番外編1話 話氷の檻、鉄の歪み、君の熱
【――本編より五年前。アルテミス11歳/シリウス13歳】
ガンッと鈍く、情けない音が冬の夜の静寂を切り裂いた。
大理石の手すりに据えられた重厚な鉄柵。
渾身の力を込めて殴りつけた拳は硬質な冷たさにいとも容易く弾き返された。
骨の芯まで痺れるような鋭い痛覚。
純白のシルクを内側から食い破るように、じわじわと不吉な赤黒い染みが広がっていく。
だが、いまの僕にはその肉体的な苦痛すら、ひどく滑稽で惨めな証明にすぎなかった。
(……この程度の柵一つ、壊せない)
血の滲む拳を見下ろし薄い唇の端を歪める。
背後の分厚いガラス扉の向こう、王宮のホールから漏れ聞こえてくるのは着飾った人形たちが優雅にステップを踏むための甘ったるいワルツの旋律。
それが今の僕にはこの世で最も耳障りな雑音だった。
削ぎ落とされた骨格、薄い筋肉、白磁のように滑らかな肌。
魔術によって緻密に編み上げられた、鈴を転がすような声帯。
北の国境を護る『氷の牙』、ウィンターフェルド大公家の嫡男である僕が迫りくる暗殺の刃から逃れ、反撃の牙を研ぐために被った「氷の女王」という呪われた仮面だ。
誰もがこの作り物の美貌を讃え、儚げな白い肌に触れようと下卑た欲望を隠しもせずにすり寄ってくる。
先ほども、欲にまみれた豚のような老貴族が僕の腰にねっとりとした視線を這わせてきたばかりだった。
『シエル嬢のその細い腰は、強く抱きしめれば折れてしまいそうだ。……私が守って差し上げたい』
思い出すだけで、胃の腑からどろりとした酸っぱいものが込み上げる。
僕の魂は吹雪の戦場を駆ける大公家の男だ。
重い剣を振るい、領民を守るために魔獣の返り血を浴びる、誇り高き獣のはずだ。
それなのにこの身体はどうだ。
鉄柵一つ殴り壊すこともできず、自分の拳を血塗れにして震えるだけのひ弱な愛玩人形。
女の皮を被り、誰かに「守られる」ふりをして喉元に突きつけられた刃から目を逸らして生き延びるだけの滑稽な作り物。
いっそこのまま身を投げてしまえばこの屈辱的な生から解放されるだろうか。
冷たい夜風が吹き抜けるバルコニーで破滅的な仄暗い衝動が心を黒く塗り潰そうとしていた。
「……う、っ……ぐす……」
凍てつくような絶望の淵。背後から漏れ出た、押し殺したような嗚咽に心臓が揺れた。
弾かれたように顔を上げる。
反射的に殺気を放ちそうになる本能を奥歯で噛み殺し、氷のように冷たく完璧な「シエル」の微笑みを顔に貼り付けた。
バルコニーの深い暗がり。重厚な石柱の影にうずくまる小さな人影。
月明かりが暴き出したのは夜の闇に透けるようなプラチナブロンドの髪だった。
まだ十一歳になったばかりの、ローゼンバーグ公爵家の令嬢――アルテミス。
(……ああ。あの男に、置いて行かれたのか)
先ほど、絢爛豪華なホールで見た光景が脳裏を過る。
「神童」と名高い次期公爵、レオンハルト。彼の隣で彼女は必死に背伸びをして、公爵夫人の座に相応しい完璧な淑女を演じていた。
だが当のレオンハルトは隣にいる婚約者を一瞥だにせず、ただの事務的な飾り物のように扱っていた。
大人たちの輪に入るやいなや「子供は下がっていなさい」とでも言いたげな冷淡さで彼女を置き去りにしたのだ。
両手で顔を覆いしゃくりあげる彼女。
声を出すまいと必死に耐えているその小さな肩は痛々しいほどに細く、頼りない。
関わるべきではない。
言葉を交わせば、それだけで『シエル』としての平穏な擬態が乱れる危険がある。
今の僕には他人の悲しみに寄り添う余裕などない。
そう判断して踵を返そうとした、その時だった。
「あ……」
顔を上げた彼女と視線が絡め捕られた。
涙で濡れた赤い瞳が特徴的な銀青色の髪とこの姿を捉えた瞬間、大きく見開かれる。
「……シエル、様……?」
微かに震える声。思わず奥歯を噛み締めた。
直接言葉を交わしたことなど一度もないはずだ。
なのに、ただ名前を呼ばれただけだというのに、その響きにはひどく切実な『畏怖』とどうしようもないほどの重みが滲んでいた。
不可解な反応に警戒を強める目の前で彼女はハッとしたように肩を揺らす。
こちらを見つめていた瞳をすっと伏せ、逃げるように一歩、後ずさりをしたのだ。
きゅっとドレスの裾を握りしめるその姿はまるで絶対に触れてはいけない『破滅』から慌てて身を隠そうと萎縮しているように見えた。
先ほどまでの哀れな様子から一転、あからさまに距離を置こうとする不自然な態度。
自分から声をかけておいて逃げるような真似に不愉快さを隠さず冷ややかな視線を向けた。
その時だった。
伏せられた睫毛が、手すりに置かれた『右手の血』を捉えた瞬間。
「だめですわ……!ひどい血……!」
先ほどまで引こうとしていた境界線など跡形もなく消え去っていた。
アルテミスは悲鳴を上げる代わりに貴族としての矜持も何もかもを放り出し、躊躇うことなく真っ直ぐに駆け寄ってきたのだ。
戸惑う右手を、小さな両手がぎゅっと包み込む。
「お怪我をされています!血が……どうしよう、ひどい傷……」
自分の涙を拭うことも忘れ、彼女は胸元から純白のレースのハンカチを取り出した。
血で汚れることなど少しも躊躇わず、手から手袋をそっと外し傷口をハンカチで縛り始める。
「待って。君のドレスが汚れてしまう」
静止する声に彼女はふるふると首を横に振った。
「こんなもの、洗えば落ちます。でも、シエル様の傷は……痛むのではありませんか?」
その手は驚くほど小さく、それだけにひんやりとした夜気の中で火傷しそうなほどに温かかった。
傷に触れる指先は痛まないようにと、羽のように柔らかい。
その温もりに触れた瞬間、喉の奥に溜まっていた毒が不意に漏れ出した。
「……滑稽だろう?」
自嘲するような言葉が唇からこぼれる。
「夜会で少し腹の立つことがあってね。淑女らしからぬ八つ当たりをして、自分で怪我をしたんだ。……見苦しい癇癪さ。笑ってほしい」
己の無力さと粗暴さを突き放すように言った。
こんな血なまぐさい醜態を見せれば彼女も呆れて、気味悪がり、離れていくだろう。
だが、アルテミスはハンカチを結び終えると結び目にそっと両手を添えたまま静かに見上げてきた。
濡れた赤い瞳が、月光を反射して宝石のように輝いている。
「シエル様は、癇癪を起こしたのではありませんわ。……戦っていたのですね」
「……戦う?」
何を言っているんだ、この子は。
このか弱い、今にも折れそうな身体で。
鉄柵一つ壊せない、この精巧な偽物の腕で。
怪訝に眉を潜めるとアルテミスは真っ直ぐな眼差しで言葉を紡いだ。
「私、さっきまでホールにいたから分かります。……嫌なことや、理不尽なことがあっても、みんな作り笑いをしてやり過ごすのですわ。それが『貴族』ですから。……私だって、そうやって逃げて、ここで隠れて泣いていました」
彼女は一度だけ言葉を切り、きゅっと血の滲むような強さで唇を噛み締める。
再び、奥底にある何かを見透かすように見つめてきた。
「でも、シエル様は逃げなかった。……理理不尽な運命に作り笑いで迎合するくらいなら、拳が傷ついてでも、抗おうとした。……その怪我は、シエル様が戦った証です」
ドクン、と。
肋骨の奥で今まで聞いたこともないような暴力的で大きな音が跳ねた。
「シエル様は……まるで、お伽話に出てくる『誇り高き騎士様』みたいで、かっこいいです」
息が止まる。
頭の中が、白く、激しい光に焼き尽くされていく。
世界中の誰もが。親でさえも…身を守るための建前とはいえ「完璧な娘」として扱った。
この魔法で作られた完璧な美貌とか細い身体だけを見て「完璧な娘だ」と褒めそやした。
男としての魂は死んだのだと、誰もが疑わなかった。
けれど、この子は違う。
偽物の、ひ弱な肉体の奥底で、血を流しながら吼えていた僕の『騎士の魂』を。
ただ一人……この十一歳の少女だけが、真っ直ぐに見抜いたのだ。
「でも、騎士様だからといって、ご自分をいじめないでくださいね。……シエル様の綺麗な手が傷つくのは、私が悲しいから」
祈るように、血の滲むハンカチの上から、こつんと小さな額が押し当てられる。
「……っ」
布越しに伝わってくる柔らかな熱。
それが傷口から血管へと侵入し、凍てついていた全身の血液を瞬時に沸騰させる。
これほどまでに切実で、純粋で、存在そのものを根底から肯定する熱を、他に知らない。
「……シエル様。もう、行かなくては」
そっと手を離し、彼女は少し名残惜しそうに微笑んだ。
「大公家のシエル」と「公爵家の婚約者」として、遠巻きに存在を知り合っているのは言うまでもない。
けれど、このまま何事もなかったかのように見送ることなど、到底できなかった。
「……待って」
無意識に呼び止め、振り返った彼女の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「私の名を知っているなら。……君の名も、教えてくれないか」
知っている。
彼女が誰の所有物であるかなど、とうの昔に知っている。
けれど、あえて聞いた。
ただの社交界の飾り物としてではなく、この夜、暗闇の底から救い上げた一人の少女としてその名を直接刻み込みたかったのだ。
彼女は一瞬驚いたように目を見開き、今までで一番柔らかく無防備な笑みを浮かべた。
「……アルテミス、と申します。シエル様」
深々と一礼し、光に満ちた眩いホールへと戻っていく。
一人残された暗いバルコニー。
右手に巻かれた血染めのハンカチを、もう片方の手で狂おしいほど強く握りしめた。
(アルテミス・フォン・ローゼンバーグ……)
その名を一度だけ、声に出さずに唇の動きだけでなぞる。
それはただの布以上の絶対的な重みを持って、いつまでも肌に張り付いて離れなかった。
***
あの夜から数週間が過ぎても、僕の脳髄はその熱に冒されたままだった。
「戦っていたのですね」――舌足らずな甘い声が、呪いのように絶え間なく脳裏で木霊し続けている。
ウィンターフェルドの影(密偵)を使役し、彼女に関するありとあらゆる詳細な報告をさせた。
デスクに広げられた分厚い報告書の束。
そこに記されていたのは十一歳の少女が背負うにはあまりにも過酷で、歪みきった現実だった。
五歳から課せられた、食事の間さえ許されない過密な花嫁教育。
周囲の大人たちからの「公爵夫人に相応しくない」という心無い嘲笑と圧力。
何より婚約者であるレオンハルトの底冷えするような無関心。
夜会で見せていたあの完璧な微笑みがいかに凄絶な忍耐と、血の滲むような努力の上に成り立っているかを克明に暴き出していた。
(……なるほど。そういうことか)
インクの匂いが染み付いた羊皮紙から視線を外し、革張りの背もたれに深く沈み込む。
重苦しい鉛が、ゆっくりと胃の腑に落ちていった。
あの公爵家という名の逃げ場のない戦場で彼女もまた、たった一人で血を流しながら戦い続けているのだ。
僕と同じように。
自分自身の心を殺し、他人に望まれる「完璧な仮面」を被りながら。
「……ふふっ」
喉の奥から、低く、湿った笑い声が這い出る。
暗闇の中で自分と同じ火を灯している同類を見つけた、背筋が粟立つほどの悦び。
王家に阿り、権力を貪るだけの醜悪な大人たちの中にあって、彼女だけが僕の真実を、隠された魂の咆哮を射抜いた。
この広い世界で僕の「騎士の魂」に気づいたのが、まさかあんな小さな孤独な少女だったとは。
その事実が胸の奥に巣食う昏い欲望を静かに、けれど確実に育てていく。
あの温かな手が、あのか弱い背中が、いつかあの無能な男の冷たさに折れて消えてしまうのを想像するだけで心臓がチリチリと焼け焦げるような不快感に襲われた。
公爵家の次期夫人となる彼女に、ウィンターフェルドの男として近づくのはリスクが大きすぎる。
不用意に接触すれば、レオンハルトという番犬に牙を剥かれ、大公家の秘密すら露見しかねない。
(……だが、『シエル』としてなら)
立ち上がり、自室の姿見の前に立つ。
そこには魔法によって精巧に作り上げられた、冷徹で美しい令嬢がいた。
今までこれほど忌まわしかったはずの仮面が今は最高の手札に見える。
女の振りを演じ続けている限り、僕は誰に咎められることもなく彼女の最も近くに寄り添う「姉」になれる。
彼女が一人で戦い、疲れ果て、誰にも見せずに涙をこぼした時。
あのバルコニーの夜と同じように真っ先にハンカチを差し出せる唯一の絶対的な聖域になれるはずだ。
「……悪くない」
鏡の中の「氷の女王」がひどく雄々しく、獰猛な笑みを浮かべた。
血に染まったレースのハンカチを、引き出しの最奥――僕以外の誰の目にも触れない絶対的な場所へと仕舞い込む。
カチャリと鍵を回し、冷たい金属の感触を指先でなぞった。
まずはお茶会の招待状からだ。
彼女が僕に向けたあの不可解な畏怖を、逃げ場のない絶対的な依存へと作り変えるために。
僕の中に眠る獣は、この日、命を懸けて守り抜くべきたった一人の少女を見つけた。
完璧な人形たちが交わした血と涙の秘密は、深く、暗く、重たい執着の楔となって、僕の心臓を永遠に縛り付けることになったのだ。
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◎2026/2/24から連日、番外編1〜4話を1日1話ずつアップする予定です◎




