ノックは三回。ゆっくりと 3
はっと気づいた。
「俺、デザートにツルル食べるの忘れてた!?」
口から出た言葉が、やけに現実離れしていた。
さっきまで胸の奥に渦巻いていたものと、あまりにも温度差がある。
「やっと再起動したと思ったらそれか」
同室の垂須さんが苦笑する。
その声を聞いて、ようやく自分が「ここ」に戻ってきた実感が湧いた。
重たい霧の中から、ふっと顔を出したみたいな感覚だ。
「再起動とは?」
「だって市籠、夕食から戻ってきたらじっと固まっちゃって、全然反応しないんだもん。僕はもしかしたら君が魂を抜かれちゃったんじゃないかって、マジで心配したんだよ」
あー、そういえば。
思い返そうとすると、記憶の輪郭が曖昧だ。
ぼやけてる。
夕食会場を出てからここまで、一本の線で繋がっていない。
『ノックは三回、ゆっくりと』
あの一言。
ハナさんの囁きだけが、妙に鮮明に残っている。
それを境に、現実が夢に侵食されたみたいだった。
どうやって部屋まで戻ったのか。
誰と何を話したのか。
断片的にしか思い出せない。
あのハナさんが。
ハナさんなのに。
あんな声で。
あんな距離で。
あんな……
「おーい市籠、市籠?」
「はっ、失礼」
「いや本気で心配になって来たよ。随行医さんのとこに行こうか?」
「大丈夫ですよ大丈夫。心当たりあります」
言いながらも、その心当たりの正体が自分でもよく分かっていないのが、少し怖かった。
「その心当たりってホラー的なやつ?」
「違くて」
「あ。あーあー」
急に納得声の垂須の兄貴。
「衿衣ちゃん絡みか!」
ニアピン!
そうだ、俺には衿衣がいたんだよ!
この世界に来てから、いや、一次予選で後ろ姿を見つけたときから。
ずっと印象が消えなくて、忘れられなくて。
意思が強くて、でも不器用過ぎて、危なっかしくて、放っておけなくて。
で。
ぶっちゃけ惹かれてる。
それなのに。
『ノックは三回、ゆっくりと』。
ハナさんの誘惑に揺れること自体が不誠実!
……誘惑なのか?
流れ的には間違いなく誘惑。
俺はその様にあの事件を受け止めてる。
だから今までフリーズしてた。
でもハナさんだ。
あの人のことだ。
結果的にズコーってなる展開も十分考えられる。
むしろそっちの方が自然ですらある。
考えられるが……
『ノックは三回、ゆっくりと』
あの声音。
耳元で、吐息が触れる距離で囁かれた、あの一言。
軽さも、冗談も、一切含まれていなかった。
むしろ逆だ。
重かった。
静かで、じっとりして、それでいて妙に熱を帯びていて。
こんなにも背筋が凍える声で。
男女の情が一切絡まない、なんてことは無いはず。
そう思ってしまう。
思ってしまう自分がいる。
「そっかー。愛だの恋だのに集中できる若さがまだあるんだなー。21歳には」
「垂須さんだって三つ上だけじゃないですか」
「そういう恋愛集中力? 想いに向き合う持久力? それが年々失われてくのを実感しててさ。淋しいことに」
冗談めかした言い方だけど、その言葉にはどこか実感が滲んでいた。
現実を知っている人の言葉だ。
そういうものなのか。
恋とか愛とかって、時間と一緒に摩耗していくものなのか。
「生活に追われてるとさ。どうしても。やっぱり精神的な余裕って大事だよな」
精神的な余裕、か。
その余裕は本来、衿衣で埋め尽くされているべきだ。
他の誰でもない。
ハナさんはともだちなんだ。
楽しくて、距離が近くて、時々振り回されるけど。
それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
なのに。
『ノックは三回。ゆっくりと』
あの、たった一言で。
俺の中の余白が、上書きされてしまった。
脳が痺れてしまった。
どうなのこれ?
俺が浮気性ってこと?
行けそうな方にふらっと行っちゃう人間だったと?
いやいやいやいや。
そんな単純な話じゃない。
これは多分、「好奇心」だ。
未知への恐怖と、同時に引き寄せられる感覚。
あの声の奥にあったもの。
ハナさんらしからぬ雰囲気。
その真実を確かめないままではいられない。
じゃないと。
囁きがひっかかりとなって。
明日からハナさんと「ともだち!」出来なくなってしまう。
今まで頑張って意識しないようにしてたのに、
これからは逐一女性として意識してしまうようになる。
なってしまうような気がする。
うー、わからん!
頭の中で理屈をこねても、結論は出ない。
でも、一つだけ確かなことがある。
24時。
行かなくちゃいけない。
あの場で断らなかった以上、どうあれ。
どんな気持ちであれ。
どんな結果が待つにせよ。
行かなくちゃいけない。
逃げるのは違う。
それだけは分かる。
行った先で待っている何かに対して。
誠実に。
誠意を持って。
冷静に対応しなくてはならない。
コンコン。
思考の静寂を切り裂くノックが二回。
続いて心細そうな声が聞こえてきた。
「市籠くん、垂須さん。入れてもらえません?」
李野くんの声。
空気が一変した。
さっきまでの内面のぐるぐるが、一気に現実に引き戻される。
「李野くんどうした――」
立ち上がり扉を開けようとした俺の手を、垂須さんが止めた。
「招き入れてはならない」
真剣な顔で、首を左右に振る。
その目に、さっきまでの軽さはない。
宿るのははっきりとした警戒心。
「え、でも李野くんだし」
「確かに。李野くんの《《声は》》しているな」
真剣な表情、崩れず。
「《《声は》》しているって……」
コンコン。
「開けてくだされー」
その声は、どう聞いても李野くんだ。
聞き慣れた、穏やかな声音。
でも。
だからこそ、逆に。
嫌な違和感が、じわりと胸の奥に広がる。
息を殺す、俺と垂須さん。
嫌な感覚は無い。
恐怖で身体が硬直するような感じでもない。
でも。
李野くんだと判断できる要素はこの扉越しの「声」しかないというのも事実。
コンコン。
「ボーイに締め出されてしまいましてな。ほとぼりが冷めるまで入れていただけませんかな?」
コンコン。
「キングには断られてしまい、墨市には居留守を使われてしまって……やはは。困っておるのですよ」
他の連中も招き入れには警戒している模様。
それが余計にこの状況の異常さを強調する。
「……どうします?」
「ここは無視だろ」
即答。
迷いがない。
「でも誰にも入れて貰えないって」
「クイ研の連中ですら招き入れなかった。君はこの点をもっと重視すべきだよ」
「……確かに」
合理的な判断だ。
身を守る上では正しい。
サンタフェさんにウインクが無かった。
その事も懸念事項の一つ。
でも。
コンコン。
「やはりサンタフェさんのルールを気にされておられますか……私は私なのですが……」
その声に混じる、わずかな寂しさ。
それが、心を揺らす。
俺は折衷案を取ることにした。
「2階に遊戯室があったろ?」
「ビリヤードっぽい台がありましたな」
「あそこで時間を潰さないか? 先に行って、扉を開けたまま待っててくれ」
「成程。わかりましたぞ。お気遣い感謝です」
声と共に李野くんが廊下を歩き去る気配。
その足音が遠ざかっていく。
それを、しばらく二人で黙って聞いていた。
完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐く。
「と、いうわけで。俺は今から遊戯室に行ってきますけど。垂須さんはどうします?」
「僕が残っちゃったら、帰って来た君を招き入れられないだろう? 行くよ、僕も」
「すみません、勝手しちゃって」
「いいよいいよ。李野は話せるクイ研だ。僕だって放っておきたくはないからさ」
こうして。
垂須さんの協力の下、俺たちは遊戯室へと向かう。
廊下に出ると、空気が少しひんやりしていた。
さっきまで感じていた、あの内側の熱とは違う冷たさ。
静まり返ったホテル。
どこかで何かが蠢いているような、そんな錯覚を覚える。
それでも、足は止めない。
一歩一歩、確かめるように進む。
頭の片隅では、別のことがずっと渦巻いている。
ハナさん。
あの声。
あの約束。
遊戯室に行って。
時間を潰して。
それから――
時刻は21時。
約束の時間は24時。




