖房の魔導具によって常に適温に保たれているというのに肌を滑り落ちる微かな汗の感覚がひどく鬱陶しい。
はだけた黒絹の寝巻きから発散されるのはシエルが纏うような微かな体温ではない。
この部屋の空気をじりじりと焦がすような、持て余すほどの雄の熱気だ。
本来の姿に戻った僕はキングサイズの広すぎるベッドの背もたれに体重を預け、ゆっくりと目を閉じた。
(……心地よい嵐だ)
堅牢な防音壁が外の喧騒を殺しても大気を揺るがす規格外の重低音と震動までは防ぎきれない。
それがかえってこの特別区画の異常な「隔絶」を際立たせている。
魔力回路を休ませるための極秘の休息時間。
分厚い石造りの壁を隔てたすぐ向こう側に彼女がいる。
まだ中等部に在籍している、十四歳になったばかりのアルテミス。
目を閉じれば絶対的な防音壁の向こうから彼女の無防備な寝息が直接僕の脳髄を撫で回してくるような錯覚に陥る。
「シエルお姉様」という完璧で美しい仮面を被っている限り、彼女は僕に絶対的な信頼を寄せ、無防備な笑顔を向けてくる。
いつか必ず、あの白く細い首筋に深く歯を立てる。
「お姉様」という化けの皮を引き剥がし、逃げ場のない僕の絶対的な腕の中へ完全に閉じ込める。
その確固たる未来の輪郭をなぞるだけで、胸の奥底が甘く痺れた。
魔導書に視線を戻し、薄い唇の端で冷たく獰猛な笑みを深める。
ゆっくりと時間をかけて彼女の細胞の隅々まで僕の毒を染み渡らせてやればいい。
今はただ極上の果実が熟すのを待つための――。
ピカッ。
稲妻が重厚なカーテンの隙間を裂き、部屋を白日のように染め上げた。
数秒遅れて腹の底を殴りつけるような重たい震動が床を揺るがした。
コン、コン。
荒れ狂う自然の猛威に紛れ、ひどく頼りない音が室内の静寂を破った。
その微かな振動に弾かれたように魔導書を伏せる。
こんな真夜中、しかも嵐の最中にこの隔絶された領域を徘徊する物好きな教師などいない。
他の令嬢たちも自室のベッドで布団を被っているはずだ。
ならば、あの扉の向こうで雨に濡れた子犬のように震えているのは間違いなく彼女しかあり得ない。
「……予定外だな」
短く息を吐き、ベッドから身を起こす。
じっくりと時間をかけるつもりだったというのに。
大切に守り囲い込もうとしている本人が戸惑うほど、彼女は無防備に近づいてくる。
「……術式、再構築」
使い慣れた呪文を短く紡ぐ。
瞬間、光の粒子が全身を包み込んだ。
筋肉の鎧を纏った骨格が内側から軋みを上げて縮み、喉仏が滑らかに皮膚の下へ溶けていく。
高かった視界がわずかに下がり、鋭い瞳を隠すように鬱陶しくかかっていた前髪と無造作な毛先が一気に伸びて背中まで滑らかに流れ落ちた。
わずか数秒。
僕は北の大公家の野蛮な嫡男から学園のカリスマとして君臨する「氷の女王」シエル・フォン・ウィンターフェルドへと完全な変貌を遂げる。
鏡で確認する必要すらない。
声帯の微細な調整も優美な表情筋の動かし方もとうの昔に魂の形を変えるほど身体に染み付いている。
シルクのガウンを無造作に羽織り直し、足音の立たないスリッパを履いて、冷たい真鍮のドアノブへと手を伸ばした。
重厚な扉がゆっくりと開き、廊下の暖色系の薄明かりが足元に影を落とす。
「……アルテミス?」
意図して作り上げた、優しく、甘く、すべてを包み込むようなアルトの声。
そこに立つ彼女の姿を見た瞬間、僕の肋骨の奥で、暴れ狂う猛獣が歓喜の咆哮を上げた。
結い上げられていないプラチナブロンドの髪が、背中に無造作に散らばっている。
身につけているのは、肌の白さを際立たせる薄手のネグリジェとその上に羽織った頼りないショールだけ。
両腕には自室のベッドから持ち出したであろう真っ白な羽毛の枕が縋り付くようにぎゅっと抱きしめられていた。
「……ごめんなさい、お姉様」
見上げてくる赤い瞳は溢れんばかりの涙の膜でうるうると濡れている。
血の気の引いた青白い唇が寒さと恐怖で小刻みに震えていた。
「夜分遅くに……本当に、申し訳ありません。でも、私……」
今にも千切れてしまいそうなほど細く、掠れた声。
怯えた小動物のように僕の顔色を窺いながら枕を抱く指先の関節が白くなるほど力を込めている。
「このフロア、夜になると広すぎて……。雷が落ちるたびに、床がびりびり震えて……一人でいるのが、怖くて……っ」
弁解の途中で、再び建物の芯を揺らすような激しい震動が走った。
「ひっ」
短い悲鳴。弾かれたようにアルテミスが僕の胸元へと飛び込んでくる。
柔らかな身体が薄いガウン越しに激突した甘やかな香りと、温かく湿った体温。
すがりついてくる細い腕の感触、胸元から直接伝わってくる早鐘のような心臓の音。
それらすべてが狂おしいほどに鮮明で甘美だった。
誰も、見ていない。
この広すぎる廊下には僕たちの他に動く影は一つもない。
不純異性交遊を監視する教師の目も、下世話な噂を立てる令嬢たちの口も、ここには存在しない。
今ここで彼女の細い首筋に深く歯を立て、その甘い匂いを骨の髄まで貪り尽くしてしまいたい。
「優しいお姉様」という化けの皮を引き剥がし、一人の「男」として彼女をこの部屋の奥底へ引きずり込み、二度と外界へ出られないように頑丈な鍵をかけてしまいたい。
そんな雄の醜悪な独占欲が、真っ黒なタールのように胃の腑から絶え間なく湧き上がってくる。
だが僕は奥歯を軋ませて、暴れ出そうになるその衝動を必死に押さえ込んだ。
ここで僕が少しでも男としての牙を見せれば、彼女は必ず怯え再び固く心を閉ざしてしまうだろう。
「……可哀想に。怖かったんだね」
奥歯が砕けるほど強く噛み締め、必死に本能を檻の奥底へねじ伏せる。
背中に回した手で華奢な肩を壊れ物を扱うように優しく撫でた。
ひんやりとした彼女の肌の温度がガウン越しであっても、僕の手のひらを焼き焦がすように熱い。
「おいで、アルテミス。私の部屋なら少しは外の嵐も遠くなるはずだ」
震える背中を抱き寄せたまま、ゆっくりと一歩ずつ部屋の中へ後退する。
彼女は僕の言葉を一片の疑いもなく信じ切り、温もりにすがりついたまま自ら進んで僕という絶対的な安全圏へと足を踏み入れた。
重厚な扉が音もなく閉ざされる。
カチャリ、と微かな金属音を立ててオートロックの鍵がかかる音が外界との完全な断絶を告げた。
部屋の中央に鎮座する天蓋付きのキングサイズベッド。
そこに座らせるとアルテミスはふっと安堵の息を吐き出した。
怯えきっていた子猫がようやく安全な寝床を見つけて脱力したような、あまりにも無防備な仕草。
僕は分厚い羽毛布団をめくり、彼女をすっぽりと包み込むようにして隣に横たわった。
「……お姉様の匂いがします」
最高級の羽毛が詰まった枕に顔を埋め、舌足らずな声で呟く。
プラチナブロンドの長い髪が乱れ、純白のシーツの上に金糸の刺繍のように滑らかに広がっていく。
僕が日常的に纏っているミントを基調とした清涼な香油の匂い。それが彼女の言う「お姉様の匂い」なのだが、今の僕にとっては己の偽りを突きつけられているようで酷く滑稽に思えた。
「お姉様の部屋は、とても落ち着きます……」
すり、と甘えるような仕草で柔らかな額が僕の肩口に擦り寄せられる。
細い腕が背中に回され、ガウンの生地をギュッと握りしめてきた。
薄いネグリジェとシルクのガウン。
たったそれだけの頼りない布切れを隔てた場所に、柔らかな膨らみと微かに脈打つ心臓の鼓動がある。
廊下を歩いていた時は氷のように冷たかった肌は布団の温もりと安心感からか、じわじわと熱を帯び始めていた。
薄い布越しに伝わる熱が、直接血管へと流れ込んでくる。
シエルという女性の肉体を構築しているはずの魔力回路が、内側で暴れ狂う雄の本能によって焼き切れそうに熱を持った。
(……狂いそうだ)
吐き出したい獣の喘ぎを喉の奥で噛み殺し、ひどく慎重に呼吸をする。
肺に流れ込んでくるのは髪から漂う甘い石鹸の匂いと若い娘特有の甘やかな体臭ばかり。
理性を保つための清浄な酸素など、この密室のどこにも残されてはいない。
学園の最上階にぽつんと隔離されたこの空間の異常性が、今更ながらに僕の首を真綿で締め上げていた。
廊下には風紀委員も、見回りの教師さえ足を踏み入れない。
壁には完璧な防音の魔導具。窓枠には厳重なセキュリティ。
それはつまり、今このベッドの上で僕が彼女の薄いネグリジェを引き裂き泣き叫ばせたとしても、誰一人として助けに来ないという絶対的な事実を示している。
――だが、それは下策だ。
力尽くで身体を奪うのは容易いが、それでは恐怖で縛り付けるだけ。
僕が欲しいのは彼女が己の意志で、僕という『男』の腕の中に喜んで飛び込んでくる完璧な結末だ。
喉の奥から這い出そうになった雄の衝動を飲み込み、暗闇の中でひっそりと、獰猛な笑みを深める。
この狂おしいほどの焦燥すら、極上の果実が熟すのを待つためのスパイスに過ぎない。
手首に浮き出そうになる血管を静かに宥め、彼女から視線を逸らして首の筋が痛くなるほど天井を仰ぎ見た。
視界に映るのは、月明かりを反射して冷たく煌めく巨大なシャンデリア。
一つ、二つ、三つ。
ひどく馬鹿げていると分かっていながら無数に垂れ下がるクリスタルの飾りを目で追い、数え始める。
そうでもしなければ、今すぐにでも張り詰めた自制心をぶち破り、無防備な喉元に噛み付いてしまいそうだったからだ。
(……この特別待遇な環境が今は僕を苦しめる牢獄になるとはな)
外では未だに激しい雨が窓を打ち据え、重厚なカーテン越しでも分かるほどの稲光が走る。
数秒遅れて空を切り裂くような震動が床を伝うたび、アルテミスは「ひっ」と小さく身をすくませ腕の中に深く、深く潜り込んできた。
首元に顔を埋めガウンの襟元をギュッと握りしめる小さな手。
指先の微かな震えが胸板に直接伝わってくる。
「お姉、様……」
寝言のように呟く声。
見下ろすと彼女はすっかり安心しきったのか、規則正しい寝息を立て始めていた。
長い睫毛が透き通るような白い頬に淡い影を落とし、わずかに開いた桜色の唇から、甘く熱い吐息が零れ落ちる。
あまりにも無防備。
あまりにも、無知。
自分が今、狂おしいほどの独占欲を抱える男の腕の中に自ら飛び込み、その牙の届く距離で眠りこけていることなど欠片も疑っていない。
背中に回していた手に、ゆっくりと確かな独占欲を込めて力を入れた。
折れてしまいそうなほど細い腰を抱き寄せ、隙間なく密着させる。
胸の柔らかな膨らみが押し潰され、互いの体温がどろどろに溶け合うような錯覚。
下腹部に溜まった重たく熱い鉛のような欲望が、逃げ場を失ってズキズキと脈打っている。
「アルテミス」
耳元に、そっと唇を寄せた。
柔らかな耳殻の輪郭をなぞるようにギリギリまで顔を近づける。
ふわりと漂う甘い香りを肺の奥深くまで吸い込み、そして。
「……他の男の前では、その顔を見せるなよ」
声帯の魔法を、ほんの一瞬だけ緩める。
鈴を転がすようなシエルの声ではない。
低く、掠れた、地を這うような『シリウス』の雄の声。
それは重く響く雷の余波に紛れ、彼女の耳の奥を確かに震わせたはずだった。
「ん……」
アルテミスは微かに眉を寄せ、胸元にさらに顔を押し付けるように身じろぎをしただけで、また深く甘い眠りへと落ちていく。
僕が今、どれほどドロドロとした執着を持て余し、彼女を貪り食いたいという狂おしい衝動と戦っているかなど知る由もなく。
***
――翌朝。
嵐が嘘のように晴れ渡った空から眩しい朝日が分厚いカーテンの隙間を縫って差し込んできた。
腕の中で目を覚ましたアルテミスは自分が一晩中すがりついていたことに気づくと「お姉様、ごめんなさい……!」と顔を真っ赤にして何度も謝罪を口にした。
乱れた髪の隙間から覗く、うっすらと汗ばんだ白い項。
その無自覚な色香がどれほど残酷に僕の腹の底を焼き焦がしているかにも気づかずに。
「気にしなくていいよ。……また雷が鳴ったら、いつでもおいで」
完璧な『シエル』の慈愛に満ちた微笑みを浮かべて彼女を扉の向こうへと送り出した。
誰一人としてすれ違うことのない無人の廊下。
彼女は寝巻きにショールを羽織っただけの無防備な姿のまま、誰の目にも触れることなく自室へと帰っていく。
パタン。
隣の部屋の重厚な扉が閉まる音を聞き届けた瞬間。
僕はズルズルと壁に背を預け、分厚い絨毯の上に座り込んだ。
「……術式、解除」
一息に魔法を解く。
光の粒子と共に一気に膨張する筋肉と骨格が本来の形へと組み替わる暴力的なきしみ。
巨大な『シリウス』の身体に戻った僕は、熱を持った顔を両手で深く覆った。
「……早く、大人になれ。アルテミス」
誰もいない密室に、ひどく掠れた男の低音が反響する。
僕の理性の太い鎖がちぎれるのが先か、彼女が僕の腕の中に完全に落ちるのが先か。
首筋に浮かんだ脂汗を乱暴に拭い去りながら僕は壁越しに存在する彼女の甘い気配を血の滲むような思いでひたすらに貪り続けた。
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◎2026/2/24から連日、番外編1〜4話を1日1話ずつアップする予定です◎




