ノックは三回。ゆっくりと 4
結果として、李野くんは李野くんだった。
それが分かった瞬間、胸の奥に溜まっていた得体の知れない不安が、ほんの少しだけほどけた気がした。
「やははー。流石に一人で過ごすには心細すぎましてなー」
後頭部をぽりぽり搔きながら、キューは星を崩す。
その仕草も、その声色も、間違いなく李野くんのそれだ。
……それでも完全には安心できない。
このホテルでは、それっぽい何かが一番信用できないと、疑心暗鬼に陥っている。
「フロントを頼ろうにもミイラや骨だしね」
垂須さんが打ち出したキューで、三日月が角度を変えた。
乾いた音が、妙に大きく響く。
遊戯室の広さのせいか、それとも静けさのせいか。
「あと、いるね絶対。あのフロントの、空いてた方の窓口。あそこ。確実に。何かが」
あの光景を思い出しただけで、背筋がじわりと冷える。
誰もいないはずの窓口で、勝手に動く羽ペン。
音もなく、ただ、何かを記録し続ける動き。
……あれは見てはいけない類のものだ。
で、俺のキューで三日月を半月に変えて……
「ミスショット!」
「この距離で外すかぁ?」
自分でも笑えるくらい、力加減が狂っていた。
指先が微妙に震えている。
なんだろうね、このビリヤードもどき。
台とキューはビリヤードその物なのに、ボールが一個も無くて。
あるのは星、月、太陽。
丸くもなければ、質量も曖昧で、当たったときの感触も妙に柔らかい。
ルールとか全然わかんないけどテキトーに遊んでる。
所詮は時間つぶし。
怖い想いに押しつぶされないように、気持ちを入れずに上っ面で楽しいフリしてるだけだから。
何も言わずともそういう共通認識、持ってるだけだから。
三人とも、分かっている。
これは遊びじゃない。
やり過ごすための行為だ。
沈黙が続いたら、何かが入り込んでくる気がするから。
だから音を出す。会話をする。笑う。
そうすることでなんとか、正気を繋ぎ止めている。
「ところで李野はなんでボーイから締め出されたの?」
垂須さんの質問に李野くんは照れながら答える。
「やはは。知識欲が暴走しちゃいまして」
いつものこと。
この一言で説明がついてしまうのが恐ろしい。
「ほら、ホラーの文脈では、怪しげな噂のあるホテルで」
李野くんは壁際にかかっている風景画に手をかける。
その動きに、胸がざわつく。
やめろ、と言う前に、次の言葉が続く。
「掛け軸や絵画をめくると、その裏にお札が張られてたりするでしょう?」
あるあるだ。
俺と垂須さんが頷いた。
頷いてしまった。
それが、まずかったのかもしれない。
「で、室内の絵画をこうやってめくって」
李野くんが絵画めくると、その後ろに『†SEAL†』と書かれた、
どす黒く鳴動するお札があった。
視界に入った瞬間、理解した。
あ、やば……!
これは「演出」じゃない。
これは「設定」でも「ネタ」でもない。
触れてはいけないもの。
俺はよくない流れを直感して李野くんに手を伸ばす!
垂須さんもダッシュタックルの姿勢!
でもお互い一歩間に合わず!
「こうやって剥がそうとしたら、ブチ切れてしまいまして」
ぺりっ。
剥がした。
剥がしてしまった。
無造作に。
あまりにも軽く。
『第一の禁忌:封印を解いてはならない』
その文字が、頭の中で鐘みたいに鳴り響く。
遅れた垂須さんのタックルは李野くんを捉えて諸共転倒。
しかし李野くんに反応は無い。
押し黙ったまま、仰向けに倒れたまま。
白目を剥いたまま、動かない。
時間が止まる。
音が消える。
「李野……?」
膝立ちになった垂須さんが、硬い声色で李野くんを呼ぶ。
返事は無い。
ただ――
封印のお札から、何かが、入った。
そんな確信だけがあった。
李野くんは、まるでマリオネットのような、
肉体科学では説明のつかない起き上がり方をして。
女児の声で歓喜した。
「カラダ!アル!カラダ!アル!カラダ!アル!カラダ!アル!」
「「うわああああ!?」」
理性が吹き飛んだ。
考えるより先に体が動く。
俺と垂須さん、もんどりうって遊戯室を脱出!
「フロントへ!」「みんなを呼ぼう!」
いきなり意見のバッティング!
遊戯室からは変わらず女児の声!
追ってきているのかどうかも分からない。
振り返る勇気なんてない。
沈黙。
視線の交錯。
決断は一瞬。
「……手分けしよう」
「お気をつけて」
「君もな」
垂須さんはフロントへ向かい、階段へダッシュ!
俺は仲間たちが宿泊してる四階へ向かい、エレベーターへダッシュ!
背後でまだ笑い声が響いている。
「ウレシイ!ウレシイ!ウレシイ!」
あれはもう李野くんじゃない。
やばい……
やばい……
呼吸が浅くなる。
心臓がうるさい。
エレベーターは既に二階。
俺たちが最後に乗った模様。
すかさず4のボタン。
この数秒がやけに長い。
閉じる音も、上昇する感覚も、全部が遅い。
緑と黄色の光の粒が筒状になって、魔道エレベーターは四階に静かに着地。
鉄扉の空くゆったりとした時間に苛立ちながら、
体が潜れそうな隙間になった瞬間、廊下へ飛び出す。
廊下へ……
廊下じゃないな、これは。
土壁の回廊だ。
ぼうと青く発色するヒカリゴケ。
一瞬で理解する。
間違えた。
来てはいけない場所に来た。
エレベーターの扉も消えた。
どこかから水の下たる音。
ぴちゃーん。
ぴちゃーん。
掘り返した土の臭いと、もうすこし、甘くて不快な……
恐らくは、腐敗臭。
『禁忌2:ありえない通路では決して後ろを振り返ってはならない』
やっちまった!
垂須さんと別れるんじゃなかった!
ありえない通路に迷い込んでしまった!
足がすくむ。
でも止まれない。
止まったら終わる気がする。
立ち止まっていれば済むのか?
朝がくれば廊下に戻るのか?
わからない。
何もわからない。
ただ怖い。
じっとしていることに耐えられない。
あと五分もここで立ち竦んでいたら、俺は頭をかきむしって絶叫してしまう自信がある。
だから進もう。
前へ。
ゴールがそこにあることを信じて。
歩き出す。
一歩、二歩。
カリカリカリ。
背後で何かを削る音。
振り返ってはならない。
ふぅぅぅぅう。
すぐ後ろから俺の耳に吹きかけられる息。
振り返ってはならない。
「市籠もう安心だ! こっちへ来い!」
垂須さんが呼び止める。
振り返ってはならない。
「どっきり大成功! ははは! やっぱりお前は新人類だわ」
黄石が嘲る。
振り返ってはならない。
「市籠くん~~、見捨てないでくだされ~~」
李野くんが縋りつく。
振り返ってはならない。
理屈では分かっている。
全部偽物だ。
全部罠だ。
でも、声は本物すぎる。
振り返ってはならない。
記憶と結びついている。
心を揺さぶってくる。
脳みそをかき乱してくる。
振り返ってはならない。
振り返ってはならない!
「ああーーーーーーっ!」
俺は耐えきれず猛ダッシュ!
走って、走って。
振り切って、振り切って。
足音も、声も、全部置き去りにする勢いで。
そうして、やっと見えて来た。
行く先にぼうっと光る、やさしい形。
女神様。
あそこがゴールだ!
あそこまで行けば、彼女に縋りつけば!
俺は助かる!
そう信じるしかなかった。
走って、走って。
振り切って、振り切って。
ついに俺は女神さまにたどり着いた。
「よく耐えぬきまシたね」
サンタフェさん……
あなたはジェネリック女神なんかじゃなく、オリジン女神だったのですね……!
涙があふれて止まらない。
光が溢れて止まらない。
ああ、俺は今、生きている!
死なずに済んだ!
圧倒的な幸福感と感謝!
闇と土の通路は消え去り、雲と光の回廊が現れる。
現実が戻ってきた。
救われた。
試練を耐え抜いた!
「ほら、もう大丈夫でスよ。道を戻られたらホテルまで一直線でス」
慈愛に満ちた笑みでサンタフェ様が背後を指す。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
俺はサンタフェ様に二礼二拍手一礼すると、今来た道を振り返る。
土とヒカリゴケの回廊。
その瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
あ。
今。
「はい、ざーんねーーーん」
背後でサンタフェ様の嘲笑が聞こえた。
――暗転。




